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映画感想 天気の子

 今回視聴映画は、ついにNetflix配信! 新海誠監督『天気の子』。
 『天気の子』は2019年公開映画で、興行収入141.9億円。邦画歴代興行収入ランキング12位にランクインし、2作連続で100億円超え達成は日本の映画監督では宮崎駿に次いで2人目。この作品で名実ともに「国民的作家」としての地位を確立したといえる。
 アワードは第43回日本アカデミー賞最優秀アニメーション作品賞をはじめとして、第23回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門受賞、ゴールデンクロス日本映画部門最優秀賞受賞、第13回アジア太平洋映画賞最優秀アニメーション映画賞受賞……とアワードの数もとんでもなく多い。
 世界140カ国で公開され、いずれの国でも大ヒット。国民的作家からもはや「日本を代表する映像作家」になった……といってもなにひとつ過言はない。
 そして今、劇場公開されているのが『すずめの戸締まり』。本稿執筆時ではまだ公開から数日……という段階だがすでに記録的な興行記録を打ち出している。興行収入100億円超えは確定だろう。新海誠の勢いはまだまだ止まる気配がまったくない。
 『君の名は。』『天気の子』『すずめの戸締まり』の3作で「災害3部作」という定義づけられたが、その間の作品である『天気の子』はどんな作品だったのか。それを見ていこう。

Aパート 金のない人間を人間扱いしない東京

 では前半のストーリーを見ていこう。


 プロローグは病室の天野陽菜から始まる。天野陽菜の前には、間もなく息を引き取ろうとしている母がいる。陽菜がその手を握っていると、雨模様の景色にふっと光が差し込んでいることに気付く。不思議な予感に突き動かされた陽菜は、病院を出て、その光が落ちている場所へと向かう。
 そこは朽ちかけた廃ビルだった。その屋上に、ひっそりとしたお社が築かれている。陽菜がその小さな鳥居をくぐると――。
 そこは空だった。

 東京行きのフェリーに、森嶋帆高が乗っていた。身の回りのものだけを鞄に詰めての家出だった。
 しかし16歳の自分がいきなり東京へ出てきて、暮らしていけるだろうか……。泊まれるところ、働けるところはあるだろうか。
 そんなふうに考えていると、放送スピーカーからこんなアナウンスが。「間もなく非常に激しい雨が予想されます……」
 帆高がフェリーの甲板にやって来ると、アナウンス通り突然の大雨が降り注いだ。それだけではない。ハッと顔を上げると「水の塊」というしかないものが空中を漂っていた。
 それがザッとフェリーに落ちてくる。フェリーが大きく揺れて、帆高は投げ出されそうになる。
 そこを、1人の男が帆高を掴んだ。
 男は須賀圭介。須賀は「命を救った恩人だ」と厚かましく帆高に食事をたかると、東京に到着した後も「困ったらいつでも連絡してよ」と名刺を渡して去って行くのだった。

 やっと東京の街へとやってくる帆高。しかし16歳の少年を引き受けてくれるところなんてどこにもない。しかも東京はずーっと雨だった。
 雨を避けてホテル街の入り口でうずくまっていると、いかにもチンピラという男に蹴り倒されてしまう。帆高はゴミ箱と一緒に雨の中に放り出される。帆高が道路に散らばったゴミを集めているとその中に変なゴミが混じっているのに気付く。なんとなく好奇心に駆られてそのゴミをひろい、中をあけてみると、それは拳銃だった。

 結局帆高を受け入れてくれるところなんてどこにもなく、あのフェリーで会った胡散臭い男・須賀圭介に連絡を取り、しばらく面倒を見てもらうことに。須賀は月刊ムーのライターをやっていて、帆高はその手伝いをすることになった。
 須賀がいま追っているのは都市伝説「100%晴れ女」。その女が祈ると、その瞬間空は晴れるのだという。しかしそんな人、見つかるはずもなく……。
 帆高はあの時のホテル街を再び訪れ、そこで出会った子猫に、食べ物を分け与える。すると、あの時帆高を蹴り倒した男とすれ違った。男は女の子を連れていて、なんとなくただ事ではない雰囲気……。
 帆高は衝動的に女の子の手を握り、駆け出すのだった。しかし男達にすぐに追いつかれ、押し倒されてしまう。そこで帆高がとっさに取り出したのは、あの時拾った拳銃だった。


 ここまでで25分。たぶん帆高と陽菜が廃ビルの屋上へ行くシーンまでがAパートでしょう。
 それでは細かいところまで見ていきましょう。

 まずプロローグの意味。
 天野陽菜ちゃんが母親の死を看取る場面が描かれている。
 母親の手首に、アクセサリが着けられているが、これは間もなく陽菜ちゃんがチョーカーとして常に身につけるものになる。これが母親の力が陽菜ちゃんに受け継がれた……というシンボル的なアイテムになる。もちろん、晴れ女の“能力”は宝石に込められているのではなく、その本人が持っていたものだから、宝石はあくまでも“象徴的アイテム”として視覚的にわかりやすくしたもの。映画の最後でこのチョーカーが千切れてしまうが、これが陽菜ちゃんが能力を喪った……ということの暗示となっている。これが映像でわかりやすくなっているのは、象徴的なアイテムがあるから。
 母親が間もなく死ぬ……というときになって病室の外を見ると、なんとなく不思議な光がスッと差し込んでいる。これが天野家に伝わる継承のようなもので、陽菜ちゃんはそういう知識なく、儀式を通して能力を継承する。もしかしたらお母さんも似たような体験をその母が亡くなるときにやっていたのかも知れない。ただし、陽菜ちゃんの母親は能力を継承したがその力を発動することなく、もしかしたら能力を有していたことを知らないままこの世を去っていく(もしかしたら天野家はこの能力ゆえの短命という設定とかがあるかも知れない。常に神様と干渉し合っているわけだから)。
 陽菜は不思議な予感に突き動かされて、光が差し込んでいる廃ビル代々木会館へと向かう。ビルの屋上にあるお社というのは、もともとその土地に神を祀る神社があったのだけど、「ビルを建てたい」という都合でその屋上に移した……というものだ。実はその場所は「聖所」だったのだけど、近代化の影響で都市の片隅に追いやられてしまった。
 これがこの物語における神秘や精霊の在り方がどうなっているかが示されている。要するに資本主義の都合でそこに祀るべき神が追いやられ、存在が矮小化されてしまっている姿が描かれている。
 そのビルに登る場面、陽菜はわざわざ外階段を登っている。これは画面を縦方向に動かす、という意図もあって、クライマックスでもダイナミックに縦方向に画面を動かしている。なんで縦方向に画面を動かしているのか、というとこれから聖所を通って神の御座す場所へ行くわけだから、外階段を登っていくという画面の動きは神への祭壇へ登っていく……というイメージがそこに当てはめられている。
 東京といえばありとあらゆるものが人工物で埋め尽くされた土地であるが、実はその片隅に自然と神の領分になっている場所もある。それが廃ビルの屋上という、もはや誰も気にしないような片隅に追いやられて、忘れ去られようとしている。これがこの作品におけるある意味の裏テーマとなっている。この辺りは後述しよう。

 続いて森崎帆高君がフェリーに乗っている場面。穂高君は顔に絆創膏を一杯貼っているが、何があったかというと、父親に殴られてああなった。結構な量で絆創膏を貼っているので、相当ボコスカやられたようだ。
 父親との諍い、さらに地元の人たちや風土との対立があって、それで帆高は居場所を喪って島を出てきた……というのが公式設定だが、本編中ではこれが一切語られていない。ただ顔に貼られた絆創膏がちょっとした違和感として引っ掛かるように作られている。
 この時点でわかることだけど、『天気の子』にはサイドストーリーがめちゃくちゃに多い。たくさんのサイドストーリーがあって、その一部が『天気の子』という映画の中で描かれている……という構造になっている。本編中に語られていない要素があまりにも多く、それがかえって映画の見通しを悪くしてしまっている……というところがある。
 新海誠作品にはサイドストーリーが多い……というのは今までもあった。それは主人公が関わっている仕事とか、趣味とか、部活などで背景が語られ、その厚みが作品にリアリティを与えていたのだけど、『天気の子』は新海誠作品の中で突き抜けてサイドストーリーが多い。しかもそのサイドストーリーを本編中ではあえてバッサリ切り捨てられて、少年少女の心理・情緒にだけ光が与えられている。それはエンタメ映画として潔いとは言えるけれども、気にする人にとっては「どういうこと?」となってしまう。
 帆高君についてのもう一つのポイントはサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』。冒頭フェリーのシーンでも鞄の上に『ライ麦畑でつかまえて』が開いた状態で置かれている。その後のシーンでも何度も『ライ麦畑でつかまえて』が登場してくる。
 これが帆高君の愛読書ということなのだけど、もう一つの意図としては帆高君の行動原理が『ライ麦畑でつかまえて』の主人公ホールデンになぞらえて描かれている、という意味がある。なぜ帆高君が東京にやってきたのか、それはホールデンと同じ心理だからだ……という説明として描写されているのだけど、一回見ただけじゃまずわかんないよね。

 このフェリーのシーンでは、須賀圭介という胡散臭い男と会うことになる。まずなぜ須賀がこのフェリーにいるのか?
 穂高君の回想シーンで、雲と雲の切れ間にできる光をずーっと追いかけていったら、谷に行き止まった……というシーンが描かれている。自分の進みたい道が谷で途切れていた……といのは穂高君の深層心理を説明する象徴的なシーンでもあるのだが、このシーンをよーく見ると、足元の水滴が重力と逆方向へ動いている。つまり“晴れ女”の能力を持った誰かがその島を訪れていて、力を使ったから……ということ。それで須賀圭介が取材にやってきた……という流れになっている。
 私もこの辺は2回目の視聴でやっと気付いたよ。だからサイドストーリーがやたら多い作品なんだ。ということは帆高君は晴れ女の力に導かれて東京にやって来た……ということにもなる。

 ではこの須賀圭介という人物は、制作者的な視点としてどんな意図があるのか?
 ある場面で「須賀圭介と帆高は似ている」と指摘される場面がある。須賀圭介は10代の頃に親と大喧嘩をして家出して東京にやってきて、そこである女の人と大恋愛のすえ結婚。しかしその女は早くに死んでしまい……。
 10代の頃に親と大喧嘩して家出……という経緯は森嶋帆高とまったく一緒。そこで出会った女の子と大恋愛をした、というエピソードも一緒。違うポイントは、須賀圭介は“何かを選択しなかった”ために、愛した女を喪ってしまった。そこで運命が別れてしまった。それだけなく、須賀圭介は娘までも喪おうとしている。
 須賀圭介は何を選択してしまったのかというと、穂高君が警察に追われている……とわかったとき「大人になれよ」といって追い出している。ということは、須賀はそういう時に「社会的に常識的な行動」を取ったために、社会に引き受けられたけれども、一番大切なものを喪った。
 これはこれからやってくる未来、穂高君が選択するものによっては、須賀圭介のように後悔してばかりのパッとしないおじさんになるよ……という暗示でもある。

 さて、やっと東京へやってくるが、ここからのカメラがやたらと視野が狭い。画面の前面に壁のようにビルが立ち塞がるような構図ばかりが選ばれている。とにかくゴチャゴチャして見通しが悪い、どこか息苦しい……そういう主人公の気持ちが絵として表現されている。こういった構図の作りのうまさは、相変わらず凄い。
 東京という場所はやたらと人が一杯いるのだけど、すべてが「他人」という世界。隣近所でも誰なのかわからない。目に映る全員が他人、邪魔なオブジェクトという認識。街の構造として極めて歪な場所でもある。
 そんな場所に16歳の少年が迷い込んでいくのだけど、居場所なんてどこにもない。どうして居場所がないのか、というと16歳という年齢は経済活動に参加できないから。東京という都市は経済活動に参加できる人間しかいてはならない……という決まり事がある。お金を稼ぎ、消費できる人間だけにあつらえられた場所。そこから外れる人間には居場所がない。そういう意味で「ただの街」ではなく「人工都市」なのだ。16歳で経済活動に参加できないよそ者は、東京という場所で人間扱いすらされないのだ。
 これは社会のセーフティから一歩外されたら誰も助けてくれる人がいない、という東京の冷徹さ、さらにそういう人がいても救おうともせず、むしろ「溺れかけた犬は全員で叩いて落とせ」という現代人の心象を反映している。
 そういうわけで、東京にやって来た帆高君の扱いがみんな冷酷。漫画喫茶でもお客様扱いもされない。他人……というかこの時点の帆高君はただのオブジェクトという認識なので、人情を向ける対象にすらなってない。
 そんな街の中で、天野陽菜ちゃんが唯一、帆高君の存在に気付き、同情してハンバーガーを差し出す……ということをやっている。これは主人公とヒロインという立場的なご都合主義ではなく、陽菜ちゃんがどちらかといえば帆高と同じ側にいる人間だからだ。同類だからその存在に気付いて、人間扱いした……という場面。

 帆高君は東京の街をフラフラしているうちに、ホテル街に迷い込んでいく。場所でふわっと性的なニュアンスを漂わせている。つまり帆高君もそういう性に関心を持った年代なんだ……ということがうっすらとほのめかされている。
 ここで帆高君は拳銃を拾っている。
 なぜ拳銃? これも本編で語られていないサイドストーリーで、お話しの背景に拳銃がらみの大きな事件が起きていた。お話の途中から安井刑事と高井刑事の2人が出てくるが、この2人が追っているのがこの拳銃事件(この2人の刑事は、別に家出少年の補導とかやっているわけではない)。「シバタ」という何者かがいるのだけど、このシバタがあちこちに拳銃をばらまいた……という、ちょっと『リコリス・リコイル』みたいな話が背景に描かれている。ニュース画面でちらっと描かれているし、花火大会のシーンでは警察車両に「テロ警戒中」という文字が表示されていたり、それを示す描写は注意深く見るとあちこちにある。  ただこのサイドストーリーがあまりにも本編中に描かれないから、気にする人が見ると「なんで拳銃? ご都合主義じゃない?」という感じになってしまう。ヒントは出ているのだけど、それが実はサイドストーリーだ……ということに気付きにくい。
 陽菜ちゃんをホテルに連れ込もうとしたチンピラ・木村を追い払うために拳銃が使用されたのだけど、その後、代々木ビルを訪れたシーンで陽菜ちゃんから非難されて、逆上して拳銃を投げ捨てる。
 この拳銃を投げ捨てた“場所”がポイント。後半シーンの伏線になっている。ただこれが忘れられやすいポイントで、私も初見時「あれ? なんであんなところに拳銃が落ちていたんだ」と思ってしまった。後で見返すと、ちゃんと帆高君が投げ捨てたその場所に拳銃が転がっている。
 それでなんで拳銃が出てくるのか、というと思春期の危うさを描くため。『天気の子』は思春期の少年のお話。子供だけど、内面に凶暴な暴力性を秘めている……それを暗示するためのスペシャルアイテムとして登場してくる。帆高君は一歩間違えれば、拳銃を使ってそれこそどうにもならない坩堝に堕ちる可能性もあった。だがあと一歩というところでそれは回避される。そういう危うい立場……を表現するためのスペシャルアイテムが拳銃だった。

 いよいよ行くところがない……となって帆高君は須賀圭介を頼ろうとするのだが、その途上のバスであからさまな二股をかけている小学生に遭遇する。
 その小学生が佐倉綾音と花澤香菜なのだけど……後の児童相談所のシーンで「花澤綾音」と書くシーンがあるのだけど、これは身元をごまかすために名字と名前を交換しただけで、本当は役名もそのまんま佐倉綾音と花澤香菜だったそう(佐倉綾音と花澤香菜が結婚したわけではない)。
 でこの二股少年が陽菜ちゃんの弟・凪君。いや、凪先輩。
 恋愛という遊びは、本来ものすごいお金がかかる。身なりを整えるのにお金がかかるし、女の子の気を引き続けるために様々な消費文化にお金を投資しなければならない。「恋愛市場経済」というものがあるのだけど、恋愛をやろうとするとそこにじゃんじゃんお金を投資して恋愛ゲームのレールに乗らなければならない。お金が途中で尽きちゃったらゲームオーバー、女の子は他の男の子に行っちゃう……というのが現代恋愛の基本ルール(クソだよね)。
 ただ、一つ例外がある。その本人がイケメンであった場合、恋愛は極めて安くお手軽に体験できる遊びになる。なぜなら本人さえいれば、女の子は満たされるから。ムカつくよねー。
 で、凪君、いや凪先輩は家庭の事情で貧困状態にある。部屋の様子を見ても漫画もなければゲーム機もない。自分がイケメンだから、という立場を利用して、お手軽にできる遊びとして恋愛を選択している。貧乏だから仕方なく、選べる遊びが恋愛しかなかった……というわけだけど……ムカつくよねー。
 そこを除けば凪先輩はいい子なんよ。

 やっとやってきた有限会社K&A。社名は「圭介」と死んだ妻「明日香」から取ったのかな?
 須賀圭介は月刊ムーに寄稿するライターなのだけど、その月刊ムーをペラペラとめくると、「隔号連載 彗星が落ちた日」というページが出てくる。『君の名は。』での事件がこちらでも同じように起きていた……ということが示される。後のシーンで瀧君と三葉ちゃんも登場してくるので、同じ世界観ということになっている。
 ここから都市伝説“100%晴れ女”の取材が始まるのだけど、話している内容は実はずーっと一貫している。自然をコントロールする力は「代償が伴う」という話が語られている。
 こういうところも現代という時代の表現。古くからある伝承や、信仰といったものが、「ただのファンタジー」の扱いになり、希釈され、せいぜいライトノベルの設定程度のもの……にしか感じられなくなってしまっている。つまり、「エンタメのネタ」扱いになっている。神秘の力がエンタメの道具扱いになっている……というのは後のBパートでがっつり出てくる場面で、さらにいうとこの『天気の子』という作品構造そのものも語っている。現代人はその程度にしか現実に対してリアリティを感じてないのだ。現実の位相が経済活動という原理のみに傾いちゃっていて、それ以外はみんな虚構という扱いにされてしまっている。

 この後、晴れ女の噂を追っていくうちに陽菜ちゃんと出会い、その力を間近に見て衝撃を受ける……というところでAパートが終わる。

Bパート 晴れ女の力をエンタメとして利用してしまう

 続くストーリーを見ていこう。


 あの事件以来、陽菜ちゃんと仲良くなった帆高は、彼女のアパートに招待される。そこで一緒に食事をしながら、「晴れ女サービス」をやろうと提案する。100%晴れ女の力は、雨続きの今の東京では需要があるのではないか……ということだったが、本当に依頼なんてくるのだろうか。  ネット上にお店を開設すると、すぐに依頼がやってきた。明日のフリーマーケットを晴れにして欲しい――という依頼だった。
 翌日、緊張しながらその現場へ行き、空に向かって祈ると、雨雲が晴れてほんの一時の晴れが訪れる。
 その成功以来、帆高と陽菜は「晴れ女サービス」にのめり込んでいく。東京中を巡り歩き、人々に一時の晴れ間を提供していく。
 そんな数日が過ぎたある日、神宮外苑花火大会に招かれて、ビルの屋上で晴れを提供する仕事をする。依頼されたとおり晴れを提供することはできたが、その場面をテレビ中継されて、陽菜の存在は人々に知られることになる。
 それを切っ掛けに、これまで以上に晴れ女サービスに依頼が殺到するようになり、さばききれなくなって廃業することに。それで残った依頼のいくつかだけをこなすことに。
 そのうちの一つ、立花家の初盆に晴れをもたらしに行く。そこで陽菜の母親がまもなく一周忌であること、それと同じくしてもうすぐ陽菜の18歳の誕生日であることに気付かされる。
 続いて最後の依頼……と思って行ってみると、待ち受けていたのは須賀圭介だった。須賀が娘と会うために、晴れを提供して欲しい……とのことだった。
 そこで陽菜は、晴れ女の巫女の運命が「人柱」だということを知らされる。


 ここまでで55分。たぶんこの辺りまでがBパート。
 こうやって俯瞰して見るだけでもわかるけど、密度が異様に濃い。エピソードが何本も詰め込まれて、まとめるのも大変。

 Bパートは各キャラクターたちの「掘り下げ」のフェーズに入っていく。
 まず夏美の就活。K&Aプロダクションはあくまでお手伝いで、夏美は一般社会への参加を望んでいた。リクルートスーツを着て、企業を回って「御社が第一志望ですぅー」というありきたりなアピールをしに行く。
 私は常々思っているけれど、これ「就活ごっこ」だよね。この就活ごっこをうまく演じられる人だけがその仕事を得られる……というゲーム。「恋愛ゲーム」と一緒で、そのレールに乗らなければならない……というルールで全員が動いて、どんぐりの背比べをしている。
 なんだかバカみたいだよね。
 でもそういうゲームに参加して勝ち抜かないと、ごく普通の「社会人」にすらなれない、社会人にならないと経済活動に参加できない……というのが今の日本。夏美はそういうごく普通の社会からあぶれて、参加のチャンスすら得られないことに焦りを憶えている。
 東京という街は一つの地域の中に数千人がひしめいていて、あらゆる社会をその中に内包しているけれど、その社会から外れた他人に対しては異様に冷徹……という世界。要するに金のない奴は人間扱いされない。金を稼ぐことのできないやつはそもそも人間ではない。「溺れかけている犬がいたらみんなで袋叩きにせよ」というのが基本ルールだ。
(例えば「生活保護」とか受けたらみんな「自分で働け」「俺たちの税金をそんなものに使うな」「自己責任だ」って叩くでしょ。そういう声があまりにも強いから社会的セーフティを受けづらい風潮を作っちゃってる。「俺たちはこんなに苦労しているのに、あいつらは仕事せず金をもらって楽している」……そういう思考回路の人があまりにも多い)
 どうしてそういうルールが共有されているのかっていうと、みんな不安だから。自分がいつでも「溺れかけた犬」になるかもしれないから。だから誰かに隙を見せたくない。俺はお前らより強い……ということをアピールしたい。溺れかけている人がいると、全員で叩く……それは「自分がその立場ではない」と安心できるから。そういう状況に、ほとんどの人が本能的に動いてしまっている。ネットで繋がる世界になって、むしろ近代人はどんどん動物的に考えたり行動するようになっていっている。不安をコントロールできなくなっている。
 夏美はギリ「溺れかけている犬」になっていないけど、いつそうなるかわからない不安を抱えている。もっと安定して経済活動に参加できる人間になりたい。でもそれはうまくいっていない。

 須賀圭介は何をしているのかというと、妻の母に会いにいっている。娘に会いたい……しかし祖母からは信頼がなく、「あの子は喘息だから」と遠ざけられている。
 須賀圭介もごく普通の社会からあぶれてしまった男性。真っ当な仕事にもつけてないし、金もないし、妻にも先立たれて、子供にも会えない。大人として常識的に振る舞ったはずなのに、むしろ何もかもを喪ってしまった。そういう理不尽に耐えながら、「なんでもねぇよ」ってフリをして過ごしている。「大人になれよ」……これは自分に対して向けている言葉でもあった。

 帆高君と陽菜ちゃんも底辺にいながら、どうにか東京という街で社会参加しようとその道を模索していた。
 ……とその前に、陽菜ちゃん家に行くまでの風景を見てみよう。
 田端駅を出てそこからしばらく坂道を登っていく。坂道を登っていくのは、陽菜ちゃんの存在が少し上の階層にいるから。一般人と巫女ということで立場の差異を示している。この坂道を帆高君と陽菜ちゃんが歩く場面が何度かあるのだけど、一度として横並びにならない。いつも陽菜ちゃんの方が一歩上のほうに立っている。帆高君と陽菜ちゃんが接近する場面はラストシーンだけ。この距離感が2人の立場の差異を示している。一緒のようで違うところに立っている。
 坂道を登り切った後は、迷路のような路地に入っていく。少し迷わなければ辿り着くことができない……というところも陽菜ちゃん家がやや異界側であることが示唆されている。
 やっと陽菜ちゃんの家に辿り着くのだけど、一見してリアルな風景に見えるけど、絶壁ギリギリに建てられたボロアパートの外壁にツタが絡んでいるし、窓のところが円に区切られて、リアルのように見えてふわっと異空間として描かれている。こういうところの画作りはやはり上手い。

 陽菜ちゃん家にやってきた帆高君は、「晴れ女サービス」を提案する。これが帆高君と陽菜ちゃんが東京という社会に参加するためにやっと思いついたこと。東京にやってきた最初のシーンを思い出して欲しいのだけど、東京という街は経済活動に参加できない人間に対してはとことん冷徹。言い換えると、金のないやつに厳しい。金を稼げて金を出せる……つまりサービスを提供し、サービスを受けられる状態にならねば、その社会に参加できない……というのが東京のルール。
 しかし帆高君と陽菜ちゃんのような子供が東京の経済活動に参加する手段はほとんどない。陽菜ちゃんだったら性産業(つまり売春)への参加がギリギリ可能性があるかも……といったところ。年齢的にアウトだけどさ。
(陽菜ちゃんは一度は思い切って売春を選択しようとしたけれど、帆高君のおかげで踏みとどまった、という経緯がある)
 で、この晴れ女サービスが非常にうまくいって、帆高君と陽菜ちゃんは初めて東京という巨大なコミュニティに迎えられ、その一員としての充足感を得ることができる。

 しかし、これが大きな過ちだった。
 そもそも陽菜ちゃんの巫女としての能力は、「サービス」として軽々に披露して良いようなものではない。晴れ女の力は自然と人間社会のバランスを保つための「儀式」、あるいは東京という街の治水として必要だったもの。それを少々の金を受け取って、ほんの一時の晴れを提供する……という「エンタメ」として提供してしまった。
 これがどうにもならない愚かな過ち。陽菜ちゃんの寿命を一気に縮める結果になるし、それに中途半端なお祓いをしたせいで、むしろその反動として東京は大災害に見舞われることになる。
 だが帆高君と陽菜ちゃんはこの力がそういうものだとは全く知らなかった。それに東京は経済都市だからサービスを提供しサービスを受ける立場にならないと人間扱いされない。実際、晴れ女サービスを始めてから帆高君と陽菜ちゃんはやっと人間扱いされるようになっていく。この街のルールに参加するために、仕方なくやっていた……という側面があった。

 この部分だけど、これが新海誠による現代社会に対する風刺、あるいは文明批判になっている。本来、もっと丁重に扱うべき神秘の能力を「エンタメ」として提供し、消費してしまう現代日本人の感性。ライトノベルファンタジーなんて神話や民話を寄せ集めてエンタメとして消費しているだけ。そういう提供し消費する関係だけで作り上げられた東京という都市。そういう都市の愚かさを描き出している。
 私はこの辺りの展開を見て、「ああ、新海誠は宮崎駿を継ぐ人だな……」と感じた。なぜなら二重構造になっているから。一般の観客の視点で見れば、ただ楽しい楽しいエンタメ娯楽映画、単純な少年少女の恋愛ファンタジー……として見られるように作ってある。それがこの映画のホイップクリームの部分。でも理解できる人が見ると、その背景に「文明批判」のメッセージが見えてくる。それもやや「怒り」がこもった怒声のような声が。
 表面的な甘さとその奥にある辛さが二重に作られている。それを極上のエンタメの中で描き出している。そういうところは本当に宮崎駿に似ている。いよいよ世代交代だなぁ……という感じだ。

 Bパート後半に入って、立花家を訪ねたところで『君の名は。』の主人公瀧君が登場する。その瀧君が「プレゼントを贈ったら」と提案し、それで帆高君がジュエリーショップへ行くのだが、その店員が三葉ちゃん。こちらの物語では瀧君と三葉ちゃんはまだ出会えていない……ということになっているが、それとなく繋がっているように描かれている。
 ただやはり難点なのはキャラクターデザインで、Netflixで字幕で見ているからジュエリーショップの店員が三葉ちゃんだと気付けたけれど、キャラクターだけをパッと見てもわからない(他にも『君の名は。』のキャラクターはぽつぽつ出ていたらしいが、わからん)。
 新海誠の弱点がどこかというとキャラクター。キャラクターが弱い。それぞれのキャラクターに固有の特徴がない。これは今回だけではなく、どの作品を見てもキャラクターが弱い。ストーリー・画作りは毎回100億点の見事な作りだけど、弱点はキャラクター。これは個性として残っていくでしょう。

 Bパートは晴れ女サービスを始めてから、構図の抜けがどんどん良くなってように描かれている。帆高君が東京にやってきた最初は、建物がわざと前面に立ち塞がってくるような構図が選ばれて、文字通りの「閉塞感」が描かれてきたが、取材の手伝いをするようになったところから少しずつ抜けのいい画面になっていき、Bパート晴れ女サービスを始めてからは空が見え始め、花火のシーンがクライマックスになっているのだが、そこで花火の中をカメラが駆け抜けていくような画が出てきて、そこで見ている人の気分が一気に解放されるような画作りになっている。画の流れだけでそういう気分になるように作られている。こういう画面構成はやはり突き抜けて上手い。キャラクターや台詞だけでなく、画作りだけでバッチリ映画が成立している。
 映画を観ていても「捨てカット」というものがなく、どの瞬間の絵も見事なアート。そんな絵がものすごい勢いで駆け抜けていくから、とんでもなく贅沢な映画だ。新海誠は映画的に映える画を作り出すのはめちゃくちゃに上手い(ただしキャラクターは弱いけど)。
 そんな絵の背景に帆高君のナレーションが流れていくわけだけど、このナレーションが飽くまでも帆高君の視点のみで描かれている。俯瞰した声……つまり「作者の声」になっていない。
 帆高君の目線では晴れ女サービスはうまくいっていて、やっと東京という経済の中に参加できた充足感だけが語られていく。帆高君の目線ではそうだったんだ……というのがナレーションでわかる。それが実は過ちだった……ということに気付いていない視点で語られている。

後半ネタバレ! 全員が制裁を受ける、諦めのエンド

 ここからは後半戦。ネタバレに入っていく。まだ本編を見ていないという人は読んじゃダメよ。

 陽菜ちゃんの身体が透けるようになっていき、帆高君のもとには警察がやってくる。東京は反動として災害に見舞われるようになり、水没していく。前半パートで肯定的に描かれてきたものが、後半パートに入って逆流していく。巫女の力をエンタメとして提供してしまった、その罰を東京にいる全員が受ける……という展開となる。

 須賀の事務所を追い出された帆高と陽菜ちゃん、それから凪先輩は、ホテルを巡り歩いて、やっとラブホテルに泊まれる場所を見付けて、一泊過ごすことになる。
 ……このシーンだけど……帆高君と陽菜ちゃん、セックスしたよね。この流れは、つまりそういうことだよね。ぼかして描かれているけど。
 新海誠作品を見ていると、時々、「いま男の子と女の子、セックスしたよね?」という描写がある。でもその場面そのものは絶対に描かない。
 映画はなんでも描写すればいいというものではない。あえて描かないことで表現できるものはある。作者があえてぼかしたところだから、わざわざ掘り返すのは野暮というものだ。描写しちゃったら、あっという間にレーティングが跳ね上がっちゃうし。
(そういうのは二次創作で楽しもうな? な? pixivで検索するといーっぱい出てくるから)

 一方、須賀“ヘタレ”圭介はどうしているかというと、またしても須賀は「選択」することができなかった。一般的な社会人として常識的な「大人」として振る舞って、自己嫌悪に陥っている。須賀は帆高君を追い出すわけだけど、本当は追い出すなんてしたくなかった。大人として、社会人として、当たり前の対応をして、自分の身に降りかかる危機を回避したはずなのに……。「どうしてこんなに引っ掛かるのだろう」と自問自答している。
 須賀はこう言う。「大人になると大事なもんの優先順位が変えられないんだよ」……と。優先順位では自分の生活が第一。社会での自分の立場が第一。警察に追われている帆高は危険だから切り捨て。それが理性的な選択。でもそれでいいのか……という葛藤。
 常識なんて振り捨てて、想いのままに行動したかった。でも自分が「溺れる負け犬」になるのが怖くて、安全な道を選んでしまった。
 須賀は「俺はこんなんでいいのか」……と自問自答し続ける。もしかしたら妻の明日香が死んだときのことを思い出していたのかも知れない。

 ラブホテルのシーンを終えて、陽菜ちゃんが消滅する。人柱として捧げられたことによって災害は止まり、夏が戻ってくる。帆高君のもとに警察がやってきて、連れて行かれる……。
 ここからが引っ掛かるところで、帆高君はやすやすと警察署から脱走し、外に飛び出したところでなぜか夏美と遭遇してバイクで爆走。その最後に、以前自分が投げ捨てた拳銃をまたひろう……というご都合主義が連発する。
 このあたりはエンタメ作品だから……と割り切って作られたところだけど、あまりのご都合主義のバーゲンセールで「おい待て」となる。でも割り切って作られたところだから、展開がパッと進んで盛り上がるシーンになっている……ということも確か。『天気の子』はあくまでも大衆映画なので、引っ掛かるけれども良しとしましょう。

 帆高君は夏美のバイクから降りて、線路の上を走って行く。この走る帆高君がぜんぜんスピード感がない。あえて望遠レンズ風の距離感が圧縮されたような構図で、走る姿が描かれる。
 これは映画の世界では昔からある表現で、望遠レンズで距離が圧縮されている構図で、俳優の走りを真正面から捉える……すると俳優がずっとその場走りしているように見えて、一生懸命に“もがいている”“あがいている”ように見える。走りの移動感や爽快感をあえて殺して表現されるので、なかなかいい効果が出る。この場面では帆高君は東京という社会の通念に反抗し、自分の意思を貫こうとあがいている場面なので、テーマと描写が合致している。

 こんなふうに少年の情動に寄り添って描かれるのは、『天気の子』が思春期の物語だから。思春期の情動を肯定して描かれている。間違いも犯すけれども、それすら否定していない(巫女の能力をエンタメとして利用したことも否定していない)。少年が衝動的に東京へやってきたことや、女の子に対する性的な目線や、社会的な決まり事を無視して自分の情動に従って行動するところや……そういう「思春期の衝動」を肯定して描かれている。拳銃が出てくるのも、思春期の衝動のシンボルアイテムだから。
 この衝動があるから、帆高君はかつての須賀が選択できなかったことに向き合えるし、『ライ麦畑でつかまえて』のホールデンの挫折すら乗り越える力になる。社会的に正しいとか、そういうのはどうでも良いんだ。とにかく挫折や後悔を乗り越えたいんだー! というエネルギーそのものが作品に託されている。

 それで帆高は廃ビルへとやってくる。そこで待ち構えていたのは須賀圭介。はじめは、須賀は帆高君に警察のもとに戻るように説得するが……。しかし女の子のために必死になっている帆高君の姿を見て、須賀はハッとする。あれはかつての自分だ。あの時選択できなかった自分だ、と気付き、帆高君に協力する。
 帆高君は警察の追っ手を振り切って、廃ビルの外階段を登っていく。ここで画面が縦にすーっとPANして行く。画面が縦に登っていくのは、まずこの階段が天界への階段だから。天界へ登る過程だから、縦へPANする。
 もう一つは作劇作法初歩。縦へすーっと画面が移動していく動きは、それだけで見ている人の気持ちを高揚させる効果がある。
(例えばファミコン『ロックマン2』のオープニング。ただ画面が縦へPANするだけのシーンだけど、気分が高揚するでしょ)
 さらに帆高君が登ろうとすると、階段がバラバラと崩れていく。この演出がさらに気分を盛り上げてくれる。帆高君は立ち止まらず駆け上がり、鳥居をくぐり抜け……。

 そして人柱になっていた陽菜ちゃんを掴んで、「落ちて」いく。これは文字通りの「転落」。『天空の城ラピュタ』じゃなくて、本当に力を喪っていく過程が描かれている。
 こうして陽菜ちゃんは人柱の役目を降りてしまったので、東京は予定通りの災害に見舞われてしまう。

 東京は都市として崩壊してしまう。その後も首都としての機能を維持できたのかどうかすらわからない。
 帆高君は立花冨美のところを尋ねて「東京はもともと海だった」という話を聞く。
 これは事実で、東京、江戸、いや板東はもともとは広大な荒れた湿地帯だった。平安末期の頃、源頼朝がこの辺りを通り過ぎたが、とてもじゃないがここは拠点にできない……とそこから少し進んだ鎌倉に居を構えた……という話がある。
 そんな場所に徳川家康が拠点を置いたのが1590年。その当時の板東は本当にただの荒れ地で山賊もいるような場所で、家臣の中には「なんでこんなところを……」と思うような人もいたとか。荒れた土地を押しつけられただけ、これは左遷のようなもの……。
 家康はそんな荒れ地を気合いと根性で開拓していき、現在の皇居がある辺りから向こうはもともと海だったが、すべて埋め立てて、広大な平地を作り、その上にこの時代としては珍しい100万人都市を築き上げた。
 というわけで東京/江戸は世界的にも珍しい“人工都市”なのである。なにしろ人々が踏みしめている地面からして人工。人工の土地に人工の都市が乗っかっている。何もかもが人工という、奇怪な場所だった。
 そんな場所で搾取し搾取されるという小さな経済都市を築いて、その原理に全ての人が捕らわれている……それが我らが首都・東京の姿である。

 人工都市・東京というモチーフと対立的に描かれているのが自然、あるいは神との対比。
 物語の半ばから雲の中を這い回る雷が描かれるようになるのだが、その雷がやたらと生物っぽい動きをしている。もちろんあれは自然現象の描写として描かれているのではなく、神・竜として描かれている。
 地上の人工都市と、空に住まう自然・神との対立構図だ。
 人類の歴史の大半は、自然との闘いだった。自然という圧倒的に広大で、圧倒的に凶暴で、しかもとことん理不尽なものと向き合って、いかにして生き抜いていくのか……それが人類が普遍的に抱えていたテーマだった。
 自然が穏やかなときはいい。しかし一度暴れ出すと、数百人、数千人が一気に死ぬ。何十年もかけて築き上げた文明が一瞬にして崩壊する。地震、火山、台風、津波……。日本は自然の恵みが得られやすい風土である反面、自然の脅威が徹底的に厳しい土地柄でもあった。
 人類の側にとって自然がどんな原理で動いているのかまったくわからなかった。だから荒ぶる自然・神に対して人類ができることはただ一つだけ――祈ることだけだった。「神様、どうか鎮まりたまえ……」と。どうか地面を揺らさないでくれ、どうか山は爆発しないでくれ……。これが自然信仰の姿だった。
 おそらくは天野陽菜の一族は荒ぶる神と交流できる能力を持っていて、自分の命と引き換えに神を宥める役割を与えられていたのだろう。
 ところがいつの間にかその役目が忘れられていった。なぜなら人間の側が神に対して勝利したと思い込むようになったからだ。
 人類はいつしか自然を制し、それどころか自分たちが自然よりも上だと思うようになっていた。
 現代人の多くは、自然を「優しいもの」と思い込んでいる。「母なる自然」とか表現する。……いったい何を勘違いしているんだ。人類が神より上になった……ということはない。なぜなら未だに天気予報は外れるし、地震予測は外れるし、災害が起きれば数百人、数千人が死ぬ。人類は相変わらず自然という神に隷属し続けている。そのことを誰もが忘れてしまっている。
 それどころか、そういう神の力や伝承といったものはみんなまるごとエンタメのネタ扱いだ。都市伝説やライトノベルのネタくらいにしか扱われていない。それくらいの現代人は現実の中を生きていない。虚構の中にいる……ということだ。
 おそらくはこの世界観において、「東京の水没」はずっと以前から定められていた運命だったのだろう。しかし天野一族が人柱になって、その運命を先送りし続けていた……そういう話だったのだろう。
 天野陽菜の一族はそういう宿命を背負ってきたのだろう。ところが都市が発達し、人間が神に勝利したと思い込み、天野一族のような人柱も必要ない……と追い込まれ、次第に社会の中で地位も低くなっていき……。とうとう天野陽菜のように経済社会から排除される存在になっていく。
 須賀圭介は帆高君にこう言う。
「気にするなよ青年。世界なんてよ、どーせ狂ってたんだから」
 先送りしていた「東京の壊滅」がやっと来ただけ。経済都市という幻覚から醒めて、現実がやって来た。というか「現実を見ろ」というメッセージ。金も稼げない・使えない奴は人間じゃない……なんて都市のルールは始めから狂っている。現実を見て現実に戻れ……そう言いたかったのだろう。

まとめ

 最後のシーンはすでに巫女としての力を喪った陽菜ちゃんが、今でも自然との対話を試みようと祈っている。その背後では桜がひっそりと咲いている。空が晴れる……という奇跡はもう起きないわけだが、誰も気付いていないところでひっそりと奇跡は起きている。奇跡が起きていても誰も気付かない……そんな描かれ方で物語は終わる。

 現代風刺、文明批判。『君の名は。』のメガヒットで「知る人ぞ知る作家」から突然メジャー作家になり、表舞台に引っ張り出されてしまった作家が、むしろそこでやってきた観客を突き放すようなテーマで描いた作品だった。  しかし、『天気の子』には前面にエンタメがホイップクリームのように乗っていて、そこだけで楽しめるようになっていて、おそらくはたいていの観客は甘いホイップクリームだけをなめて「ああ面白かった」「泣けたわ」で帰っていくのだろう。実際、そのホイップクリーム部分が極上なので、そこだけで100億円稼げるくらいのものになっている。
 だがそこを剥ぎ取ってみると、出てくるのはドス黒い風刺。文明批判。表面的な美しさだけで終わっていない。奥深いテーマが描かれた作品だった。

 映画としての見所はやはり映像。どのカットも画として素晴らしい。新海誠はもともと「背景画1枚で人を泣かせられる」ほど画作りがうまい人なのだけど、その感性の強さがメジャー監督になってさらに強烈になっている。
 一見するとリアルな描写……に見えるけれども、あちこちで抽象化・象徴化が見られる。まず雨の描写。雨粒がやたらと大粒で、しかもグリーンやパープルが照り返しのカラーに使われている。この色使いが美しいし、水の動きが妙に生命感がある。ある場面でコンクリートの壁に当たった水が生物的に動き始めるところがあって、アニメというジャンルをうまく利用している。実写では表現できない。雷の表現もそうだ。実写だったらCGということになるのだけど、どうしても違和感が残る。違和感なく成立させられるのはアニメだから。
 特に圧巻だったのは、帆高君が拳銃を撃つ場面。顔に降り注ぐ雨粒が生命感を持って描かれている。雨粒が帆高君の心情を反映した描き方になっている。
 どんなシーンも「そこで何を表現したいか」、そのビジョンをきちんと持っている。ただ「小ぎれいな画」をポンポンと並べただけではない。すべて意思を持って表現されている。これだけのカット数、すべてコントロールして表現されているのは凄い。
 ただ、引っ掛かりどころはエンタメ映画として成立させるために“理屈”を捨てちゃったところ。なんで拳銃が出てきた? 後半、なんで帆高君は都合良く警察署から脱出できた? この辺りがそういう展開を作るための段取りっぽく見えてしまう。エンタメとして成立させるために、場面を盛り上げるために、いろんなものを投げ捨てちゃっている。ここが惜しいところだけど……でもだからこそ国民的作家になれたんだよな。
 作家性をむしろ引っ込めて、エンタメに徹したからこそ、国民的作家になれた新海誠。国民的作家になったおかげで肝心なところが妙にグズグズになっているのが惜しい。


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