鈴木諭

地獄の詩世界と秋田弁ブルースを唄う、純血秋田県人。じゅんさい王国(旧・山本町)出身。バ…

鈴木諭

地獄の詩世界と秋田弁ブルースを唄う、純血秋田県人。じゅんさい王国(旧・山本町)出身。バンド「無善寺ドクダミ団」も営業中。noteでは只管に私の中にある憂鬱を綴ってゆく。

最近の記事

苛烈と穏当(2023.08.10)

疲れが溜まってる状態で、19度の日本酒(原酒)を飲んだせいか矢鱈と眠い・・。 終電で寝たらマズい状況なので、眠気覚ましに文章を書く。 本日は初めて行って以来、大のお気に入りになってる「工房ムジカ」へ店主の葛原りょうさんのワンマンを見に行った。 ウクライナ戦争に関する短歌連作及び、広島・長崎の原爆投下に関する詩の朗読といった内容。 この数年で膨大な量の本を読んで来たのだが、戦争に関する詩には触れて来なかったので、知見が広がる良い機会となった。 知らなかった詩人を多く知

    • 佐渡山豊を見た。(2023.12.08)

      佐渡山豊を見た。 久しぶりに本当に感動した感覚がある。 体に穴が空いたんじゃ無いかと思う程、ザクザクと言葉が刺さってきた。 私はこれを浴びたいし、そして多分これをやりたいのだろう。 佐渡山さんは所謂フォーク世代のミュージャンで、郷里・沖縄をバックグラウンドとした歌を歌う方。 沖縄弁・標準語双方の曲があるが、いずれにしても土地の匂いが兎に角濃い。 私が初めて音源を聞いたのは恐らく半年くらい前だった気がするが、烏滸がましいが"スタンスとして"非常に近いものを感じ、一聴し

      • 裏日本後記(2024.01.21)

        凄く疲れてる筈なのに、あまり寝れなかった。 時計を見るとまだ五時半で、窓の外では雨の音がしとしと鳴っている。 雨の向こうから救急車の音が聴こえてきて、気づけば七時半になっていた。 ----------。 昨夜『裏日本』を終えた。 ツーマンを決めた昨年十月以降、ずっと「裏日本へ向けて」という想いを抱えながら動いていたので、緊張の糸が一気に切れたようになっている。 自分の事は後回しにして、圧巻だった片山さゆ里のステージについて。 本当に、本当に凄かった。 ムジカでのワ

        • 消えた盟友。

          「バスジャックをしよう。バスジャックをしよう。行きたいところへ行けるように、バスジャックをしよう。」 その歌が私の中に飛び込んで来たのは、昨年五月の事だった。 二月に初めて無善寺を訪れ、次から次へ現れる奇人変人に心を踊らせた私は全レギュラー日に出ようと思うように。 そして四月から色んな日に出始めて、五月に"酔っ払って"という第三木曜日へ出演する。 初めて片山さゆ里と会った日だ。 無善寺で出会った演者で好きな人間は沢山いるのだが、私にとって一番"分かる"歌を歌うのは同

        苛烈と穏当(2023.08.10)

          ブルース夜話

          私は音楽が好きで音楽を始めた人間だから、普段からよく音楽を聴く。 しかし色々なミュージシャンと会うようになり、音楽を殆ど聴かないミュージシャンが一定数いることを知った。 私には無い感覚だから面白い。 著名な方で言えば、以前シバさんが聴くよりも先に弾き始めたみたいな事をMCで言ってた記憶がある。 何故に唐突にこんな文章を書いてるのかと言うと、文学の話題や絵の投稿ばかりで、私自身が「あまり音楽に興味の無いミュージシャンに見えるのではないか」と、なんとなしに思ったからである

          ブルース夜話

          2023.11.05 ムジカライブ翌日の日記。

          何だかずーっと憂鬱なスイッチが入ったままなので、気分転換に早起きして久しぶりに絵を描く。 どうも先週の木曜から続いてる気がする。 私は気分の高低が100か0かのところがあり、大体良い詩が生まれる時は0の時だ。 昨日も3つ浮かんで来た。 ここ最近は人と会ってる際は100の状態なので、今年に入って知り合った人にはよく「鈴木さんは落ち込んだりしないでしょ」とか言われるのだが、逆に問いたい。私の詩を聞いて本気でそう思うのかと。 ・・・ 日曜日のムジカのライブで『アトピーのう

          2023.11.05 ムジカライブ翌日の日記。

          私の山怪

          裏日本の際に、猫道さん(@nekomichic )からお借りした一冊。 山間部に残る不思議な話を集めたモノ。 読んだ後の率直な感想としては"どこかで聞いたような話が非常に多い"事である。 以下、類似した私自身の話を述べて行こう。即ち、私の山怪だ。 書き始める前の前置きとして一つ。 私は私自身の認識で、正気である。では本編へ。 1.青い二つの火の玉 正確な年齢は定かで無いが、保育園の年長くらいの頃に仏壇で青い二つの火の玉を見た事がある。 畳から一メートルくらいの高

          私の山怪

          卓球を清算したい。

          卓球を清算したい。文章を書くことで。 「音楽をやる」と決めて東京に出てくるまで、15年やっていた。 中・高・大・社会人と。だから音楽歴よりよっぽど長いのである。 そもそも何故に卓球を始めたのか、という理由にもアトピーが絡む。 小学校五年の時に発病し、入院するほどの重症状態に。 その後、中学に入るころには一旦落ち着くが"汗をかくと悪化する体質"な為に、極力汗をかかなそうな楽なイメージである卓球を選ぶ。部活が必須だったので。 が、ハマってしまった。それまで好きだった絵を放

          卓球を清算したい。

          ずっとブルーハーツを聴いていた。

          高校一年生の夏休み、小学五年の発病時以来のアトピー重症化により治療で引き籠もっていた。 汗をかくと悪化するので、丸一日クーラーのガンガン効いた部屋にいるだけ。 体は痒い、痛い。辛い。兎に角辛い。 そして何もする事が無い。 時間は丸一日ある。 ----------中学二年の時に「太鼓の達人」というゲームがきっかけでブルーハーツを知った。 世の中にゴマンと溢れる恋の歌が全て嘘っぱちに思えて、私は夢中になった。 流行り音楽を全く聴かなくなり、以来誇張抜きで二十歳頃まで彼

          ずっとブルーハーツを聴いていた。

          「もう秋田に帰ろう」と思っていた、という話。

          もう秋田に帰ろう。 そう思ってた時期があった。 2022年頃。 上京して最初に組んだパンクバンドは、ボーカルとのいざこざで逃げるように脱退。その後に組んだバンドも、メンバーとの関係がうまく行かず脱退。 人と関わるのが兎に角嫌になり、一人でネットを中心に活動を始めた。これが2021年春。 小賢しくマーケティングばかり考えていた当時の私は、自分の曲に人を流すための導線を作る必要があると考え、音楽系のyoutuber活動を始める。 わりあいに、上手く行った。登録者1,50

          「もう秋田に帰ろう」と思っていた、という話。

          死の防波堤

          痒い、痒い、兎に角痒い。 この数日、顔を中心とした皮膚が只管に痒い。 昔から酷い痒みに襲われる日々が続く度に思うことがある。 死ねばこの"痒み"という感覚から解放されて、楽になるんじゃないかと。 ------------------自分で命を絶つ検討を大真面目にした事が、人生で三度ある。 一つ目は、高校一年生の夏休みにアトピーの重症化で引き籠ってた時期。 二つ目は、社会人三年目に重度の鬱状態にも関わらず、休まず会社に通ってた時期。 三つ目は、上京して音楽を始めるもののバ

          死の防波堤

          海を渡りたかっただけなのです。

          以下記事の経緯で会社を休職からの退職をした私だが、その休職期間中の話である。 2017年のクリスマス頃に休職を始め、3月末まで休職期間が続く。 何かもう全てに絶望しきって、疲れていた。漠然と音楽をやりたいと考えながらも、こびり付いて取れない焦げのような迷いがあった。 兎に角、時間と金はあった。休職なので、給料も入ってくる。実家にいるし食には不自由しない。 或る日、好きなバンドのライブが北海道の新冠という僻地で行われるという情報を見付けた。 そうだ、旅でもしよう。一回

          海を渡りたかっただけなのです。

          今日も、秋田の日本酒が美味い。

          秋田県人の性か、日本酒が好きである。 日本酒消費量全国一の都道府県。 酒をいつ最初に飲んだのか、という事を考えてみると大学生の時の飲み会だった気が。 あまりよく覚えてない。音楽を始める遥か前の話である。 もっと言えばギターすら弾いて無い頃だ。 そもそもギターを始めたきっかけは、大学四年の時に単位を取り尽くして暇を持て余し、手に取ったという実に何気ないものだった。 話が逸れて行くので戻す。 最初は日本酒なんて飲まなかった。 ビールはどうも当初から今に至るまで苦手で

          今日も、秋田の日本酒が美味い。

          方言を忘れた子供たち。

          方言についてまた考えたい。 いつだったろうか。母にこう言われた事がある。 「ちゃんと標準語で育てたつもりだったんだけど」と。 即ち何を言いたいのかと言うと"綺麗な標準語を喋れる方が良い"という考え方が、頑然として在るのである。 これは一定の年齢以下の秋田県人、のみならず東北全体さらには地方全体にあるのではと思っている。 私の親世代(60歳前後)は、出身地域や経歴にも左右されるが概ね標準語と方言の使い分けが出来る世代だ。 私の父の話をする。父は20代の頃10年程関東

          方言を忘れた子供たち。

          秋田弁を笑え。

          高校生の頃、同学年の所謂イケイケグループ的な奴らに喋り方をしょっちゅう弄られて馬鹿にされた。 私の訛りが強すぎるからである。 方言話者についての話を進めたい。 平成三年生まれの私の世代は、たぶん育った環境により方言の体への染み込み具合が違う。 色濃い方言が残っている農村地帯出身であるとか、家の中に爺さん婆さんがいるか、といった複合的な要因がある。 私は秋田の中でもさらに田舎の部類に入る三種町(旧・山本町)出身で、祖父母のいる環境で育った。厳密に言えば、父方の祖母と母方

          秋田弁を笑え。

          苦しんでる人は美しい。

          上京当初、パンクバンドでギターを弾いていた。 ある時に風邪を引いたとツイートしたら、翌日練習で会った音楽経験豊富なボーカルに説教をされた。 「ミュージシャンは常にカッコ良くいなければならない。俺も昔それで先輩に怒られた。具合が悪いとか絶対に外に出しちゃ駄目なんだ」と。 それ以降、私は体調に関することを書くのは辞めた。そのアカウントは消しててもう無い。 ・・・時は流れ五年後、私は弾き語りをしている。誰が見ても分かる程に無善寺を筆頭にした自分にとって居心地の良い店に依存し

          苦しんでる人は美しい。