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三島由紀夫『春の雪』を読む【ネタバレ有】

※※見出し画像は 空堂 さまより

これから三島由紀夫『豊饒の海』を読んでいく。とても長い冒険になりそうだ。ひとつの記事の字数も長くなるし、記事数も多くなる。それでも、付き合ってくだされば幸いだ。

また『奔馬』以降の記述も引用していく。未読の方はネタバレにご注意を!

前置きはここまでにして、さっそく読んでいきたい。

1.松枝清顕と本多繁邦

1.1 松枝清顕と本多繁邦の年齢

 学校で日露戦没の話が出たとき、松枝まつがえ清顕きよあきは、もっとも親しい友だちの本多ほんだ繁邦しげくにに、そのときのことをよくおぼえているかときいてみたが、繁邦の記憶もあいまいで、提灯ちょうちん行列を見に門まで連れて出られたことを、かすかにおぼえているだけであった。あの戦争がおわった年、二人とも十一歳だったのであるから、もう少し鮮明におぼえていてもよさそうなものだ、と清顕は思った。

『春の雪』一(いち)p.5 引用者太字

日露戦争が終わった1905年に11歳だったとある。よって、松枝清顕と本多繁邦は、”1894年生まれ”ということになる。(早生まれなどは考慮しないとすれば。)

前回の記事では”1896年生まれ”だと勘違いをしていた。改めてお詫びして訂正を申し上げたい。なお、当該記事は修正済である。

1.2 1894年生の文学者・同年没の文学者

ちなみに1894年生まれの作家として、日本では西脇順三郎(1/20)、葉山嘉樹よしき(3/12)、江戸川乱歩(10/21)が挙げられる。ノーベル文学賞候補の詩人、『セメント樽の中の手紙』で有名なプロレタリア文学者、幻想怪奇小説・推理小説の巨匠……3人ともよく知られた作家である。

同年に亡くなったのは、北村透谷とうこく(5/16)、仮名垣かながき魯文ろぶん(11/8)である。一人は浪漫派詩人であり、もう一人は戯作文学者である。透谷の死因は言わずもがな。

ともあれ、1894年とはそういう年だったらしい。

2.彼らの世代が目撃し、体験したこと

日本史の事件の中で、彼らが何を体験したのか? 年表で整理してみよう。先頭の数字は西暦であり、(丸括弧)内は年齢を示している。本作を読んだ方は、本多繁邦の年齢を思い浮かべていただきたい。その方がわかりやすいだろう。

2.1 2人の世代が目撃・体験した日本史上の出来事

1894(0)日清戦争勃発
1895(1)日清戦争終戦~下関条約・三国干渉
1904(10)日露戦争勃発
1905(11)日露戦争終戦~ポーツマス条約
――『春の雪』のころ――
1912(18)明治天皇崩御→大正へ
――――――――――――
1914(20)サラエボ事件→第一次世界大戦
1918(24)第一次世界大戦終結~ヴェルサイユ条約
1923(29)関東大震災
1926(32)大正天皇崩御→昭和へ
1931(37)満州事変
――『奔馬』のころ―――
1932(38)五・一五事件
――――――――――――
1936(42)二・二六事件(『憂国』のモデル)
――『暁の寺』のころ――
1941(47)真珠湾攻撃→アジア太平洋戦争
1945(51)アジア太平洋戦争終戦~ポツダム宣言
――――――――――――
1948(54)光クラブ事件(『青の時代』のモデル)
1950(56)朝鮮戦争勃発、金閣寺放火事件(『金閣寺』のモデル)
1953(59)朝鮮戦争休戦
1960(66)第一次安保闘争
1964(70)東京オリンピック
1965(71)ベトナム戦争勃発
1967(73)※東京の米国大使館に招かれた本多。詳細は『暁の寺』にて。
1969(75)東大安田講堂事件
――『天人五衰』のころ―
1970(76)大阪万博
1975(81)
――――――――――――

年表は簡略化した。より詳細な年表はのちのち、『奔馬』や『暁の寺』を読んだときに紹介したい。ひとまず本作の見取り図として、この年表のことを念頭に置いていただければ幸いだ。

2.2『春の雪』の時代設定

 松枝家の新年は盛大で、鹿児島から数十人の代表が、旧藩主のやしきのあとで松枝邸へ年始に来、……[中略]……今年は大帝の喪をはばかって、わずか三人が上京しただけであった。

『春の雪』十p.95 引用者太字

本作の時代設定は1912年(明治45年)ごろである。1912年といえば、明治天皇が崩御された年である。改めて振り返ってみると意外に感じる。小説の時代設定が、たとえば、夏目漱石『こころ』と重なっているからだ。

しかし、『春の雪』ではあまり触れられないものの、やはり同じ時代を扱っている。そういう視点で振り返ってみると、本作を深く読み込めそうである。

補足:夏目漱石『こころ』の〈私〉

ちなみに、『こころ』の私は1912年当時、24歳だったと推測されている[1]。以下の箇所が根拠となるだろう。

 その日取りのまだ来ないうちに、ある大きな事が起った。それは明治天皇のご病気の報知であった。新聞紙ですぐ日本中へ知れ渡ったこの事件は、一軒の田舎家いなかやのうちに多少の曲折を経てようやくまとまろうとした私の卒業祝いを、塵のごとくに吹き払った。
「まあ、ご遠慮申した方がよかろう」
 眼鏡を掛けて新聞を見ていた父はこういった。父は黙って自分の病気の事も考えているらしかった。私はついこの間の卒業式に例年の通り大学へ行幸ぎょうこうになった陛下をおもい出したりした。

夏目漱石『こころ』「中 両親と私」三 青空文庫 引用者太字

年齢設定をそう考えると、『こころ』の〈私〉と『春の雪』の2人とは、おおよそ6歳差になるらしい。同世代かと言われると微妙なところではあるが、年齢はそこまで遠くない。

[1]『こころ』の登場人物の年齢設定については、下記のサイトを参照した。
登場人物の年齢推定 : 夏目漱石『こころ』パーフェクトガイド (blog.jp)
こころ登場人物年齢表 (sakura.ne.jp)

3.セピアいろの写真について

3.1「得利寺附近の戦死者の弔祭」と題する写真

本作でまず印象的なのは、日露戦争の写真であろう。「得利寺とくりじ附近の戦死者の弔祭」と題する写真について。

 そのせいかして、家にもある日露戦役写真集のうち、もっとも清顕の心にしみ入る写真は、明治三十七年六月二十六日の、「得利寺とくりじ附近の戦死者の弔祭」と題する写真であった。
 セピアいろのインキで印刷されたその写真は、ほかの雑多な戦争写真とはまるでちがっている。構図がふしぎなほど絵画的で、数千人の兵士が、どう見ても画中の人物のようにうまく配置されて、中央の高い一本の白木の墓標へ、すべての効果を集中させているのである。

『春の雪』一pp.5-6

本来はこの写真に関して全文引用したいところだが、とても長くなる。そこで、特徴的な箇所を書き出すのみにしたい。

3.2 写真の特徴と構図

  • 遠景は山々

  • 左手:ひろい裾野をひらきながら徐々に高くなる。

  • 右手:まばらな小さい木立。黄色い空を透かしている。

  • 前景:都合六本の丈の高い樹々

  • 画面中央:白木の墓標。白布しらぬのをひるがえした祭壇。

  • うなだれている兵士たち。

  • 左奥の兵隊:野の果てまで半円を描くように並んでいる。

最後に、写真の構図について、こんな記述がある。

 すべては中央の、小さな白い祭壇と、花と、墓標へ向って、波のように押し寄せる心をささげているのだ。野の果てまでひろがるその巨きな集団から、一つの、口につくせぬ思いが、中央へ向って、その重い鉄のような巨大なを徐々にしめつけている。

『春の雪』一p.7

ご承知の通り、この写真は本作における重要なモチーフだ。『春の雪』以降の作品でもたびたび回想される。

3.3 回想される写真

たとえば『暁の寺』(十二)pp.130-131では、ふたたび「得利寺附近の戦死者の弔祭」のことが引き合いに出される。本多が出征する青年の隊列をながめていた時のこと。太平洋戦争の時代である。

 そのとき本多の眼に、冬日に照らされたひろい玉砂利の空間が、突然広漠たる荒野に見えてきた。三十年も前に清顕に見せてもらった日露戦役写真集の、あの「得利寺附近の戦死者の弔祭」の写真がありありと記憶にうかび、目前の風景と重なり合い、果てはそれを占めるにいたった。あれは戦いの果て、これはいくさのはじめであった。それにしてもそれは不吉な幻だった。

『暁の寺』十二pp.130-131

3.4 暗に繰り返される構図?

しかし、私はこれだけではないとにらんでいる。この写真と同じ構図が、他の箇所でも暗に描写されているのではないか? そんな予想をしている。細かい検証は後で行うが、『天人五衰』にも2つ、該当しそうなシーンが浮かび上がってきた。『奔馬』の中にはまだ見つかっていない。

注.『豊饒の海』読解の進め方について

この記事は、既に『豊饒の海』を読んだ方のために書いている。そのため詳細な人間関係については示さない。必要のない限り、物語のあらすじを提示することもない。

さらに『春の雪』を読んでいくと言いながら、先のようにそれ以降の作品を引用する場面も出てくる。情報が交錯しやすい。ネタバレも必然的に起きてしまう。その点にご注意願いたい。

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