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死の名言

生死について思案する友へ。今日、わたしの心に触れた言葉たちを送る。

いずれも引用であるが、発言者はあえて記載していない。自分の感情に刺さる言葉と出会った際、それを誰が発したかはさほど重要ではないからだ。

大切なのは「感動(感情の機微)」に自ら気づくことである。その衝動を言語化する必要はない。ただ味わえばよい。

わたしの記事が、皆が生きていることを噛みしめる一つの機会となれば幸いである。

※記事の終わりに引用元の書籍を掲載しているので気になる方は参考に。

* * *

目的への道中で死ぬべきだ。

死ぬとわかるのは自由の獲得と同じだと思う。

まず命を救え。アメリカ人だろうが、アフガン人だろうが、日本人だろうが、命は命です。

素晴らしい、もう満足しきった人生を送れば、死ぬ時にそんなに苦しまなくたっていいんだろうなあ。

たとえ、どんなにすばらしいものにでも二度とこの世に生れ替って来るのはごめんです。

道においては死をいとわず思う

命を使うと書いて「使命」といいます。使命のある限り、生きる意味がある

今までは人のことだと思ふたに、俺が死ぬとはこいつはたまらん

悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった。

違った型の血液を送りこまれれば人間は死んでしまうように、違った型の精神を注入された者が砕かれぬ筈はない。

自分も若い日に死のうと思ったことがある。だが自分は死ねないということを学んだ。僕の生命は僕の所有ではないからである。

万有の真相は唯だ一言にしてつくす、曰く「不可解」我この恨みを懐いて煩悶、終に死を決すに至る。
(世の中の物事のすべては結局「不可解」と言うしかなく、その悩みゆえに死を決意した。)

大人にならず死ぬなんて、つまらんじゃないか。せめて恋人を抱いて、もうこのまま死んでもかまわないっていうような夜があって。天の一番高い所からこの世を見下ろすような一夜があって。死ぬならそれからでいいじゃないか。

いくたびか死なむとしては死なざりし わが来しかたのをかくし悲し
(何度か死のうとして結局死ななかった、自分の過去はおかしくもあり悲しくもある)

死んでもだれ一人泣いてくれる者もないくらいでは、生きがいのないものだね。

命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るもの也。此の仕末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり

是非に及ばず
(正しいか正しくないかを論じても仕方がない)

心しらぬ人は何とも言はばいへ 身をも惜まじ名をも惜まじ
(自分の真意がわからない人間から何を言われようともかまわない。命も名も惜しまず本意を遂げよう)

散りぬべき時知りてこそ 世の中の花も花なれ人も人なれ
(花も人も、自らの散るべき時を心得ていてこそ美しい)

よく生きることは、よく死ぬことでもある。

あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし
(本意を遂げるために命を捨てるのは、何と楽しく、晴れ晴れした心地だろうか)

傷ついたのは、生きたからである。

老人になっていつまでも生きていなければならぬとしたらこんな悲惨な事はない。死ということは、人間生活にとってやはり一つの救いなのだ

人生はマラソン、短距離で一等をもらってもしょうがない

死は生の自然の継続である。最もよき生の後に最も悪き死が来る理由がない。……死に対する最良の準備が最もよく生きることにあるは疑がない。

明日死を迎えるとしても今日から幸福になって遅くないのです

これでも死んでいる人よりましや

生きることは、この世に用があって生きている

生あるものは必ず死ぬ。死を受け入れなければ、生の意味も理解できない。

青年の観念的な死への傾斜は人生の始まりである

人皆生を楽しまざるは、死を恐れざる故なり。死を恐れざるにはあらず、死の近き事を忘るゝなり。
(誰しも人生を楽しんでいないのは、死を恐れていないからだ。というより自分が死ぬことを忘れているからだ。)

どの道死ななければならぬなら、私は、納得して死にたいのだ

自殺を考えるのは、生きる力がまだ十分に残っている証拠である。失意は発条である。

人生は意義ある悲劇だ。それで美しいのだ。生き甲斐がある。

美とともに生きた者だけが美しく死ぬことができる。

死にたくないから生きている時代もあろう、死なないから生きている時代もあろう生きたいから生きている時代もあろう。ーー生きずにはいられないから生きてゆく時代が来たらねばならぬ。

この世をば どりゃお暇に 線香の 煙と友に 灰左様なら

死なむと戦へば生き、生きむと戦へば必ず死するものなり
(死ぬ覚悟で戦えば生き残り、生き残ろうとして戦えば必ず死ぬものだ)

我れの我れたる所以の者は、蓋し死生の外に在り。
(自分が自分たる根拠は、自己の生死を超えたところにある。)

死は救いと言いながら、そうは悟りきれぬものである。

* * *

<おまけ>

わたしは先日の記事で、死にたいと思うことで得られる満足感があると書いた。

それは、本記事の途中で出てきた「自殺を考えるのは、生きる力がまだ十分に残っている証拠である」という言葉とつながる。

二つの言葉を式で表すと次のようになる。

・自殺を考える(死にたいと思う)=生きる力が十分に残っている
・自殺を考える(死にたいと思う)→「満足感」を得られる

よって、次の式が成立する。

自殺を考える(死にたいと思う)=生きる力が十分に残っている→満足感

わたしは、死ぬことに考えを巡らすことで自分に生きる力が十分に残っていることを確認し、満足感を得ていたのである。

これは新しい自己理解である。

自分に生きる力が残っていると自覚することは、精神的なゆとりをもたらすらしい。

もしあなたにも新たな発見や学びがあれば、コメントで教えてくださいね。

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