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古流と居合

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古流の身体操法について書きます。身体を観察する、ということ。
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居合の早さについて

このまえ 「居合って、剣をもった相手よりも速いって、ほんと? 信じられなくて」 と訊かれました。 もっともな問いです。ぼくもそう思ってました。すでに剣を抜いている人と、剣が鞘に収まったままの人とでは、どう考えても、剣を抜いている人のほうが速そうです。だって、斬れる準備が整ってるってことですもの。 でも、居合を二年続けるうち、「あ、これ、鞘に入ってるほうが早いな」と気づきました。居合の早さについて、まとめます。 ※ 論より証拠です。この動画を見てください。鞘から剣が

肩が消えた

昨日、肩がスコーンと消え去った。 ほんの数瞬前まで、そこにあった肩が、きれいになくなった。 「俺は肩だぞ!」と主張していた筋肉のこわばりや骨のゴツゴツ感が消え去ったのである。内部の身体感覚として、肩の存在を捉えられなかった。 もちろん、物理的になくなったわけではない。触ってみると、肩の部分にちゃんと肩はある。異常にやわらかくて、いつもの肩ではなかったけれど。骨があることを確認しなければ、肩だとは気づけない。 急いで感触を確認した。肩から先の骨が抜けて、腕はゴムのようだ

外的な要求と、内的な要求。

外的に要求されることと、内的に要求されることは違う。 たとえば腕立て伏せをするときに、筋トレの知識がない状態で行うとする。すると、両手を地面につけて肘を曲げ伸ばししても、筋トレの意味で「腕立て伏せ」にはならない場合が多い。正しいフォームをまねしているつもりでも、どこか違う。できているけど違うのだ。 その違和感は、正しいフォームに隠された内的な論理を身に着けることで解消される。意図する箇所に刺激を与えられるようになり、腕立て伏せの応用編もできるようになる。そうしてようやく、

わからなさを嗅ぎ分ける

古流の動きを見ていると、「どうやって身体を動かしているのかわからない」と思う。 準備動作なしに手が伸びてくる。抑えているはずなのに、持ち上げられる。全力で抵抗しているのに、たやすく投げられる。重い刀なのに、自在に変化する。 実際に技をかけられているときはもちろん、横で見ているときでさえ、「どうやってるか、わかんない」と思う。 古流の動きができているか否かは、この種の「わからなさ」の有無で判別できる。 わからないとは、動きを予測できないことである。ぼくらは普段、他人を見

鞘を引く。

居合を始めると、最初のうち、繰り返し言われることがある。 「刀を右手で抜いちゃいけない。左手で鞘を引くの。そうすれば自然と刀が抜けるでしょ」 初心者のうちは、ふむふむと頷く。鞘をビュっと引いて刀を出す。鞘を引いた分だけ、刀を抜いたことになる。刀は左手で抜くんだ! おお! できた! そうか左手で抜けばいいんだ。 そう思って、意識的に左手を使う練習をする。そのうち無意識に左手を使えるようになる。これでもう刀を抜く動作はマスターした、なんて、鼻を高くする。 しかし、そう

生きている刀、死んでいる刀。

はじめて刀を振ったとき、1kgもある刀は、容易には止まらなかった。びゅん、と斬り下ろせば、止めたいところで止まらずに、行き過ぎてしまう。 うまい人は、決まった位置で刀を止めているのに……何が違うんだろう。 「どうやったら刀が止まるんですか」と聞いた。その人は「手を雑巾を絞るようにするんだ」と言った。なるほどと頷きながらやってみると、刀は止まった。少なくとも、斬りおろした位置でピタリと止まりはじめた。この方向性だな、と納得した。 けれどそのうち、片手で袈裟に斬る必要が出て

身体の声を聴くーー武術のセンス

「武術やってるんだってね。強いの?」と訊かれて、うーん……と言葉に詰まった。強いか弱いかで言ったら、ぼくはまだ弱いだろう。筋肉も少なく、骨格もたくましくない。 でも、普通の人とは違う身体の動きを実行できる。もしくは、その違う動きをできる萌芽がある。この動きは、普通の人の盲点なので、結果的に相手を制することができる。 たとえば、「重心のかかっている脚を、そのまま上に引っこ抜く」ことができる。 普段ぼくらが歩くときには、右足から左足に重心を移動させて、重心のかかっていない右

甲野さんの稽古会

「合気道をやってるんだ」と言うと、友だちは「へぇ、ちょっとやってみせてよ」と言いながら、片手を突きだしたり胸をつかんできたりする。 どんな技を見せてくれるのかと期待して、顔がキラキラしている。 ぼくは苦笑いをしながら、両手でゆっくりと、技がかかった状態にまで関節を誘導する。「ほらね、ここで力を込めると……」相手は痛テテ、という表情をする。「こんなふうにやるんだ」 これ、ぜんぶ茶番だ。 技を見せてよって言ってくる相手にさえ、その場で技をかけられない。力を入れて抵抗する人

重みを伝える――体内の流れを可視化する

ニュートンのゆりかご、という実験がある。五つくらいの連なった玉の、一つをもちあげてパチンと落とすと、反対側の一つだけが跳ね上がる。 ちょっと不思議な実験である。 普段は一つの玉だけど、これを二個でやったり、三個でやったりするとどうなるか。もしくは両側から一つずつ持ち上げるとどうなるか。映像を見ると、すごくおもしろい。 じつは古流の動きでも、達人は同じことをしている。自分の身体のなかで、運動量を発生させ、端に移動させて、放出する。外側からは移動の過程が見えない。でもたしか

真っ向斬り下ろし

初心の人に教える場合の図である。意図的に強調した部分がある。どこが強調してあるか、というのをわかるようになったら、この図を見る必要はないだろう。 ぼくが教えられたのは、「天井を引っかくように振ること」「振り下ろすときには、茶巾を絞るように手の裡を締めること」「敵のいる場所で最高速度を出し、重みを乗せること」である。 しかし、このうち「天井を引っかくように」という教えは、間違った形で理解されやすいし、「茶巾絞り」は教え自体が間違っているように思う。 天井を引っかくようにと

重みを操作する――古流の基本原理

古流の動きは、重みの操作の体系である。 重みは何から生まれるかというと、身体の「質量」と地球に引っ張られる「重力加速度」から生まれる。 質量の七割を占めるのは、水分である。だから中国の古流は、人体を水の入った袋にたとえる。たぷたぷに水の入った革袋が人体である。人体のなかには、骨と筋肉がある。 重力加速度は、日常生活で意識することは少ない。意識しないということは、それだけ普遍的で「大きな」意味をもつことでもある。だから、その力を使えるようになると、日常とは違う身体の動かし

上達とは感度があがること。

来週、居合を新人に教える。 ひとまわりも歳上のひとに教えるから、何を教えるのかを言語化しておく。何を教えるのかは、何を教えないかを明確化すると定まる。 剣を振る。これは楽しい。 なんと言っても日本刀だ。居合用だから斬れないようになっているけど、傍目にはホンモノと変わりがない。着物を着て、帯を締めて袴をはく。そして刀を腰にさす。鏡を見れば、幕末の志士である。 かっこいい。 刀を抜き出して、振りまわす。気持ちいい。たまに音がなる。爽快だ。 教われば教わるほど、成長する自分に出会

いい居合をする初心者

入門して半年くらいの弟弟子。ひさしぶりに見てみると、あきらかに居合がうまくなっている。 うまいと言っても、もちろんアラはある。たとえば、一番基本の業でも、重要な身体の動かしかたを「知って」いなかった。上級の者からみると、まだ登る階段はたくさんあるな、という感じである。 でも、その身体の動かしかたは、いちど教えればできるようになるな、という予感があった。違和感を抱えたまま居合をやっていたから、動かしかたを教えれば、一気に壁を超えるだろうと見てとれたのだ。 「居合では、業の

視ること。

ぼくは古流武術を10年以上やっている。 経験があるのは、合気道、居合道、柔道、古流泳法、剣道の五つ。そのうち当該流派の基礎体系を身につけた(=初心者を脱した)と思えるのは、合気道と居合道だけである。 古流の動きは現代日本人の動きとは異なるから、最初は、業を身体にインストールするところから始める。日常の動きをアンインストールして、古流の動きをインストールする。この過程をどれだけ精度高くこなせるかが、初心者と中級者を分ける。 このとき決定的に大事なのは、「視ること」である。