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わたくしの両親は、いわゆる「戦中派」でした。両親が生まれ育ったかつてのこの国の歩みを、…

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わたくしの両親は、いわゆる「戦中派」でした。両親が生まれ育ったかつてのこの国の歩みを、15世紀から辿ってみます。「日本史」でも「世界史」でもありません。近年の言葉でいえば「グローバルヒストリー」が中心の独り言、余談を交えて書き連ねます。

マガジン

  • 9.続く条約締結(英・露・蘭)

    1854年の日米和親条約締結以降、1856年初頭までに幕府は、3カ国と条約を締結します。その過程で幕府も「条約締結」というものの意義を認識するようになります。米・英・露とは「結ばされた条約」、蘭とは必要にかられて「結んだ条約」でした。その過程をみていきます。

  • 余話・雑感などなど

    日本をとりまく歴史の余話や、時折り考えてしまう諸々のことを書き連ねます。「教科書が教えない歴史」という本がありますが、言ってみればそんなジャンルかもしれません。

  • 8.日米和親条約の締結

    ペリー艦隊の再来。「日米和親条約」の締結をもって「開国」と歴史では習うはずですが、当時の人々は「開国」とは捉えてはいません。また、恫喝に屈した条約と習うはずですが、交渉過程をみればそれも事実とは異なります。アヘン戦争後に清が列国と結ばされた条約と比べてみれば、一目瞭然です。それをみていきます。

  • 7.ペリー艦隊最初の来航

    日本遠征艦隊の司令長官に任命されたペリーがいいよいよ日本にやってきます。幕府の官僚たちは、どう対応したのでしょうか?この頃の幕府は、評判が悪い。その1年前から来航情報は知られていたにもかかわらず、無為無策で過ごしたといわれるからです。それは事実なのでしょうか?それをみていきます。

  • 4.それから

    日本と清という2大プレーヤーが、鎮めていた海が、再び西洋によって荒れるようになります。最初はオホーツク海のロシア、そして太平洋からイギリス、アメリカと。18世紀からペリーが日本へ向けて出航する艦隊の司令長官に任命されるまでの物語です。

記事一覧

9-1.イギリス東インド艦隊の長崎来航

オランダ海軍中佐ファビウスの来日 1854年8月22日、クルチウスの前年の進言を受け、オランダ海軍の蒸気軍艦スンビンが長崎へ来航しました。これは、翌年にオランダ国王か…

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16時間前
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「歴史」というもの

変体仮名 必要にかられて「大日本古文書幕末外国関係文書/東京大学資料編纂所」にあたっている。大正9年に発行されたものの復刻版(昭和47年)である。いわゆる一次資料と…

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1日前
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8-8.ペリー去る

徳富蘇峰の慨嘆 ペリー艦隊は6月25日に、下田を出航、帰途につきます。林もこの日に役目を終えて江戸へと戻ります。約4ヶ月半にも及んだ、ここまでの道のりでした。 さて…

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7日前

8-7.下田での交渉

ペリー箱館へ ペリーは、下田での検分を済ませたのちに箱館へ向かいました。箱館にはいったのは5月17日です。当時の箱館は、幕府の直轄領ではなく松前藩領です。幕府は、…

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8日前
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8-6.日米和親条約の中身

4つの条約原文 幕府がアメリカと結んだ条約は「日米和親条約」(神奈川条約ともいわれる)として知られていますが、原文が4種類ありました。英語、日本語、漢語、オランダ…

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9日前

8-5.日米交渉その3

献上品の交換 3月24日の3回目の会談時、日米双方の献上品の交換がおこなわれました。その2年前、ペリーがアメリカを出航する時から用意周到に準備した蒸気機関車の四分の…

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10日前
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8-4.日米交渉その2

日本の回答 幕府は、ペリーの条約草案には回答せず、独自の方針を作成して翌9日にペリーに届けました。それは 石炭・薪水・食料の供給と 難破船と漂流民の救助は承諾す…

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11日前
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8-3.日米交渉

アメリカ国書への返答書 3月8日、ペリー一行総勢約450名が27隻のボートで横浜村に上陸しました。応接所周辺は、浦賀奉行、江戸の町奉行の与力・同心200名が警備にあたり、…

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12日前
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8-2.応接場所の決定に2週間

「横浜」での応接決定 アダムズと林の応接は終始和やかな雰囲気でおこなわれたようですが、交渉は相変わらず平行線です。 翌23日には、前回アメリカとの交渉にあたった香…

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13日前
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8-1.再来1854年2月12日

今からちょうど170年前のことになります。ペリーは、横浜で条約締結を済ますと、その後に下田、函館へ向かい、6月に再び下田に戻ってくる行程でした。下田に停泊中に有名な…

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2週間前
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7-17.余話として(ロシア船へ運ばれたモノ)

「7-15.物資補給問題と軍艦発注」で述べた、停泊中のロシア艦隊へ向けて 何が運び込まれたのかは、「和親条約と日蘭関係/西澤美穂子」に詳しく出ています。現在もオランダ…

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2週間前

7-16.日露交渉の終結

外交顧問のようになったクルチウス 水野、大沢の両奉行はクルチウスと計4日間、合計で13〜14時間にも及ぶ秘密裡の会談を行なっています。奉行からの問いかけに対してクル…

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2週間前
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7-15.物資補給問題と軍艦発注

ロシア艦隊への物資補給問題 この滞在時、長崎には新たな問題が持ち上がり、それもクルチウスなしでは解決できない問題でした。 それはロシア艦隊への物資の補給問題です…

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2週間前

7-14.ロシア艦隊長崎へ

再びクルチウス さて長崎では、通詞たちの忌避により一旦は冷え込んだようなクルチウスとの関係ですが、ペリーの来航がそれを大きく変えました。 「7月7日。通詞の吉兵…

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2週間前
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7-13.動きだす阿部政権

ペリーが去った10日後、1853年7月37日には12代将軍家慶が逝去。次の将軍家定の就任は4ヶ月後の11月となりますが、この4ヶ月間で、阿部はさまざまな方策を打ち出していきま…

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3週間前

7-12.国書受け取り

国書受取りを伝える 回答期限当日(7月12日)。「遠征記」によると、朝9時半頃3隻の船がやってきたとあります。前回同様、香山栄左衛門、堀達之助、立石得十郎の3名がサス…

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3週間前
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9-1.イギリス東インド艦隊の長崎来航

9-1.イギリス東インド艦隊の長崎来航

オランダ海軍中佐ファビウスの来日

1854年8月22日、クルチウスの前年の進言を受け、オランダ海軍の蒸気軍艦スンビンが長崎へ来航しました。これは、翌年にオランダ国王から将軍に贈呈されることになるものです。クルチウスは、この蒸気艦の滞在中、日本人に対船舶用蒸気機関術、砲術、航海術の伝習と情報提供を行なう用意があると奉行所に伝えました。また、艦長の海軍中佐ヘルハルドゥス・ファビウスは幕府に対し、洋式

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「歴史」というもの

「歴史」というもの

変体仮名

必要にかられて「大日本古文書幕末外国関係文書/東京大学資料編纂所」にあたっている。大正9年に発行されたものの復刻版(昭和47年)である。いわゆる一次資料といえるものだ。漢字は当然ながら全て昔のもので、文体は変体漢文の候文。相当な時間を要するが、これはなんとか読める。問題は、ところどころに出てくる「変体仮名」である。これの解読ができない。

そもそも変体仮名は約200種あるらしい。似たよ

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8-8.ペリー去る

8-8.ペリー去る

徳富蘇峰の慨嘆

ペリー艦隊は6月25日に、下田を出航、帰途につきます。林もこの日に役目を終えて江戸へと戻ります。約4ヶ月半にも及んだ、ここまでの道のりでした。

さて、この条約は巷間言われているように、圧倒的な軍事力によって恫喝され、言いなりになって結ばされたものだったかもしれませんが、「戦争をも辞さず」の決意をもつアメリカと、「戦争だけは避けたい」という日本の姿勢では、日本が弱腰になるのは仕方

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8-7.下田での交渉

8-7.下田での交渉

ペリー箱館へ

ペリーは、下田での検分を済ませたのちに箱館へ向かいました。箱館にはいったのは5月17日です。当時の箱館は、幕府の直轄領ではなく松前藩領です。幕府は、松前藩の江戸詰留守居役にアメリカ船がそちらへ向かうことを条約調印の前日(3月30日)に告げ、あわせて現地へも早飛脚を飛ばして「アメリカ船への薪水食料の補給地として、箱館港を開く」、「アメリカ船が来ても、穏便に取り計らい、無礼をしてはなら

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8-6.日米和親条約の中身

8-6.日米和親条約の中身

4つの条約原文

幕府がアメリカと結んだ条約は「日米和親条約」(神奈川条約ともいわれる)として知られていますが、原文が4種類ありました。英語、日本語、漢語、オランダ語です。国家間の取り決めである条約が有効性をもつためには、署名と正文の2つの形式が必要で、これは現在もかわりません。

ところが、この条約にはそれがなく非常に曖昧なままでした。双方の全権、つまりペリーと林双方が署名したものがないのです。

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8-5.日米交渉その3

8-5.日米交渉その3

献上品の交換

3月24日の3回目の会談時、日米双方の献上品の交換がおこなわれました。その2年前、ペリーがアメリカを出航する時から用意周到に準備した蒸気機関車の四分の一の模型、電信設備など、合計で140にものぼる品々が幕府に献上されました。蒸気機関車の模型とはいえ、その屋根に大人が乗ることができるものです。幕府側からも、アメリカの要請(例えば漆塗りの箪笥、和船など)にしたがうかたちで揃えられたもの

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8-4.日米交渉その2

8-4.日米交渉その2

日本の回答

幕府は、ペリーの条約草案には回答せず、独自の方針を作成して翌9日にペリーに届けました。それは

石炭・薪水・食料の供給と

難破船と漂流民の救助は承諾するが、

避難港の開港に関しては5年間の猶予期間をおく。それまでは長崎を充てる

という内容でした(「幕末外交と開国/加藤祐三」P187〜188)。

我々は略奪の旅にやってきたのか

これに対し、11日にペリーから回答がきました。「

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8-3.日米交渉

8-3.日米交渉

アメリカ国書への返答書

3月8日、ペリー一行総勢約450名が27隻のボートで横浜村に上陸しました。応接所周辺は、浦賀奉行、江戸の町奉行の与力・同心200名が警備にあたり、その外周は小倉藩、松代藩、因州藩(鳥取藩)が警備に当たっていました。

交渉の冒頭、林からペリーへ前年の大統領国書への返答書が手渡されました。そこには、将軍崩御にともなう国政事務の遅滞から始まり、旧来の法を即座に変えることの不可

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8-2.応接場所の決定に2週間

8-2.応接場所の決定に2週間

「横浜」での応接決定

アダムズと林の応接は終始和やかな雰囲気でおこなわれたようですが、交渉は相変わらず平行線です。

翌23日には、前回アメリカとの交渉にあたった香山栄左衛門が、アダムズの乗る船に姿を現しました(「幕末外交と開国/加藤祐三」によれば、アメリカ側から香山の再登板を促す書状が渡ったらしい)。あくまでも私信としてアダムズに「浦賀での交渉に応じるようペリー提督へ頼んでもらえまいか」という

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8-1.再来1854年2月12日

8-1.再来1854年2月12日

今からちょうど170年前のことになります。ペリーは、横浜で条約締結を済ますと、その後に下田、函館へ向かい、6月に再び下田に戻ってくる行程でした。下田に停泊中に有名な吉田松陰の密航企て事件があり、箱館に入ったのは5月17日ですので、今頃は下田に停泊して箱館への出航準備をしていた頃だと思います。

黒船見ゆ

1854年2月12日、7隻の艦隊(蒸気戦艦は3隻)が再びやってきました。今回は浦賀を大きく越

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7-17.余話として(ロシア船へ運ばれたモノ)

7-17.余話として(ロシア船へ運ばれたモノ)

「7-15.物資補給問題と軍艦発注」で述べた、停泊中のロシア艦隊へ向けて
何が運び込まれたのかは、「和親条約と日蘭関係/西澤美穂子」に詳しく出ています。現在もオランダ国立中央文書館に保管されている書類が大元です。1854年8月31日から10月31日の2ヶ月分が詳細に残されているようです。
前述したように、オランダ本国がロシアから代金を受け取るシステムであったため、詳細に記録を残すことが必要になった

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7-16.日露交渉の終結

7-16.日露交渉の終結

外交顧問のようになったクルチウス

水野、大沢の両奉行はクルチウスと計4日間、合計で13〜14時間にも及ぶ秘密裡の会談を行なっています。奉行からの問いかけに対してクルチウスが答える形式で行なわれました。通訳は森山が務めています。その第1回目の11月1日、水野は、昨年クルチウスから提出された勧告(通商を含む条約締結)に関して、検討を始めることをクルチウスに伝えています。1年に渡って頓挫していたクルチ

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7-15.物資補給問題と軍艦発注

7-15.物資補給問題と軍艦発注

ロシア艦隊への物資補給問題

この滞在時、長崎には新たな問題が持ち上がり、それもクルチウスなしでは解決できない問題でした。

それはロシア艦隊への物資の補給問題です。ロシア艦隊は日本からの補給品の代金を支払うと主張したのです。「薪水給与令」で定められた内容は、補給品は全て幕府が贈与としておこない、それに伴う金銭の授受は発生させない(それを伴えば、交易・通商になる)ということとと対立したのです。

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7-14.ロシア艦隊長崎へ

7-14.ロシア艦隊長崎へ

再びクルチウス

さて長崎では、通詞たちの忌避により一旦は冷え込んだようなクルチウスとの関係ですが、ペリーの来航がそれを大きく変えました。

「7月7日。通詞の吉兵衛と栄之助が機密情報を持ってきた。アメリカの軍艦5隻が琉球列島の海域に投錨した通報があった。」

「7月22日。同じ顔ぶれの通詞たちがまた機密情報を持ってきた。去る7月8日に江戸湾の湾口沿岸に所在する浦賀に超大型蒸気船2隻を含む4隻で

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7-13.動きだす阿部政権

7-13.動きだす阿部政権

ペリーが去った10日後、1853年7月37日には12代将軍家慶が逝去。次の将軍家定の就任は4ヶ月後の11月となりますが、この4ヶ月間で、阿部はさまざまな方策を打ち出していきます。

方策その1:国書を回覧し、各層から広く意見を求めた(7月)

幕府が、政治にたいして意見を求めるなど、前代未聞のことでしたが、これが最も早い方策でした。「通商を許可すれば国法がなりたたず、許可しないなら防御の措置が必要

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7-12.国書受け取り

7-12.国書受け取り

国書受取りを伝える

回答期限当日(7月12日)。「遠征記」によると、朝9時半頃3隻の船がやってきたとあります。前回同様、香山栄左衛門、堀達之助、立石得十郎の3名がサスケハナに乗船しました。ペリーは未だ姿を現しません。前回同様の3名が応対にでました。ここで、香山は「それ相応の高官が親書を受け取る、場所は海岸で14日朝」と回答します。ただし、「その高官は国書を受け取るのみで、交渉はしない」と付け加え

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