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「自分にしかできないこと」というプレッシャーワードとの付き合い方

少し前、「あれ、私がこんなこと考えたり発信していることに意味あるんだろうか」と自信を失いかけたことがあった。「こんなこと」というのは、私がnoteで綴っているような、多様性とか、想像力とか、働くこととか、そういう類のこと。

元々自信なんてないといえばないのだけれど、自分が興味のあることについて調べたり本を読んだりすればするほど、その道のプロフェッショナルが既にいて、たくさんのヒントがあったり、既に何らかの答えを出していたりする。そういうものを見て、あぁ、こんな発信に意味ないのかな、私にできることって、そんなにないのかもしれないな、と凹んでしまうことがあった。

それでも、読んでくれるひとや、それに対して意見をくれる人、連絡をくれる友人、励まされたと言ってくれる人も中にはいたりして。私はこんなにも自信がないのになぜなのだろうか、だってこの本に全部答え載ってるかもよ、なんてひねくれたりもしたのだけど、もしかしたら、そうじゃないのかもしれないな。と、思った。

人はそれぞれ、経験したことが違う。全員違う。答えは同じかもしれなくても、そこに至るまでの経路が違う。考え方が違う。環境が違う。感性が違う。方法が違う。タイミングが違う。バックグラウンドが違う。そうした色々な要素が絡み合って、自分ができること、が出来上がるのかもしれないな。いや、むしろ「自分ができること」という言葉自体に、違和感があるのかもしれない。「自分にしかできないこと」という言葉も、なんだかプレッシャーが強い。「そんなものないよ」という答えに、すぐにたどり着きやすい言葉。

きっと、自分が、こうじゃないかな、ああじゃないかな、と模索しながら取り組んだことや考えたことが、いつの間にか「自分のできること」という名前のものに、仕上がっているのかもしれない。それは、狙って作り上げられるようなものではないのかも。

「自分のできること」「自分にしかできないこと」は何だろうか、ということを必死に考えたり模索したりしなくても、自分の思うように考えたり取り組んだりすればいいだけなのかもしれない。そう思うと、少し、色々なことが楽になるかも。

Sae

「誰しもが生きやすい社会」をテーマに、論文を書きたいと思っています。いただいたサポートは、論文を書くための書籍購入費及び学費に使います:)必ず社会に還元します。