down the river 最終章 最終回〜海へ〜
「さてと…。飯か…。」
とある商社の小さなビル内に正午を報せるチャイムが鳴り響いた。
営業購買課の室内にいる社員達は一斉に立ち上がり昼食の準備を始める。
「主任、売店行かないスか?」
尾田の隣に席を置く後輩であろうその社員は席から立ち上がりながら軽い口調で話しかけた。
「行かねぇよ。この弁当が見えないのか?」
「そうスか。でもたまにはカップラーメンとかジャンクな食い物欲しくなるでしょ。」
「あぁまぁ確かに…でもいいや。あ、お前売店行くならお茶買ってきて。冷たいヤツね。お前のお茶も買っていいから。」
「はい。んじゃお言葉に甘えて…。他何もいらないスか?」
尾田は弁当の包を解きながら無言で片手を横に振った。
『音楽から身を引いた。楽器も処分した。煙草も止めた。その代わりに手にしたのは妻と子。そして安定と安心、小さな車と小さな寝床。これで幸せ?なんだよな…。俺…。』
尾田は小さく微笑むと弁当を食べ始めた。
尾田を音楽から身を引かせたのは意外な人物だった。
ユウでもBlue bowでもない、迫島である。
迫島はZ-HEADの演奏力、表現力を遥か上を行き、20歳前にして事務所所属となり、ソロデビューまでこぎ着けたのだ。
尾田が成し得なかった事をバンドという集団ではなく個人で成し得るという偉業を迫島は達成したのである。
その事実は尾田に引導を渡す事になった。
尾田は清々しい気持ちで引退出来たのだ。
引退した尾田は高校を卒業してからずっと働いている会社で今まで以上に仕事に励んだ。
そして絶妙なタイミングで現在の妻と出会い結婚、そして子を授かり、更には30歳過ぎた頃には役職にも付いていた。
「はい、主任、お茶っスよ。」
尾田が弁当を半分食べ終えたところで先程の後輩が缶入りのお茶を買って戻って来た。
「あ、悪いね。混んでた?ごめんな。」
「いや全然、あ、これお釣りです。それとこれごちそうさまっス。」
後輩は缶コーヒーを尾田に見せてペコリと頭を下げた。
『頭から離れねぇな…。ユウ…お前の顔がよ…あん時の顔がよ…。』
その後輩の顔がユウへと変わり、尾田の目に飛び込んでくる。
そのユウの表情は尾田の部屋で足の痛みを堪えて立ち上がった時の美しい笑顔だ。
『あの日…俺はまだ後悔してる…。結局…お前を地獄に導いたのは俺だったって事なんだよな…。』
尾田はあの日、ユウの元から去った後車で数分の所にあるコンビニの駐車場でコーヒーを飲みながら煙草を吹かしていた。
そして5本目の煙草に火を点けたその時、パトカーのサイレンの音が遠くから聞こえてきた。
その音に妙な胸騒ぎを覚えた尾田は数台のパトカーの最後尾を追って行った。
辿り着いた先で見たものは、尾田の言うところの地獄だった。
覆面パトカーと普通のパトカー数台が停車してあり、飛び交う怒号、泣き喚く声、悲鳴が現場を支配していたのだ。
そして小さな一軒家で開きっ放しの玄関で警官3人が取り押さえている人物がいた。
それがユウであると尾田が確信したのは足の裏が見えたからだ。
血が滲み、不細工に巻かれた包帯が外れかかっていた。
『はぁ…貸したサンダルどこにやりやがったあのバカ…』
尾田は涙を誤魔化そうとどうでもいい事を考えた。
『アレ結構気に入ってたのによ…ハハ…』
尾田は涙を拭いながらその場を去ろうとした。
その時、尾田の携帯電話が鳴った。
尾田はすぐにポケットから携帯電話を取り出すが呼び出し音はすでに切れていた。
「すまねぇな…ユウ…もう迎えに行けねぇ…。」
呼び出し時間5秒、着信はユウのPHSからだった。
このシーンは何かの拍子にいつも思い出す。
今日はこの後輩のおちゃらけた顔が引き金になった様だ。
そしてそのシーンが終わると後輩の呼びかける声で尾田は我に返った。
「主任、さっさと飯食っちゃわないと、昼休み終わりますよ?」
「んあ?おぉそっか…。」
「何ぼぉっとしてるんです?」
尾田は慌てて弁当をかき込むと缶入りのお茶を一気に飲みほした。
「おほっ!主任すげぇ!350缶一気飲みっスか!」
「…。」
尾田は無言で口の端をティッシュで拭っていると後輩が追い打ちをかけた。
「ほんで?主任、何考え事してたんです?奥さんの事?エッチな事?ハハ!」
尾田は後輩を冗談ぽく睨み付けると、その後輩の背中を思い切り平手打ちした。
室内に強烈な破裂音が響き渡る。
尾田の巨体から繰り出される腰の入った平手打ちは後輩の痛覚をまんべんなく刺激した。
「いってぇええ!!いてぇえよぉ!!何!?何するんスかぁあ!いってぇ!」
尾田は悶え苦しむ後輩を横目に弁当を包み直しながら後輩の質問に答えた。
「お前を見てたらさ、思い出したんだよ。昔いたお前みたいなバカ奴の事をさ…って聞こえてねぇか…。歯磨きしよっと。」
尾田は席を立つと洗面所へと向かって行った。
・・・
「お疲れ様でした。」
「お疲れさぁん。」
17時過ぎ、購買課の社員は次々と家路を急ぎ始める。
「主任、なんか仕事残ってるなら手伝いますよ?」
「いや、何も無いよ。この資料だけ見直したら帰る。」
「なら自分帰りますよ?」
「あぁ、お疲れさん。じゃあね。」
「はい、お疲れ様でした。」
後輩が帰宅したのを確認すると尾田は再びパソコンをいじり始める。
『ユウ…お前は今どこで何をしているんだ…』
ユウの家族が住んでいた借家はもぬけの殻であり、敬人の実家はあの事件から数ヶ月後には更地となった。
『少年院だかムショだかしらんがどっかに収監されたのは聞いたんだが…もうとっくに出てきてる筈なんだがな…。俺に連絡をするって約束はあの着信で果たしたって事か…もう連絡なんかする気は無いんだろう。ふざけた野郎だ。』
あの事件から間もなく10年が経過しようとしている。
『俺もそろそろ前に進まなきゃな。守るべきものがあるんだからな。忘れんのにはまぁまだ時間はかかるだろうけど。』
尾田はパソコンをシャットダウンすると帰り支度を済ませた。
そして上司に日誌を渡し、挨拶をすると車の鍵をポケットから出した。
「じゃ、係長、自分帰りますね。お疲れ様でした。」
「はいはい、尾田君明日も頼むね。」
尾田は出入り口の前で軽い会釈をすると車へと急いだ。
尾田は車に乗り込みエンジンをかけた。
「はぁ…何か今日はすっきりしねぇなぁ…」
尾田は浮かない気持ちのまま車を走らせた。
季節は秋、肌寒い気温が心地良くなった尾田は車のウィンドウを半分開いた。
いつも通る道のいつもの景色、もう何回この道を通っただろうか。
この景色は尾田にとっての幸せと安定の象徴と呼べるのではないだろうか。
その象徴が今日はやけに腹の立つ存在に感じてしまう。
尾田はチッと舌打ちをすると顔をしかめて、アクセルを踏み込んだ。
「ライブハウスを回り、客を獲り、歓声を浴びてきた。ファンも付いた。自主制作だがCDだって何枚も作った。加賀美と一緒に築き上げてきたんだ。華やかな世界を夢見て加賀美と生きてきた。今の俺は…なんだ…?加賀美はまだ夢を追ってるんだぞ?迫島はいまだにプロミュージシャンとして活動してるんだぞ?いったい…いったい!俺の価値はなんだってんだ!!あぁ!?」
尾田は急に怒鳴り声を上げると、退勤路にある大きな公園の駐車場に勢いよく入った。
車を雑に停めた尾田はハンドルに突っ伏して泣き叫んだ。
「俺は結局お山の大将を気取ってただけじゃねぇか!!後輩から散々おだてられてその後輩から追い越され、結局なんの価値も無ぇただの会社員になっちまった!かみさんが居て息子がいる!?それがどうした!!それだけじゃねぇか!!俺は…!何なんだ!」
尾田は泣きながらCDを取り出しカーステレオで曲を流し始めた。
自分が幸せになれる
なぜそう思えたのかな
明日がくれば大丈夫
なぜそう感じたのかな
夢を見るのは自由で
行動を起こすのも自由で
羽ばたきを邪魔するものは
誰もいない
なぜそう信じることができたのかな
全然そんなことないのに
予定帳通りに進むことしかできないのが人間なのに
全然そんなことないのに
夢を見るだけ
それだけでも難しいことなのに
何かが書き込んだ予定帳通りに生きて
何かが書き込んだ予定帳通りに
死んでいく
ならば今ここに僕がいるのは
進化を支える礎以外に
なんの役に立つというのだ
恐らく間違いだらけであろう英語で歌われている曲を尾田は聴いた。
「これを書いた時…俺はどんな気持ちだったんだろう…進化を支えるだけの自分…か…。」
尾田が作ったZ-HEADの曲の一つだ。
曲も歌詞も作られたのは随分前である。
凶悪なサウンドで恐ろしくテンポが速く、悪魔が登場しそうな禍々しい曲調、そして獲物を食い殺す様なスクリームからは想像もつかない程に女々しく、後ろ向きで、悲しい歌詞だ。
「進化の礎…俺は進化の礎…か…」
尾田は絶望的な表情で車から降りた。
「進化の…ただそれだけ…か…ハハハ…散々デカい顔しときながら?蓋開けてみりゃ何のことは無い…」
尾田は公園の高台にある展望台を登っていく。
「今、気が付いたよ…。俺は空っぽだったってね…。なぁ…ユウ…俺は誰よりも弱かった…。」
尾田は展望台の頂上に辿り着くと秋の澄んだ空気の中で煌めく夜景を見回した。
街の灯りが海に沿って規則正しく並んでいる。
「美佳子…潤也…」
尾田は妻と息子の名を呼ぶと衝動的に手摺に手をかけて柵を乗り越えた。
柵の先には即死は免れない高さの空間が広がっている。
「もう…いいだろう…もう…」
尾田は右足を浮かせてその一步を踏み出そうとした。
「終わろう…終わらせよう…」
・
・
・
その時、ジリリと黒電話の音が響き渡った。
その音はポケットに入っている尾田の携帯電話から発せられている。
尾田は妙なところに几帳面で、普段車に乗る際は携帯電話の音は切っておくのだ。
しかもご丁寧にバイブレーター機能もしっかりと切る。
異常なほどの徹底ぶりだ。
それが今日に限って音もバイブレーター機能も切り忘れている。
更に身を投げようとしているまさにその瞬間にその音が鳴った。
尾田は一瞬にしてその偶然に気が付き、すぐに我に帰った。
「ハァハァ!ぶはっ!ハァハァハァハァ!ふう…ふう…ハァハァ…!」
尾田の顔から粘度の高い汗が吹き出てくる。
一気に熱い血が全身を駆け巡るのを一瞬感じると、すぐに今度は凍り付きそうな程の寒気を感じ始めた。
自殺を寸前で踏み留まった人間はその感覚が分かるだろうか。
高熱を出したかの様な寒気が全身を襲い、震えが止まらなくなるのだ。
携帯電話は震えている尾田のポケットの中で鳴り続けている。
尾田は震える手を柵に掛けると柵内の安全な場所へとフラフラと転がるように戻り、しりもちをついた。
「ハァハァ!お、俺は…!何やろうとしてんだ!?」
尾田は自分の頬を軽く殴るとポケットから携帯電話を取り出した。
知らない番号が表示されている。
「む、ま、…まだ鳴ってやがる…だ、誰だ?」
そう考えている間も止むことなく黒電話の音は鳴り続けている。
「ハァハァ…誰だか…知らんが俺の命を救ってくれたってわけか…こいつが…。いいよ、間違い電話かもしれんが出てやろうか…間違い電話でも…丁寧に対応してやろう…感謝を込めてな…。」
尾田は震える手で携帯電話の通話ボタンを押した。
「ふぅ…はい…もしもし…」
「尾田…さん…?」
「ハァハァ…ど、どちら様で?」
『俺の名前を知ってる?誰だ?』
「ユウです…新田優…覚えてますか?尾田さん…。」
尾田の全身を襲っていた震えと寒気が一気に引いていく。
「な…」
尾田は声を出す事が出来ない。
そしてその間、尾田の声を待っているかの様にユウは黙ったままだ。
『俺は頭がおかしくなったのか?幻聴?幻?バカな…俺は…でもその幻聴が俺を救ったのは間違いないんだ…お礼を…せめて礼を言わなきゃ…』
「あ……その…」
「…。」
「あ、う…。」
「あ…あり…あり…ありがとう…」
「え…?」
「ありがとう…」
「尾田さん…なんでお礼なんか…?迷惑ばっかりかけてきたのに…。」
「誰だか!誰だか!知らんが!…俺を救ってくれてありがとう!あり…」
「尾田さん…俺です…ユウです…ユウって呼んで下さいよ…。尾田さん…俺はあなたを救ってなんかいません。」
『バカな…ユウ…。俺は…。』
尾田は遂にその溢れ出る思いを全て吐き出し始めた。
声が出ない状況は一変し、怒鳴り上げる様な声で畳み掛けた。
「お前どこに行ってやがった!!お前はいつまで俺の心に風穴を開けっ放しでいる気だったんだ!!お前が…お前が…」
「…名前…呼んで下さいよ…尾田さん…。」
「お前!ふざけんな!なぜ今まで行方をくらましていたんだ!」
「報告があって連絡しました…すいません…遅くなって…」
「…。」
「尾田さん…ちゃんと報告したいんです…だから名前を呼んで下さい…。見知らぬ誰かのしょうもない報告で終わらせたくないんです…。」
「…お前…。」
「尾田さん…」
「…。」
『いつもそうだ…いつもだ…。訳のわからない苦しみや、幸せかなんなのか区別もつかねぇ出来事はいっつも一気に塊になって襲ってきやがるんだ…なぜ苦しみなら苦しみ…幸せなら幸せでしっかり区別して俺の元へやって来ないんだよ…。でも…でも…このまま終わってしまったら…風穴は塞がれる事はない…。』
「わかった…。…ゥ…」
「え?尾田さん?」
「ユ…」
「尾田さん…」
「ユウ!今までの事!きちんと報告しろ!ユウ!ユウ!ユウ!てめぇにはその責任があるんだ!ユウ!ユウ!言え!言えよ!ユウ!!おらっ!言え!さっさと言えよ!ユウ!おらぁ!!」
「タハハ…そんな力いっぱい言わなくてもいいのに…」
ユウの口癖が尾田の耳に入り込んだ瞬間、再び尾田の涙が溢れ出て止まらなくなってしまった。
『タハハ…か…なんも変わってねぇや…フフフ…。』
「尾田さん、泣いてるんですか?」
「ぐふっ…うぅ…うるせぇ!さっさと報告しろ!」
「タハハ…わかりましたよ…。あの後収監されましてね…」
「知ってんよ!んな事!」
「じゃあ…要点だけ…要点だけ…色んな事情で地元には帰れないんです…今…○○県にいるんです…」
「そうか…なんだ…隣の県に居たのか…で…?」
・
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・
・
・
・
「美佳子!ただいま!ちょっと出かけてくる!」
「ちょっと!そんな慌ててどうしたの!?出かけるってこの時間から!?」
「後、金…手持ち…ある?」
「いや、あるけど…どうしたの?」
尾田は慌てた様子で玄関から中へ入るとバタバタと部屋に入り着替えを始めた。
「美佳子!スーツ!スーツってクリーニング出してあったよね!?ね!?」
「尊くん!落ち着いて!!どうしたの!?」
尾田の妻、美佳子は尾田の身長よりも40cm以上背が低く、細身である。
そんな小柄な妻の一声で尾田はビクッと身を震わせると、我に返った。
同い年ではあるが力関係はその様子から見て取れる。
「あっはっはっは!ごめん!ごめんね!ハハハ!」
「謝らくていいけど、どうしたの?」
「来たんだよ!話したろ!?ユウ…ユウから連絡が来たんだよ!ハハハ!」
「そうなんだ!挨拶しに行くの!?」
妻のトーンが一気に明るくなった。
「そう!そうなんだ!アッハッハッハ!あ、明日会社休むね。ハハハ。」
「わかった、いいよ。待ってて準備してあげる。スーツね?」
尾田の妻は落ち着いた様子で部屋から出ていった。
尾田はユウの事を事細かに妻に話していた。
自分がユウを救ったこと、救った後自分が地獄へと導いてしまったこと、その後謝れていないこと、ずっと後悔している事等、全て妻に話していたのだ。
尾田はその場で餌を待つ犬の様にウロウロと行ったり来たりしていると妻がスーツを持って戻って来た。
「デカい身体でウロウロしないの。まったく…ほら、スーツよ。」
「あ、ありがとう…それと…」
「何?あ、はい、これお金。大金だからしっかり管理して。無駄遣いしないでね。」
「あ、うん、ありがとう…それ、それと…」
「何よ。あ、後、どっか泊まってくるの?だったら着替えも準備しないとね。」
「うん、ありがとう…それとさ…」
「なぁによ。ボストン取ってくるよ?後なに?」
「それと…」
「何よ…。急ぐんじゃないの?」
「俺は…ちゃんと生きるよ。」
「は?何よ急に…。」
「ちゃんと生きて、美佳子と潤也をちゃんと守る。」
妻は呆気にとられて口をポカーンと開けている。
そしてしばらくすると、妻も我に返り尾田に言い返した。
「そのつもりで結婚したんでしょ?」
「うん!」
尾田は子どもの様な返事で力いっぱい首を縦に振った。
「…今更って感じだけど…ありがとう…。これからもしっかり守ってね。何かあったの?」
「いや、何も無い。命って限りあるものだし、大事なもんだって。今日改めて思ったんだ。そしたらさ、美佳子と潤也の顔が思い浮かんだ。」
「そっか…。それは嬉しいな…。」
「ちゃんと…ちゃんと生きる!」
「うん、分かった。ありがと。さ、着替えて準備準備!」
「あぁ。そうか、急いでたんだ。」
「バカ、早くしなさい。」
「あ!美佳子!」
「何よ…もう…お泊りの着替え準備しなきゃいけないでしょ?子どもじゃないんだから早く準備しなさいよもう…。」
部屋から出て行こうとする妻を尾田は呼び止めた。
「こっち向いてよ、美佳子。」
「何よ。急ぐんでしょ?」
妻は振り返り尾田の方を向いた。
「愛してる。今までも。これからも。大事にする。」
尾田は真っ直ぐ妻の方を見て言い放った。
妻はというと赤面しながらもフンと鼻息を力強く放出すると何故か深々と頭を下げた。
そしてそのまま尾田に言い返した。
「よろしくお願いします。」
「ハハハ…」
「さ、準備準備。」
「はぁい…。」
尾田はバタバタと着替え始めた。
『俺は…何勝手に死のうとしてたんだ。死…そんなんじゃねぇだろ。死ぬってそんなんじゃねぇだろ。命ってそんな簡単な話じゃねぇだろ。』
尾田はスーツに身を包むと、妻の準備した小さなボストンバッグを助手席に放り投げ、車に乗り込んだ。
車のエンジンを始動させると妻が玄関から出てきて運転席側のウィンドウをコンコンと軽く叩いた。
「どした?」
尾田はウィンドウを開けて優しく問いかけると妻はすぐに話を返してきた。
「きちんと、冷静にユウくんと話をしてきなよ。今まで尊くんが思ってきたこと全部話をしてきちゃいなよ。ユウくんも辛かったはずだから。」
「ユウ…も…辛い…」
「そりゃそうでしょ。尊くんだけじゃない、ユウくんも同じ様に辛かったはずよ?」
尾田は気が付かなかった。
妻の言葉にハッとしたのだ。
長い年月を経てその思いは変化し、尾田の頭の中には何時しか自分の苦しみしか映し出されなくなっていたのだ。
自分の都合が良い様に解釈し被害者ぶる事で、苦しみから逃れようとしていた。
しかし実はその行為は苦しみを増悪させていたのだ。
尾田は自分の首を自分で締めているという事実すら感じなくなっていた。
「美佳子は…何でも俺の事はお見通しか…。」
「そりゃそうです。あなたの妻だもん。」
「そっか…ありがとう。きちんと話ししてくるね。」
「行ってらっしゃい。」
「行ってきます。」
尾田は車のウィンドウを締めるとその場から勢いよく走り去った。
・・・
尾田の車は高速道路を経て隣の県に辿り着いた。
そして更に車を走らせる事10分、ようやくユウが指定した場所へ辿り着いた。
車載時計は夜10時と表示されている。
尾田は駐車場に辿り着くとユウがかけてきた電話番号に電話をかけた。
ユウはワンコールするとすぐに電話を切り、大きくため息をついた。
「ふぅ…何だか勢いで来ちまったけど泊まるとこあるかな。あ、ま、別にいいか。帰ればいいんだもんね。ハハハ、冷静考えてみりゃ別に泊まらんでもいいんだよな。ハハ…何やってんだ俺は…ハハハ…。」
尾田は車のシートを倒した。
「はぁ…何か疲れたな…」
尾田がそう言い終えた瞬間、運転席側のウィンドウに人の顔が写った。
「ぬわぁあ!!??」
尾田は飛び起きると、その顔を見てすぐに理解した。
あの顔だ。
すっかり痩せこけてしまっているがそれ以外何も変わっていない。
尾田の心が揺れ始める。
「ユウ…ハハハ…ユウ…お前か…ユウ…。」
尾田はすぐに車から降りると、その顔をもう一度確認した。
「尾田さん…。」
「ユウ…。お前…本当にユウか…?」
「はい…ユウです…。」
尾田は勢いよくユウを抱き締めた。
そしてとめどなく涙が溢れてくる。
「うぅっ…う…てめぇ…どこに行ってやがった…」
尾田の言葉にユウは無言で力強く抱き締め返した。
「ユウ…うっ…すまない…ユウ…お前を地獄に導いたのはこの俺だ…本当に…すまなかった…。許してくれ…あの時…俺がお前を中学校に送っていなければ…許してくれ…ユウ…。」
ユウの返答は無い。
ただ尾田を抱き締め返すその力がより強くなっていく。
「ユウ…許してくれ…。ずっと…ずっと謝りたかったんだ!すまねぇ…!」
そしてようやくユウが口を開いた。
「尾田さん、そんな事はもういいんです…。俺に謝る必要なんて無い。俺は感謝しかしていない。本当です…。」
「ユウ…許してくれ…。」
ユウは泣きじゃくる尾田の背中を軽く数回叩くと尾田と身体を離した。
しかし尾田の謝罪は止まらない。
「すまねぇ…あの日お前をぶん殴ってでも引き止めてれば…有田くんも神さんも…そしてお前も…俺がみんなを傷付けた!俺が全て悪いんだ!元田も…瀧本も…Blue bowのメンバーも…全て傷つけたのは俺だ!俺のせいなんだ!すまねぇ…すまねぇ…ユウ…。」
ユウは尾田の両頬を優しく持ち、下を向いた尾田の顔を自分の方へ向けた。
「尾田さん、少なくとも俺はもういいんです…。そんな事よりも…尾田さん…」
「うぅ…すまねぇ…」
「尾田さんてば!」
「うぅ…う…何だよぉ…」
「産まれましたよ。」
「うぅ…え?」
尾田の嗚咽が止まる。
「さっきね、産まれましたよ。女の子。超元気。さ、ほら行きましょう。ね?」
「む、ま、ま、マジか…本当か…」
「本当ですよ。かみさんも元気いっぱい!ほら行きましょう。親族って事で中は入れますから。ね?もう処置も終わって個室に戻ってますから。」
尾田はユウに背中を押されて、薄暗い夜の産婦人科病院の中へ案内された。
そしてユウに案内された個室に入ると、ユウの妻らしき女性が小さな命を胸に抱えていた。
そして尾田はその姿を見て膝をガクリと床に着いた。
「ユ、ユウ…お前の子か…」
「タハハ…大げさだなぁ尾田さん。」
尾田はそのまま視線を妻らしき女性にずらした。
「ユ、ユウの奥さんか…」
「そうです。僕の奥さん。大切な大切な奥さんです。」
髪は乱れているがその一本一本は美しく、凛とした顔つきで赤子を抱くその姿は、既に母の顔だ。
「話は伺っております。尾田さん、夫を救ってくださり本当にありがとうございます。」
尾田はその言葉を聞き終えると、床に膝を着いたまま手を勢いよく横に振り、そして頭を下げた。
「や、や、止めて下さい…奥さん…俺はあなたの夫を…あなたの夫を…俺は…俺は…すいません…本当にすいません…俺が悪いんです…」
「尾田さん、夫から話を伺ってます。全て、本当に全部聞いております。謝るのは止めて下さい。尾田さん、あなたが居たから夫がここに居るんです。そしてあなたが居たから私が夫の隣にいるんです。そして、そしてそして…あなたが居たからこの子がこうしてここで眠っているんです。だから…謝るのは止めて下さい。あなたは夫の恩人で、私とこの子のの存在を意味を与えてくれた方なんです。」
「あ…あ…あぁ…」
尾田は流れる涙を止める事が出来ない。
自然と涙が出続けるのだ。
「ユウ、この子を尾田さんに見せれて良かったね。さぁユウ、尾田さんとゆっくり話をしてきなよ。ユウも今まで辛かったでしょ?」
ユウの妻の言葉を聞いて尾田はユウの方を勢いよく向いた。
『辛かった…やはり…辛かったのか…ユウ…。』
「あぁ、ありがとう。」
「もうすぐ看護師さん来てこの子連れてくみたいよ?今晩は看護師さんがこの子見てくれるみたいだから私はゆっくり眠れる。あなたはゆっくり尾田さんとお話してきて。明日の朝、着替えを持って来てくれればいいから。」
「うん、わかったよ。ありがとう。さぁ尾田さん、立って下さい。」
「あ、あぁ…。」
「汚いけど、ウチへどうぞ。」
「ん、んあぁ…」
尾田は放心状態のままユウに連れられ、病院を後にした。
・・・
「すいませんね、尾田さん。ウチ、駐車場1台しか契約してないから…。」
「いや、構わない。ほう…綺麗にしてんじゃんか…。」
駐車場の都合で尾田の車は病院の駐車場に置いておき、ユウの軽自動車に尾田が乗っかりユウ達が住んでいるアパートにやって来た。
「さぁ尾田さん、座って座って。泊まって行くんですよね?じゃあゆっくり飲みましょうよ。」
アパートにやって来る前にコンビニでしこたま酒とつまみを買い込んだ2人はうきうきでコンビニのビニール袋を漁った。
「はい、尾田さん。ビール。」
「あ、お、おう。ありがとう。」
2人は同時に缶ビールを軽快な音を立てて開栓すると無言で缶をコツンと叩き合わせた。
そして無言のまま2人同時にニヤリと口角を上げ、同時に飲み始めた。
2人は数秒で350mlの缶ビールを空にした。
もうこうなると止まらない。
一本、二本、三本と瞬く間に空の缶が転がり始める。
「ユウ…泥酔する前に言っておく。本当にすまなかった。そして…礼を言う…。本当にありがとう。」
酒に酔っているのか照れているのか尾田は両頬を赤く染めながら頭を下げた。
そして尾田は続ける。
「お前があの時、電話をくれてなかったら俺は身を投げていた。死んでいたよ。かみさんも息子も放ったらかしでな。」
ユウは顔をしかめて尾田の顔を見つめた。
「死ぬって…。」
「自分の価値が分からなくなったんだ。Z-HEADの尾田じゃない。ただの尾田尊の価値ってなんだろうって考えてたらさ、自分がすっからかんだって気が付いちまったんだよ。だからもう死のうかって。その瞬間だよ、お前が電話くれたのは。」
尾田は缶ビールを煽り、天井を見上げた。
「尾田さんがそんな事を…。」
「あぁ…。お前の子が産まれるって聞いてさ、命ってそんな簡単なもんじゃねぇって、死ってそんな軽いもんじゃねぇって気が付いたんだ。そしてそれは確信に変わった。お前の奥さんがお前の子を抱いてるのを見てな。環境がどうだろうと、世の中がどうだろうと産まれてくる子は関係ないんだ。てめぇの価値なんか気にもしてねぇ。ただ生きる。ただひたすら生きる。それでいいんだって…気付かせてくれたんだよ。8年前うちの子が産まれてきた時もそう思ったはずなんだがな…。時が経つと人間て忘れちまうもんだ。」
「タハハ…尾田さんみたいな人がそんな悩んでいたなんて…。」
ユウも缶ビールを飲むと深いため息をついた。
その様子を見た尾田は訪ねた。
「ユウ、この10年近くの…空白の時間…お前に何があった…?言いたくない事は言わんでいいが…。」
「檻から出た後、勘当されましたよ。治療費、慰謝料を払う代わりに2度と顔を見せるなって。」
「…。」
「後はもう狂った様に働いたんです。睡眠時間3時間くらいで。でももうやっぱ限界が来て…」
「…。」
「死のうと思ったんです…」
「バカな…。」
「そしたら、ぶっ叩かれたんですよ。タハハ…奥さんにね。そん時初対面ですよ?ハハ…。橋の上から海に向かって飛び降りようとしたら首根っこ掴まれて、思い切りビンタですよ?アハハハ!こうやってフルスイング!口の端が切れて出血するくらいのスーパーフルスイング!ハハハ!」
ユウは手を大きく振りかぶる動作をした。
「つ、強ぇな…ハハ…」
「話聞いたら、親友がそこで飛び降り自殺したって。その親友の命日だったらしいんです。花を供えに来たら俺が飛び降りようとしてたと…んで、頭に来てぶっ叩いたと…ハハハ。」
「わ、笑っていいんだか笑っちゃいけないんだかわからんな…。」
尾田は後頭部をポリポリと掻きながら苦笑いをした。
「尾田さん、俺ら…まだ生きていていいみたいですね。うん、そうだ。特に俺はまだ生きて罪を償い続けなきゃいけない。両親だった2人、有田、神…この4人の為にも…。死んで楽になるなんて許される訳がない。」
「…。」
「そんな力が働いてる気がする。」
「あぁ…そうかもしれないな。でも…もう少し自分を大切にしなきゃな。」
「…。」
「どうした?ユウ?」
ユウの表情が急に曇りだした。
そして重い口調で語り始めた。
「自分を大切に、なんて言えるのは大切にされた経験があるからなんです…。無い、もしくは自覚が無い俺みたいな奴がそんなこと言われても意味わかりませんよ…。」
「確かにな。俺はお前の生きてきた背景も軸になってるものも、ろくに知らない。それなのに軽はずみに自分を大切に…なんて言っちまって悪かったな。俺の枠に収まるお前じゃないからな。」
「すみません…変な事言って…ただあんま好きな言葉じゃないんです。自分を大切にって言葉…。」
「お前が謝るとこじゃない。いいかユウ。聞け。」
尾田は手に持っていた缶ビールを飲み干し、その缶をグシャグシャに握り潰した。
「お前みたいな考えに至らない様に娘を大切に大切にしてやるんだ。いいか?大切にする、されるって意味をお前が教えてやるんだ。お前の言葉は必ず響く。必ずだ。その辺の奴らとは言葉の重みが違うんだからよ。」
「尾田さん…あり…ありがとうございます…。」
ユウは涙流しながら正座に座り直すと、両手をと額を床に着けた。
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翌日の早朝、秋晴れの中、ユウと尾田はユウの妻が入院している産婦人科病院の駐車場にいた。
「本当によく俺に連絡してくれたな、ユウ。」
「勘当された親に、これが最後だって言って連絡取って尾田さんの電話番号聞いたんです。」
「親との最後の会話が俺の電話番号か…。やるせねぇな。でも…」
「…?」
「何で俺の番号をお前の両親が知っていたんだろうな。」
「…。」
「ユウ…?」
「タハハ!わかりませんよ!そんなん!」
「うん…。そうだな。わからなくていいな、そんなもん。」
尾田は明るいユウの表情を確認すると、大きく頷いた。
そして尾田は自分の車に乗り込むとエンジンをかけた。
ユウが運転席を覗き込むと尾田はウィンドウを開けた。
「自分を大切に…じゃねぇな。奥さんと娘を大切に。じゃあ。ユウ。またな。」
「また…。」
尾田はウィンドウを閉めるとその場から走り去った。
ユウは尾田の車が見えなくなるまでその場に立っていた。
「尾田さん…ありがとう…」
「ユウ…ありがとう…」
同じタイミングで2人は言い合った。
「高速使わないで帰るかな。海…海見ながら帰ろ。無性に海が見てぇ…」
尾田は遠回りとなるが海岸沿いを通り、愛する妻と息子の元へと帰っていった。
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ユウとの1件から1年経過しない間にAVメーカーHigh brilliant株式会社は強姦、強制わいせつ、薬物使用疑惑等で逮捕者が続出し廃業という道を辿った。
更に、High brilliant株式会社の上部組織である暴力団、武谷組はHigh brilliant株式会社の失策を虎遠会から責任を問われ破門となる。
High brilliant株式会社は、社長や、幹部はほぼ武谷組の幹部であった為、松川をはじめ、武谷組の組長、幹部が丸々逮捕という事になり武谷組は存続不可能となり消滅した。
新田優の物語は今も続いている。
悲しく、辛く、苦しい思いを語ってくれてありがとう。
この物語は新田優の過去を1人の男が描いた。
描いた男の名は
尾田尊
またの名を
織部.Black sword
完
最後まで読んでいただきありがとうございました。
あとがきを6日以内に更新予定です。
あとがき更新後はまた6日程期間をいただき、新作をアップします。
改めまして、down the riverを最後までお読みいただき誠にありがとうございました。
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