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【連載小説】息子君へ 86 (20 君は思い上がった子供になってしまうんだろうかね-2)

 どうしてそんなふうになってしまうのかと君は思うのかもしれない。子供を生むなんていうすごいことをしておいて、子供の顔の作りが整っているかどうかなんてことに、そこまで何かが左右されるものなのかと思うのかもしれない。子育てとはもっと神聖で、もっとひとにとって大きな学びの機会になるようなものだと君は教わっているのかもしれない。
 確かにそうで、子供というだけでかわいいものだろうし、自分の子供というだけで、何でもしてあげたいし、いろいろ世話をしてやって、元気に育ってくれたなら、それだけで充分に満たされたりするものなのだろう。
 君が君のお母さんとお父さんを足して割ったような、もこもこした感じのする愛嬌のある顔という感じだったとしても、君が両親からかわいがってもらえたのには変わりはないんだと思う。顔が整っていることで、また別のものが君に降り注ぐことになったというだけなんだ。
 自分の飼い犬をかわいがっているひとたちは、ほぼ全てのひとが自分の犬が一番かわいいと思っているのだろう。それと同じように、ひとは普通自分の子供を全ての子供の中で一番かわいいと思うものなのだろう。一番とか二番ということではなく、特別な関係の相手として、特別にかわいいと思うのだろう。むしろ、特別さを喜ぶ表現として、それをかわいく思うということだったりもするのだろう。
 かわいさとは関係性だったりもする。自分が世話してあげていて、世話してあげないといけないことをうれしく思っている対象というのは、ダメなところがあってもよくて、そのダメなところもかわいらしく感じられることが喜びになったりもする。自分がかわいがってあげることのできる存在というだけで、どうしようもなく特別なのだろう。それだけではなく、自分を頼ってくれて、自分のことを大好きでいてくれて、自分を世界そのもののように思ってくれて、自分のそばにいて幸せそうにしてくれるのだ。
 人間は自分が育てている子供が大好きになるようにできているのだ。どうしたところで、自分の子供が世界で一番自分を求めてくれて、自分を世界で一番いいものに思ってくれる存在なのだ。母親という存在は特別な存在で、自分は母親だと思ったときには、自分のことを自分の子供にとって絶対的な存在なのだと思える。友達や夫婦のような、とりあえず今のところの関係ではないのだ。
 子供に対して以外は、いつも相手に遠慮して、ずっと相手に合わせて窮屈な気持ちで生きてきたけれど、子供に対してだけは、大事にしたいという気持ちをそのままにして接していられるし、子供の笑顔に自分も心底からの笑顔を返すことができるというひとはたくさんいるのだろう。そういうひとたちは、子供が生まれて、子供を育て始めて、やっと人生が自分の人生のように思えるようになったりしているのだろう。
 親は育ててくれはしたけれど、自分のことを全く理解してくれなかったし、本当に自分のことが大好きで特別な友達だと思ってくれていた友達はひとりもいなかったし、彼氏も心底自分のことを好きだったわけではなかったし、旦那とも心を許し合った関係にはなれないままになりそうだとか、そういう人間関係しか人生になかったひとはたくさんいるのだろう。楽しいこともうれしいことも悲しいこともいくらでもあったけれど、深いところからの大きな感情とか、混じりけのない素直な感情を誰かとの間に行き来させたことがなかったひとというのは珍しくないのだろうし、心からの笑顔を向けられて、それに心からの笑顔を返すという経験を思春期以降一度もしてこなかったひとというのも全く珍しくないのだと思う。結婚するところまで恋愛したからって、最初からお互いにずっとなんだかなと引っかかりながら、それなりに楽しくやれるところで楽しくやって、一緒に笑っていても、お互いが自分の中で笑っているような感じで、お互いの笑いを感じ合って笑い合えていたわけではなかったりとか、それくらいの心理的な距離が限界だったりしてしまうひとだって多いのだろう。
 そんなふうに、ずっと長い間、心の声を黙らさせられているような気分で生活していたひとたちにとって、自分の子供を生み育てるというのは、自分の感情と自分の現実との結びつき方が、とてつもなく大きく変化するということだったりするのだろう。子供を育てるまでは、自分の感情の全部を注いで、全力になって関わって、してあげたいことをしてあげたいだけしてあげて、それに心底うれしそうにしてもらえて、一緒にうれしくてにこにこしていられるなんてことはなかったのだ。誰かのために本気で悩んだり、もっと何でもしてあげたいと一生懸命になれたことだってなかったのだろう。子供との生活が始まって、本当の人生を体験できたような気持ちになったひとはたくさんいるのだと思う。
 自分によって生きていてくれて、自分を好きでいてくれる相手なのだ。そんな存在なのだから、どうしたって愛さずにはいられないものなのだろう。子供は自分に命を投げ出して接してくれているし、心の全部で自分を受け入れて、自分にすがってくれる。それこそが人間関係といえるようなものなのだろう。子が母にすがるように心身を投げ出すから、投げ出されたひとは相手がよく生きられるようにと、それにまた心身を投げ出すようにして応えようとする。それに比べれば、全力で仕事をしたり、何かのプロジェクトに一生懸命取り組んでいるわけでもないひとの生活というのは、内心の感情とひとと交わしている表情とに大きな乖離のある、してあげたいことではなく、そうするとよさそうなことをしているというだけの関係でしかないのだろう。
 もちろん、誰もが子供を育てる中で、自分が自分の思っているままにひとと関われていることへの感動をそこまで大きく感じるわけではないのだろう。けれど、感情面でそこまでのものがなくても、関係性として、子供にとって自分が絶対的な存在であることを実感する瞬間は繰り返しやってくるものだろう。自分はその他大勢として求められることをやっているひとではなく、自分がいるからこそ生きていられるし、笑っていられるひとがいると思えるし、自分は絶対に必要なひとなのだと思えるようになるというのは、全ての母親が体験することなのだと思う。
 子供の幸せを願いながら、世話をしてあげて、見守っていてあげられるのなら、それだけで親は自分が生きている意味や価値を揺るぎなく子供から与えてもらえるのだ。自分がひとの役に立っていると思えて、自分がいるから楽しくやれているひとがいると思えることで、自分がやるべきことをやれていると実感することができる。それだけで、自分が世界から軽視されているような虚しさを追い払えるし、自分が話しかけると子供がうれしそうにしてくれることで、世界中の誰も自分が思っていることを聞きたいと思っていなくて、ずっと世界から黙らされているのに耐えているしかなかった虚しさを、遠くに追いやってしまうこともできるのだ。
 そんな光景は世の中にあふれている。ファストフード店にいて、近くにいた親子を眺めていて、服装や見た目がしょぼくれていて、顔つきも昔からしょぼくれたひと扱いされてきたんだろうなという感じのお母さんに、息子がお母さんが大好きという感じで抱きついて、お母さんの顔を見ながらうれしそうにあれこれ喋っていたりするのを見ていて、この女のひとは、親からも彼氏からも旦那からもこんなにも自分を好きになってもらって、こんなにも自分の顔を見てうれしそうにしてもらったことはなかったのかもしれないと数え切れないくらい何度も思ってきた。
 自分の母親にしかまともに大事にしてもらったことがなかったし、大人になってからも、自分の子供にしか本当にはっきりとは愛してもらえなかったという人生が、本当にとてつもなくたくさんあるのだろう。誰からも本当には愛されることがないひととして生きてきたひとたちの中には、愛されないことに疲れてしまったあと、世のお母さんたちが、どんなブスでも小さなわが子からは本当に愛してもらえているのを目にしているうちに、自分もお母さんになりたいと思うようになったひとがたくさんいるのだろう。そして、子供ができて、やっぱり本当に子供は自分を愛してくれて、自分にもやっと愛のある人生が手に入ったと心から幸せな気持ちになるのだろう。そして、その幸せそうな顔を見て、また別の親以外から愛されなかったひとも、お母さんになりたいと思うようになって、だからこそ、多くの女のひとが、一緒に暮らしたからって愛せるようになれる可能性が全くなさそうなひとと結婚してでも家族を作ろうとしてきたのだろう。
 世界全体から軽視され続けているような状態で生きているひとからすれば、自分へと向けられる愛情があるとすれば、親子の愛情としてしかありえないと思えてしまうのだろう。だからこそ、自分にできる一番いいことは子供を愛することだと思うのだろうし、我が子にできるかぎりのことをしてあげる日々を過ごして、家族が自分の人生の全てであったかのように思うことで、子供を育てることのできた自分のことをちゃんと頑張って生きたひとだと思えるようにしてきたのだろう。
 そして、それは親が子供の世話をしながら、子供の成長を見守ることの幸せであって、親の側で自己完結的に幸せになれるやり方でもあったりする。ひとの気持ちがあまりわからなかったりして他人とうまくやってこれなかったようなひとでも、ある程度の年齢までは子供を育てることの中では自力で幸せを維持できるのだ。
 他人の気持ちのわからないタイプのひとは、自分の子供の気持ちだってもちろんわからないのだろうし、表情からとか態度からなんとなくどういう気分なんだろうと推察しながら、自分が子供にしてあげたいことをしてあげて、反応に一喜一憂しながら、子供が無事に育っていってくれるのを喜んでいくという感じになるのだろう。けれど、そうだったとしても、本人は子供のために生きたと思えるくらいに、いつでも子供のことを第一に考えて、子供のためにできることを何でもしてあげようという気持ちで子供を育てることはできるのだ。そして、子育てには成功も失敗もないし、子供は放っておいても育つものだったりする。自分なりにやることをやってあげられた気になりながら、子供がかわいくてしょうがない時期にお母さん大好きという状態で幸せな日々を過ごせれば、それで一生子供を生んでよかったなと思っていられるのだろう。親子関係の中でしか本当には愛してもらえないというのは、容姿とか性格だけでなく、そういう種類の他人との関わりにくさをもっているひとにも当てはまるものだったりするのだ。
 もちろん、子供との日々の中で感じているものは、他人の気持ちがわかるひとと、ほとんどわからないひととでは、それなりに違っているのだろう。他人の気持ちがあまりわからないひとは、他人から気持ちを動かされることがスタートにならなくて、自分がどうしたいのかというところしかスタートにならないのだろうけれど、それは誰が相手でも変わらないのだろう。自分の子供との日々であっても、自分がどういうつもりで何をして、その結果どうなって、それがうれしかったとか、悲しかったとか、そういう自分が思うことを起点に自分の頭の中をぐるぐるする範囲でしか体験できないのだろう。
 とはいえ、それでも、目の前の光景に何かを感じることはできるのだ。子供にとっての母親の絶対的な特別さや、命がこんなふうにして育っていくのだということに、たまに一瞬じーんときたりはするのだろう。もちろん、共感能力があまり働いていないひとは自分の中に湧き上がった感動に浸りながら、それを相手と共有するような感覚を持っていないし、一瞬じーんとしたということしかあとには残らないのかもしれない。そして、それで充分神秘を体験した気になって、他のひとは、一瞬ではなく、子供と一緒の日々全体に感動的なものを感じていたりするのに、それと自分が感じたものが大差ないものだと思っていたりするのだろう。けれど、あまり気持ちのわからないひとにとっては、そこまで強い思い入れを持てたことが充分に特別なことになるのだろうし、子供との関係を揺るぎなく特別なものに思えるのだろう。
 君のお母さんだって、そういう感動は何度もあったんだろうと思う。君の誕生日に送ったメッセージの返事に、あっという間の一年だったというのと、ちょっとだけだったけれど、何を思うとか、公園に連れて行ったりしているときなんかに、ふとしたときにも感慨深いものこみあげてくるようなことが書いてあった。君のお母さんだって、君の顔をかわいいと思っているだけじゃなく、生まれてきてくれて、毎日どんどん大きくなっていくことを奇跡のように思ってじーんとしてもいたのだ。
 けれど、そうやって子供との関係性に満たされたうえで、母親たちだって自分の生活の中で楽しめることは楽しもうとするのだ。子供が元気なことに満足しているからって、もっといい気になれるのならいい気になりたいものだろうし、それは君のお母さんだってそうなのだろう。
 自分がみんなの中でどれくらいのポジションにいて、みんなと比べてどれくらい幸せなのかということを君のお母さんだってずっと気にしながら生きてきた。ずっと自分がみんなから軽視されていると思ってきただろうし、結婚してからも、こんなはずじゃなかったと思いながら、自分をみんなよりもみじめに感じて、だんだんと悲しかったり苦しかったりする気持ちから抜け出せなくなって、よく眠れない日々が続いていたところに、君が生まれてきてくれたんだ。
 君のお母さんにとって、君を育てられている喜びというのは、欲しかった赤ちゃんがやってきてくれて、かわいくて、大事にしてあげたい気持ちでいっぱいなのが自分でもうれしいとか、その程度のものではなかったんだ。君が自分に向かってかわいく笑ってくれるたびに、こんなはずではなかった人生が、やっと自分が望んでいたものに変わっていくような、この十年以上のいろんなものをやっと取り返せるのかもしれないという予感で震えてくるような、それくらい大きく感情を揺り動かしてくれるうれしさだったんだ。
 子供にとってお母さんがあまりにも圧倒的に絶対的な存在だということに感動することがたくさんあっただろうし、そのたびに、大事にしてあげたい気持ちでいっぱいになったのだろう。ずっと何よりも大事にしてあげるからねと思いながら君を眺めていると、かわいいなと思って、そのたびにかわいがってあげたくて仕方なくなってしまうのだろう。君をかわいがってあげている時間がうれしくて、何度でもそれを繰り返したくなるのだろう。君をかわいいと思うだけでうれしくなるし、君がかわいいことについて何かを想像するだけでいい気分になって、君がかわいいことをみんなに自慢したいような気持ちになってしまうのかもしれない。もっといい気分になれるネタがあるんだから、もっといい気分になろうとしてしまうのだろうし、そうすると、かわいがることをいいことだと思っている君のお母さんは、いい気分になるためにもっといろんなかわいがり方で君をたくさんかわいがりたいと思ってしまうのだろう。
 毎日いろんな子供たちの顔を見ていて、すぐにうちの子ってやっぱりかわいいんだなと思うのだろう。中学生くらいの男の子たちを見ていても、これくらいになると子供らしい顔はほとんど終わりで、もうはっきりときれいな子とブサイクな子に分かれてしまうんだなと思ったりして、その頃の君の顔を想像してみたりするのだろう。テレビを見ていても、世の中の大人の男たちを見ていても、ふとするたびに、君の顔がどうなっていくんだろうかと思って、わくわくしてしまったりするのだろう。
 そんなふうにいろんな顔にいろんなことを思いつつ、君の顔がしっかりしてきつつも整ったバランスをキープできているのを見守りながら、君のお母さんは十年とか二十年を過ごすことになる。君という自分の持ち物がとても価値のある宝物のように思えてきたりもするのだろう。そして、君にかわいい顔という宝物みたいなものをもたせて生まれてくることができるようにしてあげられた自分のことを、君にすごくいいことをしてあげられた、いいお母さんだと思えて、誇らしい気持ちになるのだろうと思う。
 自分の子供ならそれだけでかわいいと思えるものだろうし、わざわざ他のひとと比べるなんて意地汚いことはしないと思うんだろうか。けれど、多くの場合、そこで意地汚くなろうとするかどうかは、自分の持ち物次第なんだ。他の子よりかわいいと思えるのなら、そういうことは考えれば考えるほどいい気分になれる。他の子と比べると損だと比べないだけで、他の子と比べた方がいい気になれるなら、積極的に比べて、たくさん気分よくなろうとしてしまうものだったりする。君のお母さんはもともとそこに並々ならぬ渇望感のあるひとなのだし、そこを自分で我慢することはできないだろうと思う。
 別に君のお母さんだけじゃなくて、世の中はどうしたってそういうもので、どこを見てみてもみんながみんなと自慢し合ってばかりいるものだろう。自分に自慢できそうなものがない場合は、そういうわざとらしい社会になんだかなと思いながら、自分のペースでやれることを確保しながらおとなしくしているけれど、自慢できるものがあるのなら、みんなが自慢し合っている場所に自分も入っていこうとするのが普通なのだ。
 それに、世間の子供たちだって、自分はもっとどんなふうに生まれたかったと何でも望むことができたのなら、スポーツに夢中な子たち以外は、かわいい顔とか格好いい顔が欲しかったと思う子ばかりなのだろう。だから、君のお母さんが、きれいな顔で生んであげた自分はとてもいいお母さんだと思っているのは、間違った思い方ではないのだ。
 今これを書いている瞬間にも、君はお母さんにかわいいと言われながら、気持ちを込めてなでなでされているのかもしれない。なでなではうれしくても、かわいいと言われていることには、まだ小さい君は全然ぴんときていないのだろう。保育園で一緒の子たちだって、誰が誰やら違いもよくわからないし、そもそも君はまだ視力も育ってないから、何もかもぼんやりとしか感じていないのだろう。
 けれど、君のお母さんは、君の顔を見ながら、これは作り的に子供のときだけかわいい感じじゃなくて、大きくなってもバランスのいい整った顔になれるんだよと思って、よかったねと声をかけたり、それだけじゃ物足りなくなって、何度も何度もかわいいねと言いながら顔を撫でたりしているのだと思う。それはどうしてもそうなってしまうことなんだ。

 有害な親の例としてよくあげられるものに、子供に勉強をさせて、成績がいいことやいい学校に進学させたことを周囲に自慢していて、何よりも他人との会話で自分が気分よく話せる話のネタになるということが、自分にとって何よりもその子の存在意義のようなものになっているというパターンがある。家の中でもとにかく勉強をしてくれればよくて、成績さえよければいいという扱いをして、本人も思い上がった嫌なやつになるし、そのうち勉強にモチベーションを失った時点で役に立たなくなったやつ扱いを受けて人格を否定されることになるし、その子よりも勉強が得意ではない他の兄弟も、勉強でしか自分を見てくれないことに人格を踏みにじられ続けているから、親子間でも兄弟間でもまともな感情の行き来ができなくなってしまうのだろう。勉強でもサッカーでもピアノでもバレエでも、そうやって子供を利用して、うまくいかなくなったときには関係性がぼろぼろになっているというパターンは、とてもありふれたものだったりするのだろう。
 親が子供に対してすることだけではなく、何であれそうだろうけれど、自分のことばかり考えているひとというのは、自分に自慢できるものがあると、それを自慢することばかり考えて、いつでもそれを自慢する準備をしながら生きているような状態になる。何も自慢できないなら、そういうものかと思って、のんびり子供の相手をしていたのかもしれないけれど、自慢できることで、その親にとって、生活は誰かに自慢話ができる生活に変わってしまう。そして、そういうサイクルができてしまうと、子供の人格に興味を持たないまま、自分の持ちネタとして、他人に自慢できることでしか子供の存在にうれしくなっていない日々になってしまうのだ。
 そもそも子供を自分の所有物のように思ってしまえるようなものの感じ方をした親のところに生まれてきただけで不幸だけれど、自慢できるほどのものがなければ、そういう親に歪んだ価値観を刷り込まれたり、役立たず扱いされたり、出来の悪いやつ扱いされ続けて自尊心を損なわれたりせずにすんだのに、何かが人並みより少しできたせいで、そんなふうに親を狂わせてしまうなんて、子供は本当にかわいそうだなと思う。
 遺産の金が入ってからひとが変わったようになってしまったとか、彼氏ができてからまわりに対しての態度が急に変わったとか、そういうことはよく起こるのだろう。いいものを手に入れることは、ただいいものを手に入れていい気分になるということではないのだ。いいものを手に入れた本人は、自分がそれまでとは別の、いいものを手にしている自分に変わったと思っている。だから、いいものを持っている自分として、それまでとは違うことを考えて、それまでとは違うように振る舞ってしかるべきだと思ってしまう。
 子供がかわいい顔で生まれてきたというのだって、同じような悲劇を生みかねないような、ひとに自慢できるネタになってしまう。自分から自慢しなくても、いろんなひとに見せてあげるほどに、かわいいねと言ってもらえるのだ。そのたびに君のお母さんはうれしくなっているんだろうし、そうすると、家の中でも君を眺めながら、君がかわいいことでいい気持ちになろうとして君を見詰めて、かわいいねと笑いかけたりするのだろう。
 きっと今頃、君のお母さんは、毎日のように、何もわかっていない君に、かわいくてよかったねと同意を求めながら、君のどこがかわいいんだよと繰り返し何度も教えてくれているのかもしれない。君のお母さんにとって、君を見詰めてかわいくてよかったとうれしい気持ちに浸るというのは日課という以上のものなのだろう。ちょっと暇があったら君を見詰めて、かわいいと思えるいい気分を補給するみたいにして、いつでもいい気分になれるすごいものとして君をかわいがっていたりするんじゃないかと思う。
 君だって、お母さんが何を言っているのかわからなくても、うれしい気持ちで笑いかけられながらかわいがられたら、そのたびにうれしい気持ちになるのだろうし、お母さんが自分をかわいがってくれるのを大好きになるんだろう。
 君のお母さんからすれば、それはどれほどうれしくて楽しい状況かということなんだ。かわいい子供が自分にかわいがられていつもうれしそうにしてくれて、自分のことを大好きでいてくれているのだ。
 もちろん、いい感情を向けてあげているんだから、悪い感情を向けているよりはいいのだと思う。けれど、きっと君のお母さんは君をかわいがるたびにうれしすぎて、ちょっと疲れたから甘いものでも食べるような感覚で、ちょっと手が空いたときに、かわいがっていい気持ちになろうとするみたいな、そういうかわいがり方をしてしまうんじゃないかと思う。そんなふうに、かわいがってあげたいからかわいがるみたいな感じで接するというのは、たまにしか会わない祖父母がそうするならともかく、親がそれをやるのはなかなかに有害なのだろうと思う。
 アンパンマンが視界に入るたびに喜ぶような人間になってもしょうがないのと同じように、かわいがりたがるひとがしつこくかわいがってくるのに付き合わされているのに、それに過剰に適応して、かわいがられるのが心地いいからと、かわいがられるままにかわいがられて、もっとかわいがろうとすることにも協力的になって、かわいがられるための何かを積極的にやっていくような人間になってもしょうがないだろう。
 どうしたところで、かわいがるというのは対等な関わり方ではないのだ。かわいがって、調子に乗らせて、かわいいことをしてかわいいと言ってもらう遊びでうれしそうにしてもらいたがっているのだ。それは子供を思い上がらせながら、その浅はかさも含めて、かわいいなと楽しんでいるような行為なのだ。
 もちろん、今の世の中では、子育てを楽しむというのは、そういうことを楽しむことだということになってきているのだろう。かわいがってあげたい気持ちがいっぱいあって、してあげたいことがいっぱいあって、それをたくさんやってあげるのが愛情だということになっているのだろうし、それを干渉だとか、かわいがりたい側の都合でかわいがっているだけだとか言われても、全く意味がわからないひとがたくさんいるんだろうなと思う。
 自分が子供をかわいがろうとしているときの感覚は、ペットをかわいがるのと同じ感覚ではないと、どれだけ多くの親が言えるんだろうかと思う。ペットに対して、かわいがられる役に押し込めずに、その動物が自然と振る舞うままにさせつつ、自分との同居に心地よさそうにしてくれたならうれしいというような慎みをもった態度でペットと同居する必要があるとは思わないけれど、自分の子供に対してはそういう慎みがあったっていいんじゃないかとは思う。
 けれど、自分の子供がかわいいと、うれしすぎて、かわいいことをもっとして欲しいと思ってしまうのだろう。そうすると、やってほしいかわいいことをやるように誘導してしまうのだろうし、それをやってくれてかわいいと、もっとうれしくなってしまうのだろう。それは嘘ではない心からのうれしさだから、子供の方も自分に向けてうれしそうにしてくれることにいい気分になるし、自分がかわいくすることで喜んでくれるのだと思って、もっとかわいいことをしてあげたいと思うようになっていくのだろう。そうなると、君のお母さんはとんどん調子に乗って、君にかわいいことをやらせようとしたり、男の子っぽくなってきたら、格好いいことをやらせようとするようになるのだろう。親からすれば、どういう表情をしているわけでもない君を眺めながら漫然ときれいな顔だなと思っているより、かわいいぶったこととか、格好つけたことをしてくれて、それへのリアクションとしてかわいいとか格好いいと盛り上がれた方が、より簡単に大げさに喜べるのだろう。君のお母さんだって、格好いい顔をするように誘導して、格好よさげなことをするように誘導して、君に自分は格好いいことをするひとなんだと思い込ませようとしてくるのかもしれない。そうすれば、とりあえずそれがうまくいっている間は、君がいつも自分に向かって格好いいアピールをしてくれるから、それをかわいがっていられるし、君がそのまま格好いい男の子になっていけるようにコーチングしている気分になりながら、君がお母さんよりも家の外の世界で人気者になりたいと思うようになるまで、君をかわいがることで何年もいい気持ちでいられるのだ。
 どうしようもないことなのだろうと思う。今だって、通勤中なんかの隙間時間に君の写真を見返したりするたびに、君のちょっとこびた感じのする瞬間のかわいい顔にうれしさがこみあげてくるような毎日を過ごしているのかもしれない。ひとりでスクリーンの中の君のかわいい顔ににやにやして、せっかくきれいな顔に生まれたんだから、かわいくしないと損だし、かっこよくしないと損だし、いっぱいほめてあげて、かっこいい男の子になれるようにしてあげたいなと思って、今度はどんなことをさせてあげたらかわいいだろうかと、すぐに妄想が始まってしまうような、そんな精神状態の母親に君は育てられることになってしまったんだ。




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