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読書感想文 漫画の歴史/清水勲

 漫画の御先祖は「鳥獣人物戯画」である。平安後期から鎌倉前期半ば(12~13世紀?)頃に描かれた作品だ。この認識は現代日本人のみの話ではなく、江戸時代の人々の中にもあった。その作者である「鳥羽僧正」の名前を取って、戯画スタイルの絵のことを「鳥羽絵(とばえ)」と呼んだ。「漫画」という名前が登場してくるのは、もっと後の話である。

 この「鳥羽絵」が歴史のなかで最初に登場するのは、大坂であった。林縫之助編『浮世絵年表』(大正9・1920年)によると、宝永7年(1710年)頃、京都の赤猫斎全暇(せきみょうさいぜんか)(俗名・佐野金蔵)という人が鳥羽絵を描く、とある。人物の手足を細く長く描き、躍動感を出そうとした絵のことだ。

img20210912_15101430享保5年 軽筆鳥羽車

享保5年(1720) 筆者不明 軽筆鳥羽車

 同じく宝永7年に刊行された『寛闊(かんかつ)平家物語』という本には次のように書かれている。

「近き頃鳥羽絵といふもの、扇、袱紗(ふくさ)にはやり出したるを見れば、顔、形、手足人間にあらず、化け物づくしなり」

 鳥羽絵は扇や袱紗などの日常品に描かれ、人々の目に触れたらしい。どうやらそこそこ流行っていた様子だが、それを見た同時代の人は、奇異の目で見ていたようだ。

 京都で生まれた鳥羽絵は遅くとも享保期(1716~1736)のはじめには大阪に伝わる。大阪の版元たちは、鳥羽絵スタイルを木版戯画本にして出版することを思いつく。この時代は赤表紙の絵双紙(通称「赤本」と呼ばれ、絵が主体で文を付けた大人向け絵本)が全盛だったため、その新しいバージョンとして「鳥羽絵」が企画・出版されたのだろう。
 初期の赤本には『桃太郎』『猿蟹合戦』『舌切り雀』『カチカチ山』『花咲爺』などの童話を題材にしたものも多く、これを鳥羽絵で出版すれば売れるのではないか……という商人としての勘があったのではないかと思われる。
 大坂で鳥羽絵が流行した理由には、元禄期から享保期にかけて、大坂は人口が急増しており、版元も増えていた。元禄期には30万人の人口が、享保期には40万人にも増えていた。40万人という充分な消費者の数があり、しかも競争があって、そこで鳥羽絵を採用した本を売り出そうという発想に至ったのだ。

 こうして大阪発の「鳥羽絵」はじわじわと市民権を得ていくことになる。享保5年(1720)に刊行された大岡春朴の『鳥羽絵三国志』、筆者不明『軽筆鳥羽車』などが初期の鳥羽絵傑作として伝わっている。これが次第に名古屋・江戸へと伝播していくことになる。

 中国には「漫画」という言葉はなかった。この言葉は大正時代、日本から中国へ輸出した言葉だった。しかし中国には「漫筆」という言葉があった。気軽に書いた随筆のことを「漫筆」と呼んでいたのだ。この言葉から日本人が「漫筆→漫筆画→漫画」という言葉を生み出していったのではないか……という説がある。
 別の説もある。浮世絵研究家の林美一氏は『芸術生活』(昭和49・1974年)の中で、明和8年(1771)刊行の鈴木煥郷著『漫畫随筆』が起源ではないかという説を立てている。この『漫畫随筆』は漫画に関する随筆本ではない。絵も図も一つも入っていない。ではなぜ「漫畫」と題したのかというと、「万巻の書を貪欲に渉猟した随筆集」という意味だった。さらに詳しく見ていくと、漫畫というのは和名をヘラサギという鳥の漢名であった。ヘラサギのように本を読みあさったから、漫畫といった、というわけだった。

 寛政10年(1798)に刊行された絵本『四時交加(しじのゆきかい)』の序文に山東京伝(北尾政演)が、
「平常、舗中ニ在ッテ梧ニ凭(よ)リ、偶(たまたま)、夫(か)ノ貴賤士女老少等ノ大路ニ交加(かうが)スル所ヲ漫画(まんぐわ)シ」
 と書いて、漫画を「まんぐわ」と呼んで使用している。この本がヒットし、「漫画」という名前が人々に触れるようになる。
 ここからタイトルに「漫画」を名付ける画本類が次々と刊行されることとなる。
『北斎漫画』文化11年(1814)刊
『光琳漫画』文化14年(1817)刊
『滑稽漫画』文政6年(1823)刊
『北雲漫画』文政期(1818~30)刊
『漫画独稽古』天保10年(1839)刊
『北渓漫画』天保期(1830~44)刊
『豊国漫画図解』安政6年(1859)刊
 しかし、この時代の「漫画」は現代の私たちが使っている「漫画」とは意味合いがだいぶ違っていた。例えば「北斎漫画」は「絵手本」である。「スケッチ集」のようなものだった。およそ100年前の大阪発で流行した「鳥羽絵」は人物の手足が長く、人間の姿がコミカルに表現されていたが、北斎の漫画は写実的に人物の動きを描写していた。「鳥羽絵=漫画」ではなかった。
 「漫画」の名前は書籍のタイトルとして使うものであって、特定のジャンルを区切る言葉として成立していなかった。
 では現代人のいう「漫画」に当たる言葉はなんだったのだろうか?
 江戸時代の人々にも『鳥獣人物戯画』の存在は知られていたので、「戯画」や「戯れ絵」という言葉はあったが、日常語にはなっていなかった。その代わりに、戯画風の言葉として「鳥羽絵」や「大津絵」といった言葉はあった。「大津絵」とは近江の大津追分で江戸初期から売られた民芸風の絵のことを指す。仏画から発したが、のちに画題が「鬼の念仏」「藤娘」「ひょうたんなまず」といった戯画風のものに変わり、東海道の土産物として全国に知れ渡った。
 他にも漫画を現す言葉として、
 狂画、麁画(そが)、草画、略画、戯筆、酔画、存画、鈍画、楽画、臨画……
 などがあるが、「狂画」以外は特に日常語にはならなかった。北斎は『北斎漫画』の中で、戯画風の絵をさして「狂画」という言葉を使っている。「漫画」という言葉は使用しなかった。

 戯画風の絵は、現代のような「ストーリー漫画」ではなく、スケッチ集の他には風刺漫画を描く場合に使われた。
 天保12~14年(1842~44)は、老中水野忠邦による「天保の改革」が断行された年である。戯画絵にもそれにちなんだ絵が登場してくる。
 たとえば天保5年(1834)に版行された『北斎漫画』12編には貴族や武士を風刺する絵が登場している。
 「相馬公家」と題する絵は、鏡に向かって髭や眉を筆で書き込んで化粧する公家たちや、束帯(そくたい)姿の公家の下襲(しもがさね)を踏んづけて踊っている公家、それを見て笑っている公家といった、公家たちの堕落した姿が描かれている。

img20210912_15112203葛飾北斎 天保5年 『北斎漫画』相馬公家

天保5年 葛飾北斎 『北斎漫画』相馬公家

 天保8年(1837)には歌川芳虎(よしとら)による風刺画「道化武者・御代の若餅」が江戸で版行された。

img20210912_15120139天保8年 歌川芳虎 道外武者御代の若餅

天保8年(1837) 歌川芳虎 道外武者 御代の若餅

 右下が織田信長で、その左隣が明智光秀だ。織田信長と明智光秀が餅をつき、ついた餅を左上にいる豊臣秀吉がこねて、右上の徳川家康がその餅を食べている……という図である。
 戦国時代の基盤を築いたのは織田信長や明智光秀たちであり、本来「天下人」と呼ぶべきは豊臣秀吉で、その武将たちが最終的にこの世を去ったので、徳川家康が天下を取るに至った……その様子を皮肉った図である。
 この絵によって歌川芳虎と版元は手鎖50日の刑を受け、さらに版木は焼却処分にされた。
 しかしこの風刺画の反響は大きく、江戸の街に拡散され、この構図をパクった色んなバージョンが作られることになる。

 話は日本からしばし離れて、舞台はフランスに移る。
 1832年12月1日、パリで日刊新聞『シャンパリ』が創刊される。「シャンパリ」とは「いやがらせのために鍋釜を叩いて騒ぐこと」という意味である。その言葉が示すとおり、『シャリバリ』とは風刺画を売りにする新聞であった。
 主催者はシャルル・フィリポン(1800~1862)。漫画家あがりのジャーナリストで、フィリポンは1830年11月4日にも週刊風刺新聞『カリカチュール』を創刊し、成功を収めていた。『シャリバリ』は事業拡大のために創刊した姉妹紙だった。
 18世紀ヨーロッパの風刺画は銅版画による表現が主流だったが、銅版画は非常に手間とコストがかかるものだった。そこで18世紀末、ドイツで新しい石版技術が発明されることになる。石版の表面に石鹸・脂肪を含む液で文字や絵を書いて製版し、水と油の反発性を利用して印刷する、一種の平板印刷で、従来の技法より圧倒的に速く量産できるものであった。この技術がまずイギリスで実用化され、次いでフランスに伝播し、この技術を用いて一定の地位を築いたのが風刺新聞『カリカチュール』と『シャリバリ』の2紙だった。
 フランス最初の風刺漫画新聞は1829年6月創刊『シルエット』だったが、『カリカチュール』の登場によって、あっけなく廃刊に追い込まれてしまった。
 1830年のフランスで話題になっていた政治問題といえば即位したばかりのルイ・フィリップだった。ルイ・フィリップは王位についた最初の頃は民意を重んじていたが、成果が上がらずすぐに反動化していく。これが風刺漫画のネタになった。
 フィリポンは様々な画家にルイ・フィリップを揶揄する漫画を描かせていたが、行政はちっとも改革される気配が見せず、より手厳しく叩く方法を考えていた。
 そこで思いついたのがルイ・フィリップの頭を西洋梨に似せて描くことだった(西洋梨・ポアールには「間抜け」「とんま」という意味がある)。これが大ヒットし、『カリカチュール』の部数をさらに拡大させることになった。姉妹紙である『シャリバリ』にも同じく洋梨頭のルイ・フィリップが頻繁に登場し、これは一つのブームとなって拡散していった。

img20210912_15125877梨頭のルイ・フィリップ フィリポン筆

1831年 シャルル・フィリポン 梨頭のルイ・フィリップ

 この『シャリバリ』人気はやがてフランスの外に出て、1851年のイギリスに『パンチ』の創刊を促す。これに続いてドイツでは1845年に『フリーゲンデ・ブラッテル』、1848年に『クラデラダッチ』が創刊する。
 特にイギリスの『パンチ』は副題に「ロンドン・シャリバリ」と付けられ、『シャリバリ』が強く意識されていた。
 『カリカチュール』は1835年に発禁処分を受けて廃刊することになり、『シャリバリ』はその後も長く出版し続け、1927年に終刊した。『パンチ』は2002年まで刊行が続いていた。

 版画によって大量複製・大量消費が可能な時代になると、アートは「商品」としての性格を次第に強めていくことになる。
 『シャリバリ』から100年遡る産業革命が始まりかけたイギリスで、ウィリアム・ホガースが自分の作品の海賊版や劣化コピーに悩まされていた。そこで1735年、ホガースは国会に版画の下絵画家や原版保有者の著作権保護をするよう請願書を提出した。これが同年、議会で可決し、「著作権法」が成立する。別名「ホガース法」とも呼ばれる。
 絵画の大量生産の時代に入り、ようやく「著作権」の概念も生まれようとしていた。

 フランス風刺漫画が流行していたルイ・フィリップ王時代(1830~1848)は日本では天保期(1830~1844)とほぼ一致する。場所は違えと、同じ時代に絵による社会風刺の文化が発達し、大衆に広まっていた。フランスも日本も、同じタイミングで漫画文化のスタートを切っていたのである。

 お話は日本へ戻ってくる。というか、日本へやってくることになる。
 文久元年(1861)4月25日、チャールズ・ワーグマンが長崎を訪れる。チャールズ・ワーグマン29歳の頃である。
 チャールズ・ワーグマンが日本を訪れたのは、報道画家として取材するためであった。チャールズ・ワーグマンはイギリス公使オールコック、モリソン領事との旅に同行し、7月5日イギリス公使館になっていた東禅寺にて水戸藩浪士からの襲撃を受ける。ワーグマンは縁の下に隠れながら一部始終を記録し、この時の様子を描いた作品はオールコック著『大君の都』の中に収録されている。

チャールズ・ワーグマン 1861年10月12日東禅寺事件

東禅寺事件 チャールズ・ワーグマンは隠れながらスケッチを取り、後に1枚の作品として仕上げた。かなりリアルな絵だと思われる。襖の影に隠れているのは、長崎領事モリソン。

 そんな事件に遭遇しながらも、チャールズ・ワーグマンは日本の風土をいたく気に入り、来日した翌年には小沢カネと結婚し、さらに翌年には長男一郎をもうけている。日本に腰を据えるつもりになっていたチャールズ・ワーグマンは、この日本の地で新たな仕事を始める。それが『ジャパン・パンチ』であった。
 『ジャパン・パンチ』の創刊は文久2年(1863)のことである。『パンチ』の日本版であった。

img20210912_15134709ジャパン・パンチ創刊号表紙

文久2年(1862) 『ジャパン・パンチ』創刊号表紙

 全ページ漫画絵で埋められた『ジャパン・パンチ』は、居留外国人向けに作られた本で、娯楽に飢えていた居留外国人の心を強く捉える。『ジャパン・パンチ』はジャーナリズム的な本で、はじめの頃は報道画が中心だったが、やがて日本の文化や風俗の紹介が多くなっていった。チャールズ・ワーグマンが漫画として描いた日本の風景はイギリスへも送られ、これが欧米人の日本人イメージの原型となった。欧米人が日本人をイメージするとき、まず「フジヤマ、ゲイシャ、ウタマロ」が出てくるが、これはチャールズ・ワーグマンの影響である。
 チャールズ・ワーグマンはもともと『パンチ』に夢中になっていた少年時代があり、日本の文化を漫画として書き起こす仕事は天職になっていく。
 『ジャパン・パンチ』はやがて日本人の間にも話題になるようになり、「パンチ風」の絵のことを「ポンチ絵」と呼ぶようになった。「ポンチ絵」はその語感で誤解されやすいが、「パンチ風の絵」を指した言葉である。
(でも「ポンチ」の言葉には「チンポ」を連想させようという意図があるんじゃないか……と私は見ている。当時なりのシャレではないかと……)
 チャールズ・ワーグマンは日本人に油絵を教え、彼の弟子から日本初の洋画家も誕生している。五姓田義松、高橋由一といった画家がそうである。漫画、西洋画両面で歴史的に重要な人物である。
 『ジャパン・パンチ』はチャールズ・ワーグマンに安定した仕事と収入をもたらし、途切れることなく25年間発行し続け、明治20年(1887)3月にその歴史を終える。この間に、大きな文化的影響を足跡として残すことになる。

 明治7年(1874)、河鍋暁斎は神奈垣魯文と組んで漫画雑誌『絵新聞日本地(にっぽんち)』を創刊させた。名前に「ポンチ」の名前が入っていることかわかるように、『ジャパン・パンチ』に影響を受けた雑誌だった。月2回刊で全ページ漫画という、日本人の手による最初の漫画雑誌である。
 しかしこの『絵新聞日本地』はたった2号で廃刊することになる。それは自由思想の板垣退助や開明思想の福沢諭吉を批判する内容で、当時の「文明開化運動」の風潮に逆らう保守的な内容だったことと、風刺画の中に似顔絵が登場してこなかったこと。『ジャパン・パンチ』人気の秘訣が似顔絵にあったことを、河鍋暁斎も神奈垣魯文も気付いていなかった。

 『絵新聞日本地』は失敗に終わったが、漫画雑誌創刊の波はじわじわと起きつつあった。
 明治10年(1877)3月、『団団珍聞(まるまるちんぶん)』(団団社)が創刊。風刺画を中心に、茶説(社説)、狂誌、狂句、狂歌、都々逸、川柳で構成された内容で、当時の藩閥政治への痛烈な批判が展開され、その批判対象は時に皇族にも向けられ、しばしば弾圧の対象になった。
 明治11年(1878)10月には『驥尾団子(きびだんご)』が『団団珍聞』の姉妹紙として創刊。『驥尾団子』はもしも『団団珍聞』が政府の弾圧によって発禁処分になった時のために創刊された本だったが、明治16年4月「身代わり新聞」を禁止する新聞紙条例が発効され、このために明治16年5月に廃刊となった。
 明治12年(1879)1月には京都から『我楽多珍報(がらくたちんぽう)』(浮西京絵(ふざけえ)社刊)が創刊。
 明治20年(1887)2月、フランス人画家ジョルジョ・ビゴーによる『トバエ』が創刊。
 同じく明治20年4月、宮武外骨と安達吟光による『頓知協会雑誌』が創刊される。

 この時代、漫画雑誌が次々と創刊された背景には、「自由民権運動」が大きく関わっていた。
 自由民権運動は東アジアとしては初となる国会開設の請願に始まる運動で、藩閥政府による専制政治を批判し、憲法の制定、議会の開設、地租の軽減、不平等条約の撤廃、言論の自由や集会の自由の保障などの要求を掲げた運動である。
 学校の教科書的には、明治7年(1874)、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平らがヨーロッパ自由主義思想の影響を受けて民選議院設立建白書を左院に提出したことが始まりとする運動……と書かれているが、大衆的には漫画が大きく関わった運動だった。漫画雑誌が次々に創刊されていたのは、この自由民権運動を大衆に広め、政府に対して異議申し立てすることが目的だった。

img20210912_15143994本多錦吉郎『団団珍聞』政府屋の値段付け

明治11年(1878) 本多錦吉郎 『団団珍聞』政府屋の値段付け

 我が国で漫画雑誌が流行した最初の切っ掛けは、政府に対する批判と風刺だった。
 上は明治11年9月14日号『団団珍聞』に掲載された『政府屋の値付け』という作品である。
 雑貨店の店先で主人と客が話をしている。
主人「当店では薩摩芋(薩摩藩)にお萩(長州藩)、鍋(佐賀藩ー藩主が鍋島氏)なぞは高値に売れます。土佐ぶし(土佐藩)の噂もありますが、いずれ下落でございましょう。値段付けがあるからマア正札をご覧ください」
客「仙台平(絹織物の一種ー伊達藩)だの博多地(黒田藩)だのという結構な品が格安で、お芋やお萩がめっぽう高い値で売れるのは、ちと甘口を好む世の中と見えますが、ハテ流行物というものは妙なものでげすなァ」
 この絵は政府が伊達藩や黒田藩といった藩を低く見なし、薩摩藩や長州藩、佐賀藩出身ばかり甘く評価することを批判した絵であった。
 このように、当時の風刺画は一目でわかるようには作られていなかった。見る側も教養をもって読み解かなければならない内容になっていた。これも政府による弾圧を回避するため、もしも逮捕されたときには「これは単に雑貨屋でのやりとりと描いただけでございます」ととぼけるためのものだった。狂歌や狂詩もなぜそのように書かれたかというと、おふざけのためとかシャレではなく、逮捕されたときの言い訳を作るためだった。そのために漫画雑誌は少し回りくどく、暗喩的な表現として漫画や狂歌を描いていた。

img20210915_11002178トバエ 表紙

 明治20年に創刊された『トバエ』は横浜居留地の中で創刊した。フランス人画家ジョルジョ・ビゴーを中心に据え、風刺画を展開していったが、これは居留地という「治外法権」という場を利用して作られた雑誌だった。この雑誌には政治活動家である中江兆民が深く関わっているとされ、治外法権と漫画を隠れ蓑にして、政治活動家も活動に参加し、漫画を通して政府批判を展開していた。

 こういった政治運動としての漫画ブームは、明治22年、政府主導による憲法が制定され、その翌年には帝国議会開設があり、運動が下火になっていくと同時に、政治運動を背景とした漫画ブームもテーマを喪って下火になっていく。
 テーマを失って低迷する漫画雑誌だったが、それから10年の時を経て、新しいテーマを獲得していく。
 切っ掛けはアメリカだった。1896年(明治29)、『ニューヨーク・ワールド』紙にR・F・アウトコールトによる漫画『イエロー・キッド』が掲載する。この漫画は何コマにもわたってお話が続く、ストーリー漫画だった。「連続漫画」の登場である。
 この存在を知ったのは田口米作と北沢楽天だった。
 まず田口米作は明治29年『団団珍聞』の中に『江の島鎌倉長短旅行』という6コマ漫画を3号にわたって連載した。「ノッポ」と「チビ」による江の島を巡るドタバタ劇である。
 これに続いたのが北沢楽天だった。北沢楽天は明治32年(1899)に福沢諭吉に才能を見いだされ、『時事新報』で連載を持つことになった。この時、北沢楽天は「ポンチ絵」から「漫画」という言葉を使い始め、さらに「漫画家」を名乗る。これが我が国での「漫画家第一号」となった。
 北沢楽天はアメリカの新聞漫画を研究し、個性的なキャラクターを中心に据えた連続漫画を掲載することを考え出す。『田吾作と杢兵衛の東京見物』『灰殻木戸太郎の失敗』『茶目と凸坊』といったシリーズの長期連載漫画がここから生まれる。

img20210912_15153800北沢楽天 田吾作と杢兵衛の東京見物

明治35年(1902) 北沢楽天 『時事漫画』田吾作と杢兵衛の東京見物

 上は『田吾作と杢兵衛の東京見物』の一つである。東京見物にやって来た田吾作と杢兵衛の二人がビヤホールを尋ねるお話である。そこで「ビール」なるものを初めて見て驚き、飲んでみてその苦さにさらに驚く。ちょうど“第2の文明開化期”時代の様子を描き出している。この時代の“田舎と都会”の違いは、“近世と近代“の違いでもあった。その違いを、面白おかしく描いた作品として、かなり資料性の高い内容にもなっている。

 同じく北沢楽天は『茶目と凸坊』という作品も『時事新報』内で連載する。茶目と凸坊というわんぱく少年を描いた漫画で、これまでの漫画は政治風刺が中心で内容も弾圧や逮捕を恐れてやや回りくどく描かれていてわかりにくかったから、北沢楽天は子供のための漫画が必要なのではないかと、この作品を描き始める。茶目と凸坊は当時“イタズラ小僧”の代名詞となるくらいに広まり、カルタやキャラクターの絵に使われ、「キャラクターグッズ」の第1号にもなった。ここから「子供向け漫画」の系譜が始まることになる。

 我が国における最初の長編ストーリー漫画は岡本一平による『人の一生』だろう。大正10年(1921)朝日新聞にて連載をスタートしたこの作品は、大正11年に(1922)3月13日に世界一周旅行のために連載を中断し、大正13年(1924)帰国後『婦女界』に移って『続・人の一生』として連載を再開し、昭和4年(1929)4月まで続く大長編となった。実に6年の長期連載のストーリー漫画である。
 『人の一生』は唯野人成(ただのひとなり)という平凡な男性を主人公としていて、ごく普通の教育や職業遍歴を経て、結婚、就職、出世を描き、最後には代議士になるところまでを描いている。当時は大正後期から昭和初期時代で、小学生が和装から洋装に変わる時期でもあり、また女性の社会進出もこの頃だった。そうした時代の変化をまざまざと描いた『人の一生』は当時の風俗記録としても資料性の高い作品となっている。

 大正3年(1914)、大日本雄弁会(現・講談社)から『少年倶楽部』が創刊される。小学生から中学生までを対象とした子供向け漫画雑誌である。
 この頃、子供向け漫画雑誌の歴史が始まりかけた頃で、明治28年(1895)には博文館の『少年世界』、明治36年(1903)には実業之日本社からは『日本少年』などが先行していた。後発の『少年倶楽部』は発行部数約2万部。対する『日本少年』は20万部だった。
 当時はいまいちパッとしなかった『少年倶楽部』だったが、大正10年(1921)4月、加藤謙一が編集長となり、改革が始まる。新人漫画家の開拓に、読み物も充実させた。吉村英治『神州天馬侠』、高垣眸『竜神丸』『豹の眼』、大仏次郎『角兵衛獅子』などが評判となり、さらにこの時開拓した新人画家も挿絵で人気を獲得していくことになる。
 これらの改革で『少年倶楽部』は大正14年(1925)の新年号には40万部を達成する。

img20210915_11023013のらくろ二等卒 第1回

『のらくろ二等卒』第1回冒頭シーン。

 この頃の少年雑誌には漫画の連載はまだ少なかった。そこで『少年倶楽部』の飛躍には、さらに漫画の充実が不可欠だと考えられた。そこで加藤謙一が目を付けたのは『少年倶楽部』で『目玉のチビちゃん』を2年ほど連載していた田河水泡だった。
 この頃の漫画には動物を主人公にした漫画はなかった。そこで加藤謙一は「犬を主人公にして、犬たちに兵隊ごっこをやらせるのはどうだろう」と思いつき、田河水泡も面白がって賛成する。ここから名作漫画『のらくろ』が生まれた。
 『のらくろ』は昭和6年(1931)の新年号で連載を開始させ、たちまち人気の作品となり、その後10年にわたる長編漫画になった。『のらくろ』の成功が、講談社の漫画重視の方針を確定させたのである。『のらくろ』が連載していた期間に『少年倶楽部』の発行部数は75万部にも達していた。

img20210915_11032287正チャンの冒険 第1巻冒頭

『正チャンの冒険』織田小星文・東風人画 大正13年。『のらくろ』の時代、同じく社会現象級大ヒット漫画といえば『正チャンの冒険』だった。正チャンが被っている帽子は子供の間で大ヒットして、現在でも商品名として「正ちゃん帽」という言葉が時々使われる。

 昭和15年(1940)近衛新体制運動を契機に、新党・労働団体が解散し、漫画家団体も自主的に統合する動きを示し、同年8月31日、新日本漫画家協会が発足する。臨戦態勢が強まっていく最中、漫画家達も一つの団体に結集しなければならない事態に追い込まれていた。
 会の活動は機関誌『漫画』の刊行にあった。そのために、委員会・研究会が何回かもたれた。昭和15年(1940)10月29日に創刊号が出され、機関誌『漫画』は昭和19年(1944)11月まで月刊で発行され続けた。
 しかし日米関係がますます悪化すると、会の生ぬるい活動に嫌気が差して脱退する者が出るようになった。加藤悦郎、安本亮一、深谷亮、岸丈夫らである。彼らは「建設漫画会」というグループを新設し、政府の戦争政策を国民により徹底するための教宣漫画を描いていく。

 昭和16年(1941)、いよいよ太平洋戦争が始まると、漫画家達は国策に協力していくようになる。
 昭和17年(1942)5月、「日本漫画奉公会」が結成。会長を北沢楽天、副会長を田中比左良、顧問岡本一平、監事細木原青起で、会員数90名のかなり規模の大きな会となった。
 会の活動として「聖戦必勝態勢昂揚肉筆漫画」の作成、「決戦漫画展」の巡回主催、大坂翼賛会漫画展の開催協力、『決戦漫画集』の出版なとが行われた。
 その他にも漫画家達は報道班員として各戦地に送られていった。中国、ジャワ、ビルマ、フィリピン、ボルネオ……こういった土地へ漫画家達が派遣され、伝単(敵に対する宣伝工作、謀略を目的としたビラ)を作成した。
 戦争が激しくなっていくと応召される漫画家も出るようになり、戦地でこの世を去る者も出るようになった。
 この時代は時流に乗ってでも漫画を描く、あるいは時流に乗らなければ漫画を描くことができないような時代だった。漫画家に突きつけられた選択肢は、翼賛漫画を描くか、それとも筆を折って田舎へ疎開するか。もう一つの選択は、プロレタリア漫画、つまり左翼漫画だった。右翼漫画を描くか、左翼漫画を描くか、そうでなければ漫画家をやめるか……この3択のみしかなかった。中には加藤悦郎のように、疎開できなかったがゆえに、右翼漫画や左翼漫画を描いていた漫画家もいた。

 戦争が末期に近付くにつれ、漫画家達は戦争に駆り出されたり疎開したりだったし、物資の供給にも限りがあったから、漫画雑誌には載せる作品がなく、ページ数を減らしていった。
 間もなく空襲が始まり、昭和19年(1944)11月30日の東京空襲によって雑誌『漫画』の印刷所が焼失。休刊に追い込まれ、さらに主宰者である近藤日出造が兵役に取られてしまって、そのまま復刊することはなかった。
 『漫画』はその後も復刊の兆しはあったが、昭和19年11月号が戦前の最終号となる。『漫画日本』昭和20年(1945)1月号まで確認されているが、以降は発見されていない。おそらくは戦前の漫画はこの時一度絶えたのだろう。
 『漫画』は終戦の月である8月下旬には復刊。これが戦後漫画第1号となった。『漫画日本』も10月には復刊している。

 終戦後もしばらく混沌とした時代が続き、物資も充分ではないし、作家たちも漫画を描く体制を取り戻すことができず、漫画は描き続けられていたものの、停滞していた。
 そんな中、赤本表紙漫画の中で驚異的なベストセラーが誕生する。
 1947年に手塚治虫が手がけた『新宝島』である。この作品によって漫画の革命が起き、戦後時代の漫画が始まることになる。

本の感想

 本書の紹介はここまで。
 これまで読書感想文は本のだいたい前半50ページから100ページほどのダイジェストを紹介し、後は私の個人的なしょーもないお話をペラペラと書いてお終い……という構成だったけど、今回はかなり長めに本文の紹介に文字数を割くことにした。

 漫画の歴史は手塚治虫によって新たなページが開かれ、ここから現代に連なる戦後漫画が始まるわけだが、その以前の漫画の歴史はよくわからない。
 大雑把な歴史としてチャールズ・ワーグマンが『ジャパン・パンチ』を創刊し、そこから「ポンチ絵」が日本人の間に広まり、チャールズ・ワーグマンの弟子やフォロワーたちが継承していった……という経緯は知っていたのだが、そこに至るまでの詳細がほとんどわからなかった。
 それが今回、かなり詳しい資料を手に入れたので、私個人的に「手塚以前の漫画」の系譜を整理したかったし、また多くの人に知らせるべきだと考えて、かなり長めに本文紹介を行うことにした。
 内容はもちろん本そのままではなく、ほとんどの事件や作品が時系列に並ぶように整理し直した。実際の本では、これらの情報はややバラバラに収録されている。フランスの『シャンバリ』にはじまり、江戸の風刺漫画(浮世絵)、そこから「漫画」の名前を巡る話、それから『ジャパン・パンチ』という順序になっている。
 こちらのブログでは時系列に沿って、大坂・京都で18世紀頃流行した「鳥羽絵」からはじめて、江戸中期の浮世絵、それからジャパン・パンチという流れで紹介することにした。こう紹介した方が、後々の人へ向けた教科書として読みやすかろうという判断だ。

 漫画の歴史という話をするとどの資料でもだいたい手塚治虫からスタートということになっている。まだ戦後2年目という時代で、戦前漫画は印刷所消失という事態になってことごとく姿を消していた時代だった。漫画家の多くが戦地でこの世を去っていた。まさに漫画の業界や歴史が一度白紙に戻された時代だった。
 その真っ白な時代に、新たな1ページを刻んだのが手塚治虫だった。
 しかも手塚治虫は漫画のコマを、映画のフィルムみたいにずーっと連続して展開しているような漫画を作った。その以前の大正、昭和初期時代の漫画は、コマとコマがうまく連なっていなかった。絵本の絵をコマに押し込めたような内容で、コマごとに違うシーンや表情が描かれている感じだった。これを、全てフィルムのように繋げ、展開する漫画を生み出したのが手塚治虫だった。これが当時の人に「絵が動いているように見える!」「音が聞こえるような気がする!」という衝撃をもたらす。それくらいに画期的な漫画だった。
 こういう観点からすると、戦後漫画のスタートを切ったのは手塚治虫という答えで間違いではない。
 しかし実際には、漫画は手塚治虫によって突如生まれてきたのではなく、その以前の漫画が存在していた。手塚治虫には酒井七馬という師匠がいて、最初の頃はその師匠について漫画を描いていた。当時の漫画界は徒弟制度のようなものがあり、手塚治虫はそれを嫌って「アシスタント」という言葉を生み出した(師匠に手を加えられたのが相当気に入らなかったらしい)。手塚治虫以前に歴史があったし、手塚治虫もその歴史の中にいた。

 その戦前以前の漫画の歴史がなかなか語られることがないし、「手塚以後」の時代に隠れてほとんど見えなくなってしまった。手塚治虫以前にも漫画の歴史はあったし、手塚治虫で突然漫画が始まったわけではない。それを知るための一冊として、かなり意義の高い本だった。
 今回ブログは本書の紹介が長かったが、それでもダイジェストだ。もっと詳細に、具体的にどんな作家がいてどんな作品が描かれたのか。それを知りたいという人は、この本をオススメである。図版がかなり多くて、参考になる一冊だ。

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