謝れない男に土下座願望あり

今晩はどんな趣向で筆を起こすか思案していて、ふと(都合のいい言葉)、数か月前に、近所の回転寿司屋のガチャポンで、確か「ザ・土下座」と銘打った玩具シリーズを見かけた筈だというので、これに材を取ってひとわたり書いてみたいのです。この「全裸散文」は原則出たとこ勝負後なので、後々自分が読み返して瞠目できる代物に仕上がるかどうかは、無論その日の頭脳の具合に懸かっている。抜けば玉散る氷の刃というふうな日もあれば、最後まで遂に寝ぼけ眼でまるで要領を得ない日もある。一体人口知能でなく生身の人間が頭を捻って書く以上、日々のばらつき避けられないし、むしろそんな不確定不安定の一面にこそ妙味が潜む。手前味噌も甚だしいですが、これまで書いた散文について、助走としては相応の出来栄えと僕は高く自己採点しています。論旨が紛糾して収拾がつかなくなると無理やり力技でねじ伏せるきらいはあるけれど、総じて臨機応変変幻自在、文章の刃先も冴えわたっています。そのうえ人のヒンシュクや怪訝顔など度外視して書けているから、自主規制特有の臆病で嫌らしいあの萎縮的ムードもない。嘘くさいポエムにも空疎な建前論にも流れずひたすら「全裸書き」に徹していると、正面切って自負しよう。いやもう生来のナルシシズムが炸裂だけれど、もう構わない。だってそうでしょう、自分が自分を賞美しないなら、一体誰がここまで気勢を上げて褒めますか。自分を景気付け事に打ち込ませるのも自分だし、文章の隠し調味料まで具に賞味できるのも、きっと後の自分の舌だけなのです。他者は僕自身が思う程僕に興味を持っていない、というのが三十年生きた上での述懐です。これは他者と渡り合う上でも頗る肝心な事なので、語り掛け形式に変奏して、もう一度いいますよ。あなたが思っているほど人はあなたのことを見ていないし関心も抱いていない。人はともすれば勘違いする生き物で、一の称賛を十にも二十にも誇大に増幅して悦に浸ることが出来る。こうした賛辞が義理の挨拶に過ぎないもので、誰もが大抵一度は同じような言葉を頂戴しているのだと冷静に悟れるのは、純な若さを捨てて多少とも世故に長けはじめた後だ。だから若干褒められたくらいで己の才を過信するのは余程お目出度いことだし、翻って、若干叱られたり恥をかいた程度で痛恨の痛手を負ったふうな気になるのも滑稽極まることだ。対人恐怖や赤面恐怖で苦しむ人にも素人の荒療治のつもりで同じこと言ってみるけれど、思うほど伝わった手応えはかつてない。なるほど僕自身、当事者として、この説諭の筋道自体は了解できても、いざ救われるような納得はしない。身も蓋もない直言が生活の現場で脆くも敗退するのは、生きていてよくあることだ。認識で物事が解決するなら、理論派を自任する僕はもっと快適に生きていられる。生きる上で発生する殆どの問題は死ぬまで解決しない、と今の僕は自信に満ちて言える。これは仕様がないことだ。八方塞がりの問題にいつも雁字搦めになっているのが人間であり、その藻掻き苦しんでいる記録がそのまま僕の散文へと結実している。散文はまず僕を全裸にして強力の緩下剤で宿便を出させ、裸の声で自分の全てを語るようそそのかした。全裸散文と銘打った所以だ。溜まり溜まったヘドロを吐き出し、ユーモア・ペーソス・エロス等の香料をふんだんに使用しながら「新しい物語」を調合しその世界を新しく生きる秘術を教えた。散文に限らずものを真剣に書くことは掛値なしに新生することなのだ。喪失や挫折のもたらした甚大なる煩悶を新生への腐葉土とすることなのだ。ダンテはベアトリーチェの記憶に託して自分の至福を讃え救済を希い続けた。文学史上最重要な長編叙事詩の舞台裏にはダンテの凄まじい懊悩があって、それを乗り越えんとする意志もまた凄まじいものだった。要するに藻掻きのパターンとその行き着く所は人によりけりで、たとえばある人にあっては小説に、ある人では詩に、ある人では哲学や宗教活動に結実する。

ところで、土下座ですよ、あなた。土下座したことありますか。僕は勿論ないです。願望だけはずっとあります。被虐嗜好、マゾヒズムの気は自分でも強いと自覚していて、疑似的にいじめられるのは好きなのだけれど、マジとなるときつい。高校三年生の頃よく集団レイプされる妄想に耽りながら体をもじっていました。男の僕が同年輩の粗暴な男たちに服をぬがされ滅茶苦茶に裸体をいじられる、そんな妄想。幸か不幸か僕がオナニーを覚えたのは二十歳過ぎで、当時はまだ夢精以外の射精は経験していませんでした。だからいつも我知らずに性欲を過剰にもてあましていたんですね。露出願望も当時から既に強く、人気(ひとけ)のない海岸沿いに自転車を止めてよく全裸歩行していました。露見のスリルが絡むから露出行為は興奮するんですね。友人とカラオケ行っても裸になるし、泥酔しても裸になる。汗をかくと何気なく上半身裸になって「男らしさ」を演じる。僕の裸はホクロだらけシミだらけで決して綺麗でないのに、特定の友人の前でいつも下着を脱いでいた。銭湯でも無論股間は隠さない(今はズル剥けだから恥ずかしくない)。サウナでも堂々と足を開いて兄貴風に座る。中三以降チン毛の生え揃った頃は尋常でないほど人に見られたかった。その被視願望のもの狂おしさを今の僕は共有できない。当時まだ童貞の包茎野郎の分際でアダルトビデオに本気で出演したいと思った。こんな具合で僕は病的なほど露出嗜好が強い。自分の全裸やふんどし姿の写真だけでも数百枚スマートフォンで撮っていて、オナニー中なんかによくそれを見る。根っからのナルシストだから、自分のイチモツを見ても勃つ。亀頭が大きくて色っぽい形してるわね、自分が女だったらきっとこんな男らしいペニスとやりたいわ、なんて呟きながら自己陶酔。調べてみるとこういう性癖が世の中には一定数あるらしい。こうした趣味のことは勿論、友人知人には言えない。告白するが早いか大潮のように引いていくこと必定のようですから。「どこかで間違いが起こるといけないから、小出しにその欲望を充足しないといけないよ」と、ここでつい老婆心を起こしたくなるかもしれないけれど、はっきり言って余計なお世話だ。妄想至上主義の僕にとって性犯罪ほど縁遠いものはない。そんな現実のリスクを負わずとも、自己流の妄想世界で僕は股間のガトリング砲を射ちまくれる。選ばれた人間は妄想の実在を生きることができるのだ。だいたい、自分の下半身もろくろく手なずけられない人間などおよそ知的人種とはいいかねる。そんな輩は目一杯侮蔑してもいい。そういうわけで、高校時代、この有り余る性欲は遺憾なく夜の被虐妄想に投入されていた。激しく苛められるなかで自尊心の踏みにじられる不思議の興奮を毎夜毎朝堪能していたのだ。自分の妄想を棚に上げた読者はそれを変態性欲と見るだろうが、こんなの僕の妄想世界の序の口で、お子様ランチみたいなものだ。だいたい性的妄想というのはふつう誰のものであっても醜怪で、えげつない。「善良な人々」のそれさえ玄関から一歩でも外に出すと叫喚沙汰は避けられない。内的世界は人目にさらせるものではないのですね。残酷以上の名状不可能な妄想世界を、おのおのが自ずと創り出し後生秘匿している。他者はその妄想世界を覗くだけで呆然自失、身が竦んだまま当分戻らず人間不信に変わる(自分も禁断世界の住人であるのにこのザマだ)。僕の日々のオナニー妄想もその例に洩れず、アナーキーを旨とするこの散文中でさえ、その映像を軽軽と描写するのはさすがに憚られる。いいですか、人の内側に開ける想像世界は魑魅魍魎の跋扈する暗黒の樹林、この恐ろしさ怖さをまともに考えたことはありますか。「あの人何を考えているのか分からないわ」程度の話ではないのです。他者は怪物なら、自分も怪物、みんな互いに怪物なのだ。妄想は怪物的妄想の犇めく世界なのだ。

このままだと危うく醜悪な方向に逸れそうなので、土下座願望に戻ります。そんな被虐趣味があるから、誰でもいい、どんなシチュエーションでもいい、額を地面にこすりつけて「すみません!」と土下座したい。ただ欲を言うと、芝居や疑似体験ではやや興醒めで、実生活の文脈でないと本物の性的興奮は多分覚えられない。だからSMクラブでは駄目だ。生々しい気迫のこもった土下座がしたい。商談で得意先にどうしても呑み込んでほしい条件があるときなんかにしぶしぶ土下座に及んでしばし屈辱を耐え忍ぶとか、性欲花盛りの冴えない男子高校生が見初めた女子大生の前で突然土下座し「こんな俺と一度セックスしてください!」と叫んでしまうとか、想像するだに素敵ですね。とくに後者の系統に憧れるのでよく妄想の場面設定に用います。

頑な自尊心を踏みにじってほしい。僕は自尊心が過剰に強い。稀代の駄目男子のくせに、人に頭を下げることが大嫌いで、感謝を伝えることも好きではない。曲がりなりにも感謝や謝罪をやってしまうと、恥と一体化したような屈辱感が残って、自己嫌悪が昂進する。人生はお互い様、人のお世話にならないと人は生きられない、この厳然たる事実から、目を逸らしたいのだ。親には「ありがとう」さえ碌に言ったことがない。こんな救いようのない傲慢人間だから、余計に、自分の自尊心を一思いにぶっ壊したい。自民党と一緒にぶっ壊したい。機嫌よく浮き世を立ち回る上で足枷にもなっているこの自尊心を粉砕したい。天翔ける自尊心を地に叩きつけることで、それまでの傲慢の負債を全て帳消しにできる気がするのだ。僕の抜きがたい土下座願望には、そんな心理的根拠がある。書いてみる中でまた一つ、癒しがたい病根が判明した。ここで、くだんの土下座玩具の背景に現代人の疚しさを見るというのは些か単純論法に過ぎるか。でも土下座なかに何か言い得ぬ快感を見出す人は、おそらく僕だけではない。心ならずも疚しいストレスを抱えているのだ。きっとこのストレスは、マゾ嗜好の強い人々や自傷癖のある人々にも通底していて、いずれこの散文連載のなかで真剣に取り組まないといけない。

続けるとやがて乱文に流れそうだから、今回はこの辺で区切りをつけます。どうもありがとう。

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