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脱学校的人間(新編集版)〈3〉

 学校化への欲望は、かのマララ・ユスフザイが国連において行なったスピーチの、その締めくくりの一節において一つの概念として端的に集約され、結晶し、そして正当化されている。
 彼女は声も高らかに(あえて言えば臆面もなく)、こう言い放ったのであった。
「教育が唯一の方策である。教育こそ第一なのだ(Education is the only solution. Education first. )」
 ところで、それが「世界において唯一の方策=ソリューションである」と考えられているようなものとは、「それが世界において唯一の方策であることによってでしか、それがその世界における方策としては機能することさえできない」ようなものでもある。だからもしもその他の方策=ソリューションが、その世界において成立し機能しうる場合には、一方それまでその世界において「唯一の方策=ソリューション」と見なされていたものが、今度は逆に「もはや方策=ソリューションとして見なしてもらえなくなる」可能性さえ生じてきてしまうことになる。
 たとえばなぜその方策によって、その世界が変えられるというように思えるのか。それは「世界がそれによってでしか成り立っていない」ように思えるからである。それは「その世界における唯一の方策と思われているもの」が、結果として「その世界において方策と呼びうるものがそれしかない」ような状況に、その世界に生きる全ての人間を追い込んでいくことでもある。そしてそれを生きる方策として持たない者は、もはや何一つとして方策を持ちえないということになってしまう。
 自身が「その世界において唯一のもの」であろうとするならば、世界の中にその他のものが存在することを、一切認めるわけにはいかなくなるだろう。他の一切を世界から駆逐し、自身こそがこの世界における唯一のものであることを、自らにおいて独占することによってでなければ、自らの正当性を示すことができない。「この世界において唯一であろうとすること」とは、実にそういうことである。
 もしも事がここにまで至るならば、「第一にして唯一の方策である教育」が、あたかもその方策によって世界が一つになることができるかのような印象を、その世界全体に与えることができるだろう。それに反対することは、たとえその世界の外に放逐されても文句を言うことができないかのような印象を与えるだろう。そして、実際にそのようにするだろう。
 自らの考えこそが唯一の方策である。このような考え方は、もちろん教育や学校にとどまるものではない。むしろあらゆる社会的な概念とは、潜在的にそのような欲求を持っている。その意味で学校化とは、いわばあらゆる社会的な概念の、そのような潜在的欲求の様態を表す、一つの戯画なのだと言えよう。ゆえに学校化の問題は、単に学校だけの問題であるかのように見えて、実は全く「社会そのもの」の問題であり、ひいては「人間そのもの」の問題なのだ。

 さて、「人間の解剖は猿の解剖に対する一つの鍵である」とマルクスは言った。もしそうであるならば、われわれはここで人間を解剖することの前にまず、「学校化した人間」を解剖することからはじめることにしよう。

〈つづく〉


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