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東大入学式の祝辞から考えること



あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。


ーはじめにー

平成31年度の東京大学で行われた入学式で述べられた「祝辞」が話題になっている。

昨年の様々な差別や来月からの様々な節目を向かるからこそ、平成31年4月12日認定NPO法人 ウィメンズ アクション ネットワーク理事長上野千鶴子先生の祝辞という流れになったのかもしれない。

この祝辞は、東大入学者に向けられたというよりも、すべての「恵まれた者たちへ」向けられたものであると僕は思いたい。

ここからは、マイノリティである自分がこの祝辞を聞いて思ったこと、そして考えたこと述べてみたい。

人生を決める試験が近いのに「暇」だなと思われてしまいそうだが。

やりたいことをやって最後を迎えたいので、少しご容赦を。


ー差別の前にある差別に気づくまでー



上記のHPより引用しながら述べていこうと思う。

「女子学生の置かれている現実」の最初の一文に

「その選抜試験が公正なものであることをあなたたちは疑っておられないと思います。が、しかし、昨年、東京医科大不正入試問題が発覚し、女子学生と浪人生に差別があることが判明しました。」

医学部の入試における女子差別が明るみにでたことで、公平であるはずの試験制度に大激震が走った。この話題がでたとき、うちの大学院の人や指導教官、様々な教育者やジェンダー研究者たちが怒りを露わにしていたと思い出す。

ただ、僕はふと思ったことがある。

そもそも医学部を受験できるような環境にいることや良質な教育を与えられた環境、なおかつ、「医者」を志望して形にすることが可能な世界にいるという部分には触れないのか?と疑問に感じたのだ。

良質で高度な教育を受けなければ「医者」という特権的職業にはつくことはできない。もちろん様々な要因が重なって這い上がってくるものもいる。

しかし多くの場合は、特権的な地位にいたり、経済用語でいえば”ミドルクラス”以上の家庭で育たなければ医者になることは至極難しい。

医学部の試験での不正は確かにあってはならない。

けれど、その試験でさえ受けられない人がいて、医学部を受験する人なんかよりも「医学」に憧れ、医者として働く者よりも「人を救いたい」と思う人々がいることを忘れていないだろうか。

試験での不正の前に、試験に辿り着くまでにも、たくさんの差別や不条理があることを知らなければならない。

でもその事実はなかなか目を向けることができないのが、恵まれた者たちなのだと正直思う。

確かに、試験を乗り越えることで自らの努力がそこで評価される。

しかし、試験に乗り越える前に、どれだけの装備を整えられて臨めているのか忘れていないだろうか。

どれだけの教育を受けてきたのか、どれだけ投資をしてもらったのか、正当に自らが与えられて培った能力を評価されてきたのか、自分は自分だということを認められてきたのか、年齢に対して相応以上のライフイベントを与えてもらえたのか。

それだけの武器と素晴らしい仲間たちに囲まれながら試験に臨める人たちは

裸一貫なのか全身複雑骨折で孤独に戦うことになる人たちがいることを直視しなければならない。

そして試験を受けられて、特権的な地位に進める切符があることに

一度立ち止まり思考しなければならないのではないか。


ー本当の平等や公正さはどこに~それでもまだ見えない~ー


東大には今でも東大女子が実質的に入れず、他大学の女子のみに参加を認める男子サークルがあると聞きました。わたしが学生だった半世紀前にも同じようなサークルがありました。それが半世紀後の今日も続いているとは驚きです。この3月に東京大学男女共同参画担当理事・副学長名で、女子学生排除は「東大憲章」が唱える平等の理念に反すると警告を発しました。これまであなたたちが過ごしてきた学校は、タテマエ平等の社会でした。偏差値競争に男女別はありません。ですが、大学に入る時点ですでに隠れた性差別が始まっています。社会に出れば、もっとあからさまな性差別が横行しています。東京大学もまた、残念ながらその例のひとつです。


そう、上野先生でさえ気づかない差別あることがここから読み取れる。

上野先生は話してる「東大憲章」のことは、たぶん以下の記述だろう。

東京大学は、構成員の多様性が本質的に重要な意味をもつことを認識し、すべての構成員が国籍、性別、年齢、言語、宗教、政治上その他の意見、出身、財産、門地その他の地位、婚姻上の地位、家庭における地位、障害、疾患、経歴等の事由によって差別されることのないことを保障し、広く大学の活動に参画する機会をもつことができるように努める。

もちろん”構成員”としている段階で、東京大学の学生でなければならないということは読みとれるが、それでも「すべての構成員が国籍、性別、年齢、言語、宗教、政治上その他の意見、出身、財産、門地その他の地位、婚姻上の地位、家庭における地位、障害、疾患、経歴等の事由によって差別されることのないことを保障」という記述から思うに

東京大学へ行ける人間が、本当の差別的な地位や出身、門地、家庭における地位などに属しているのか。ということである。

東京大学に入学するには、たくさんのハードルが存在する。

それは先ほど述べたように医学部への試験と同様なことがある。

恵まれた者でしか受けられないということ。

東京大学に入学するまでに、「国籍、性別、年齢、言語、宗教、政治上その他の意見、出身、財産、門地その他の地位、婚姻上の地位、家庭における地位、障害、疾患、経歴等の事由によって差別」をこれでもかというぐらい受けることになる。

この差別を受けてこなかった「子ども」たちが、東京大学に入学することができるのだ。

もちろん性差別も性犯罪のあってはならない。

性差別が行われる前に、人としてあってはならない「差別」が行われている実態はどうなるのだろうか。

試験制度には、国籍から経歴等の事由によっての差別が常に正当化されている。試験をうけることができても、同じだけの幸福なのか、教育を受けて行われない試験は平等でも公正でもなんでもない。

それを努力だとか自分の能力不足だとうかで片付けてはならない。

性差別の前には、様々な差別が存在している。男女の二分法で語る以前に「生まれた環境」で差別は行われている。そこに目を向けられないのはなぜなのだろうか。


ー「変化と多様性に拓かれた大学」であるとー

東京大学は変化と多様性に拓かれた大学です。わたしのような者を採用し、この場に立たせたことがその証です。東大には、国立大学初の在日韓国人教授、姜尚中さんもいましたし、国立大学初の高卒の教授、安藤忠雄さんもいました。また盲ろうあ三重の障害者である教授、福島智さんもいらっしゃいます。

それぞれの属性をみてみれば確かに多様性に開かれている。

しかし、言葉をそのまま鵜呑みにしてはいけない。
上野先生は東大と在日韓国人教授姜尚中先生も東大、

建築士である安藤忠雄先生は独学で学び取った力が

盲ろうあの教授の福島智さんは、東京都立大学人文学部を博士課程まで進学している。

多様性というのあくまでも属性であって、環境や能力といったとこは4人とも共通点が少なからずある。学べる環境、人々の支え、守ってもらえる環境、適切な時期に適切なルートを進めたこと。

そうした共通点がない人は、そもそも結果が残せないわけだから世にもでないということである。その意味で、多様性なのか・・・と疑問は尽きない。

でも実際、大学の教授になる人や資本家になる人々、世の中を牽引する人たちには共通点がある。

能力を評価してくれる、能力発掘してくれる、そしてタイミングと引き上げてくれる「人と環境」が、自分の力以外でもたらされるという点である。

努力しても、人並み以上の挫折を乗り越えても、助けてもらえない人はいる。そう僕自身のように。

だからこの世界は、そもそも差別でしかないのだ。
きっと、そもそも差別しかない世界に「差別をなくせ」「差別はない」みたいなものが語られるから許せなくなるのかもしれない。


ー忘れてはならないことー

あなたたちはがんばれば報われる、と思ってここまで来たはずです。ですが、冒頭で不正入試に触れたとおり、がんばってもそれが公正に報われない社会があなたたちを待っています。そしてがんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください。あなたたちが今日「がんばったら報われる」と思えるのは、これまであなたたちの周囲の環境が、あなたたちを励まし、背を押し、手を持ってひきあげ、やりとげたことを評価してほめてくれたからこそです。世の中には、がんばっても報われないひと、がんばろうにもがんばれないひと、がんばりすぎて心と体をこわしたひと...たちがいます。がんばる前から、「しょせんおまえなんか」「どうせわたしなんて」とがんばる意欲をくじかれるひとたちもいます。

そう、恵まれた者たちが一番理解しないとならないことがある。

それがこの一文ある。

がんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください。あなたたちが今日「がんばったら報われる」と思えるのは、これまであなたたちの周囲の環境が、あなたたちを励まし、背を押し、手を持ってひきあげ、やりとげたことを評価してほめてくれたからこそです。

これまでも僕が書いてきたnoteで述べてきたけれど

恵まれた人たちは、試験や地位など「すべて自分が」とすることが多い。
いや、それって本当にそう?と常に言いたくなる。

しつこいようだが

あなたが得てきたものは、誰のお金で、どのような環境で、どのような人たちの中で、どんなものを、どれだけの選択とチャンスを、そしてどれだけ自己確立のために施しを受けてきたか。それは、両親や周囲の大人が与えてきたこと忘れていないだろうか。

勉強をした努力の結果だ

いいや、違う。そうできた環境が、そのように示してくれた人が、頑張ってきた結果で結果が出ているのだ。

本当に努力したなら自分の力と金で勉強をしてみろ。
本当に努力したのなら孤独に勉強し、常に馬鹿にされてみればいい。
そして、常に結果がでなくて、死を間際にしていびつな結果を得ればいい。

「がんばったら報われる」

それは、恵まれた幸福な世界のみである。

僕は、これから「頑張っても報われない」戦いに出かける。

大学院まで自力でいけたのは、確かに奇跡だったかもしれない。
その意味で、学校教育は一番平等なものであるともいえる。

しかし一定以上の大学と広い社会はそうではない。

「頑張ったら報われる」ことが可能なのは
最初から恵まれた人だけだということである。


ー最後にー


あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。そして強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生きてください。女性学を生んだのはフェミニズムという女性運動ですが、フェミニズムはけっして女も男のようにふるまいたいとか、弱者が強者になりたいという思想ではありません。フェミニズムは弱者が弱者のままで尊重されることを求める思想です。

ながながと久しぶりに書いて楽しかった。本当に自分の人生が最後なのかなと思ってしまう。

上記の引用で最後にしたいと思う。

一つ「え?」と感じるのは、フェミニズムが弱者が弱者のままで尊重されることを求める思想なのか?というところである。

最近話題になったMEtooもそうであるが

フェミニズムの始まりは、「特権的な地位にいる白人女性たち」が声を上げたことに始まる。第三世界、つまり西洋の白人以外の人々のことが想定されたのは第三次フェミニズムからのことであって20数年前と、フェミニズムの歴史のなかではとても浅い。

フェミニズムが取り扱うテーマは、確かにマイノリティや”弱者"とされる人々のことであることが多い。しかし根本的には、やはり「一部のもの」しか立ち入れない学問であるとするベースは捨てきれない。

弱者であることの意味は、決して”本当の弱者”であるわけでない。
戦えることや立ち向かる強さを持ち合わせていることが求められる。

その時点で、きっと弱者ではない。

これが差別だ、これが問題だ、と気づくことができて、声をあげれるというのは一定のハードルを越えなければならないのだ。

最後になるが、やはりこの言葉で終わりたい。

あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。

これは、とても大事な視点である。

僕も本当にそう思う。

しかしきっと無理だろう。そう絶対に使うわけがない。

恵まれた人はより恵みを、恵まれない人はより絶望を

それが社会の仕組みなのだ。

ただ、そうであってほしいと心の底から思う。
いつか優しい世界になるといいな。

その時、僕はいないかもしれない。
今は、絶望の後のことは考えられないし、
人生をやめること自体、とても怖い。
でもこれ以上、うまくいかない世界にいたくはない。

「がんばっても報われない」

それが僕の世界だから。


夢はルポライターなどです。(/・ω・)/「声なき声を」届けることや草の根活動を頑張っている人や世に出せるように、そのために使えたらなと思います。