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入試制度そのものを熟考してみてー英語民間試験を通じてー


文科省大臣による「身の丈」問題から、英語民間試験の導入が2024年度まで延期されることとなった。

そもそも英語民間試験は、地域格差があり、四国にいたっては試験会場がない英語試験も存在する。そして、英語民間試験の受験料は高額であり、ごく一部の生徒しか恩恵を受けられないものである。


しかし、「身の丈」問題によって、この評価方法が大きく取り上げらえたことはある意味よかったのかもしれない。ただ、根本的な解決にはならずに、当初の内容と変わらない形に落ち着いていくと個人的に思う。

そもそも、この問題は「教育」のあるべき姿から逸脱している。そして、差別を産み、より格差を広げさえ、子どもたちの選択肢を奪うものである。その選択肢を奪われない者だけが、明るい未来や幸せになれるチャンスを高確率で得られる切符を持てることになる。

本来は、この議論が出たときから問題の声をあげるべきだったのはずである。もちろん、議論はされていたはずではあるが、現在のような問題視のされ方はしていなかった。

自分自身の周りは、エリートたちが多くいる。人権問題や社会の差別的な問題に正面からぶつかっていく素晴らしい人がいる。しかし、この英語民間試験の話に対して、誰一人として声をあげようとしなかった。

これだけ差別的であり、大勢の人間の人生が狂ってしまいかねない問題にも関わらずである。教育や人権に関わってきた人間がしてはいけないはずなのに。でも、いつぞやも同じようなことを考えた気がした。


まあ、そもそも選抜試験制度を肯定する人たちしかいなかった


なぜなら、結局エリートたちにとっては、恵まれた家に生まれた子どもたちには痛くも痒くもないことである。そして、そんな英語民間試験がどうとかの以前に、エリートや恵まれた者たちは英語民間試験に常に触れている。それが一つの評価方法であることも、それがメリットであることも、それが自分の夢に必要だということも知っている。だから、英語民間試験への勉強も、英語民間試験の高額な受験料も、不思議なものでもなければ疑問にさえ思わない。

そして、選抜される、バックグラウンドなんて関係なく試験を受けて一定以上の評価を受けれなければ「良質」な場所や教えを受けるべきではないと思っている人たちが多い。

しかし、それを批判してはいけない。

エリートたちは、自分たちが恵まれてきて、様々な優遇を当たり前に得られてきたから。自分たちの環境に当たり前を形にするために努力をしてきて、当たり前に合格して「恵まれ」を強化してきたのだから。

だからこそ、大臣のあの発言があったときも、僕は疑問よりも「そりゃそう口走るよね」と感じたのだ。だって、そうじゃないと自分たちの地位も努力も無意味なってしまう。そして、無意識に血肉となって、


「身の丈にあったもので学ぶ、努力すればいい、恵まれていない者たちは」


が刻み込まれてしまっているから。

今回、より問題になった本質的な部分は、地方在住の「地方エリート高校生たち」が、自分の地域で受けられない、自分だけがいらぬ労力を使って他県に行ければならないことが可視化されたことで声をあげたのではないだろうか。

テレビで声をあげた高校生も、インタビューを受けた高校生も、普通に勉強ができて、勉強することが当たり前で支えられる環境にいる子どもたちばかりな気がした。16歳、17歳でしっかりと自分の意見や立場、社会で起こっている問題を話せるというのはエリートであることの表れである。

本来、全ての子どもたちや教育者が議論し、声をあげなければならなかった問題を無視してきた。議論のテーブルにいれるのは、いつも一定以上の「価値」を持っていると期待された子どもたちで、自分たちも当たり前のように険しい道を乗り越えてきた教育者だけである。


教育は、誰のものであるかを考えることは大切なことである。

しかし、そこに誰を想定しているのか、自分は天上人になっていないのか、一部の人間のみを優遇していないのか

教育者は常に反証しなければならないにも関わらず、避けている人が多いのはそういうことなのである。

これからは、さらに生きにくい時代になるだろう。社会は、それ以前から差別的なもので溢れているが、頑張りだけではどうにもならない世界が子どもの世界まできてしまったとき日本は消えていくだろう。

そして、教育そのものがなくなるだろう。


選抜や試験は、常に公正で公平でなければならない。

それは、一人一人のバックグラウンドを含めてである。

そのことを忘れてはいけないと思う。




夢はルポライターなどです。(/・ω・)/「声なき声を」届けることや草の根活動を頑張っている人や世に出せるように、そのために使えたらなと思います。