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『鉄灰色の空』(短編小説)


———  二車線の国道をまたぐように架かる虹を〜

   車の一人旅には、ミスチルの歌がよく合う。スピーカーから飛び出してくる抜けの良い歌声は骨の髄まで届き、気分を高揚させる。

   秋晴れの空の下、ハイウェイを北上していく。東京から飛ばしてきた小さな軽はたった今、八ヶ岳PAを越えた。

   それは、30手前の男の傷心旅行だった。少しでも今の心の濃度を薄めたかった。無理をしているのはわかっていたがテンションを上げて心を錯覚させようとしていた。でも、ミスチルの歌を熱唱しても、カラフルに色づいた信州の山々を眺めていても、結局、頭に浮かんでくるのは彼女の最後の言葉であった。

「ずれていた歩調がどこかで揃っちゃった。それがよくなかったんじゃないかな」
   煙にまくような言葉を残して彼女は僕の前から消えた。別れたあの日から、その言葉の奥にある何かをずっと探している。

「理由を真に受けるな」
   別れた翌日、親友の隼人に相談すると、最初に出てきた一言がそれだった。つまり、別れるための口実なんていくらでも作ることができるから考えても仕方ないのだと。
「女は理由を欲するから」
「理由?」
「相手への気持ちがなくなった時に、なぜ自分の気持ちがそうなったのかを一応は考えるんだ。でも、だいたいの女は冷めた理由なんて本当ははっきりわからんのよ。欲望とか本能的なものって理屈じゃないからな」
「なるほど」
「誰かを好きになる気持ちが止められないように、誰かに対して冷めていく気持ちも止められない。だから、適当な理由を付けて、心変わりした自分を正統化させようとするんだよね。まあ、これって女に限った話ではないかもしれんけどさ」
「そうだよなあ」
「だから別れ際に言われた言葉に対して、あの時ああすればよかったとか後悔すること自体無意味なんだよ。だって他の女ならそれが正しかったかもしれないだろ」
   隼人はモテるけれど意外と恋愛で苦労しているタイプだった。だから自分の経験を交えて言っているのはわかる。彼は自分を含む人間という存在に対してどこか諦めのようなものを持っている気がした。

   フロントガラスに水滴が当たり始めた。鉄灰色をした空が迫ってきていた。雷をともなう激しい雨が車に打ちつける。岡谷ジャンクションを通り過ぎて長野自動車道へと入る。僕はさらに北上していく。

   不思議なものである。本当に心はとりとめがない。晴れていた時は沈んでいた気持ちが、どしゃ降りになった途端にすごく軽くなった気がした。一時的なものかもしれない。でも確実に僕の心には新しい情報や刺激が入ってきていて、自然と心の中に立ちこめている暗雲を追い出そうとしている。わずかではありながら、この瞬間も僕は前へと進んでいるのだ。

「世界はこんなにも広い。人生はこんなにも短い。さあ君は明日どこへいく?」

   何かの本に書かれていたそんな言葉を思い出した。東京から離れれば離れるほどに、僕は過去からも離れていっているのだと思った。あの地へと向かってタイヤは回り続ける。

   聖地、戸隠神社。雨霧に包まれた参道と巨大神殿の石柱のような杉並木が僕を迎える。現実味のない凛とした世界に鳥肌が立った。神様はこの景色を僕に見せたかったから雨を降らせたのか、なんて詩人みたいなことを思った。「浄化」という言葉がこれだけぴったりと当てはまる状況は過去になかった。

   その時、「彼女と一緒にこの風景を見たかったな」という気持ちが、僕の中によぎることはなかった。今、僕は自分の足で自分の道を歩いている。他の誰も足を踏み入れることができない自分の世界を自分なりに持とうとしている。そんな心の変化が手に取るようにわかった。

   しばらくの間、樹齢700年を超える大樹を見上げていた。なぜだか、涙が止まらなかった。

(了)

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