不十分な世界の私―哲学断章―〔16〕

 人が一般的に『自己』と呼んでいるものは、その構造と機能においては、どのような自己でも同一であり共通である。でないと「他の人の自己」を自己として認識することができない。また、どの自己もその構造と機能において同一であり共通であるからこそ、他の人の自己を「私の自己」に置き換えて考えてみることができる。『一般的』というのは、まさしくその「置き換えて考えてみることができる」ということに基づいて成り立っている。
 私の自己を他人の自己に置き換えて考える、あるいは他人の自己を私の自己に置き換える、そのことによって「私」は、他人の自己において「自分の自己」を見出すことさえ可能なのだ、と考えることができるところとなる。そのように、他人において自分を見出す、あるいは「他人のように自分を見出す意識=『自我』」が、つまりは自己を対象として意識する意識としての『自己意識』と言いうるような意識として、自己自身に見出されることとなる。
 自己意識においては、「他人は自己である」のと同時に「自己は他者である」ということになる。この両者は、その構造と機能において同質であり、置換可能であると見なされる。自己意識は、その一般的な機能と、その意識する対象が一般的であることにおいて、どのような対象に対して意識を向けたとしても、同一で共通した認識を持ちうることにおいて、「どの」自己意識も自己意識として同一であり、一般的だと言える。

 同じ対象に対して同じ認識を持ちうること、それにより「私の自己と他人の自己は、同一で共通した認識を共有することが可能になる」ものと考えうる。そこで、自分と他人の共通性の共有を前提に、「私と他人」は、「私たち」という共通して一般的な視点をもって、その共通した対象に対する対応を、共同してとることができるところとなる。
 自分の自己意識と他人の自己意識が、同質で置き換え可能であると見なされる限りにおいて、「私の」自己意識は、「私の」視点を、「一般的」な視点に還元することができるようになる。つまり「私が見ているものは誰でも見ている」のであり、ゆえに「誰もが見ているものを、私も見ようとしている」のだから、「私が対象をそのように見ている」ということを、他人においても「同様に見るべし」と、「他人一般」に要求することが可能となる。
 たとえば、人はよく「反省」という言葉を口にする。「お前は本当に反省しているのか?」と、他人に問い求め迫る。反省というのはそれこそ『意識』なので、他人が本当に反省しているかどうかなど、「自分の意識」では確かめようもないはずのものだが、それでもそのように、他人に反省を問い求め迫ることができるように思えるのは、「自分の意識」においては、「反省することが可能であることを、自分自身が知っている」からであり、そこから転じて、「反省が自分自身の意識において可能であるならば、他人のその意識においても可能であるだろう」という、一般的な認識に立っているからだ、と言える。そしてその、他人の「反省ぶり」を判定する基準はあくまでも「自分自身」の、反省に対する認識に依拠することになる。しかし、その場面で「自分自身」は、もちろんいっさい反省などしないのだ。「自分自身」は、ただただ他人に反省を問い求め迫るのみである。「自分自身がしないことを他人に求め迫る」とき、その要求は「自分自身」を超えて、決まって過度なものとなる。

〈つづく〉

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