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”縁”を待っていたら何も手に入れられない! 森鴎外「雁」が教えてくれるツラい現実|読書記録

縁という言葉で済まされる機会は何かと多い。人間関係においては頻繁に言われるし、就職や転居など人生の節目々々でも言われる。買い物のような日常的に行われる場面であってさえ、縁の一言で済まされる場面はまま見られる。しかしながら、そうした縁で済まされる多くの場面について、本当に縁として扱えるものはどれくらいあるのだろうか。森鴎外の作品「雁」を通じて抱いた想いは、そんな疑問だった。


森鴎外「雁」が教えてくれる”縁”の真実

上記リンクは広告である。これまで通り「雁」に関する考察も森鴎外に関する解説もするつもりはない。また、本noteは「雁」を読んでいる前提で感想めいたものを書く点に留意いただきたい。

本作は、主人公を通じて、友人となった岡田、岡田が出会ったお玉、お玉を妾にした末造とその女房お常、その他周辺の人々を巡る話が語られる作品である。岡田とお玉は互いを意識しており、お玉は岡田に対して接近する覚悟を決めるものの岡田は欧州へと旅だってしまう。

そう書くと悲恋の物語めいたニュアンスに捉えられるかもしれないが、悲恋物語という程に恋話が展開していない。事切れたように物語は幕切れとなってしまい、最後に種明かしのような趣で物語の背景が伝えられる。捉えようによっては、岡田とお玉の二人の関係など些事とさえ見える。

「縁がなかった」「また縁があれば……」それは本当に”縁”ですか?

冒頭の話に戻るが、世の中において縁で済ませられる話は多いが指すのは、「今回は縁がなかった」「また縁があれば……」といった言葉で済まされるケースである。大抵の場合、後者は何かをやんわりと断るために用いるお為ごかしのようなものだが、さりとて縁で済まそうとしているには違いない。

一方で前者は何かを諦めるときに用いられる。欲しい物の購入を諦めるときや素敵な異性と出会うも関係を深められなかったとき、希望した就職先に届かなかったときなど、自分を慰めるため、後悔を避けるため、失敗を認めないために用いるケースが多い。

よってそれらが本当に縁によるものなのか、真実縁がなかったかというと、極めて疑わしい。考えようによっては縁とはそういった扱われ方をするものだと言えるかもしれないが、仮にそうだとしても縁そのものに含有された意味が異なるのは明白である。

お玉と岡田が結ばれなかったのは”縁”によるものなのか

さて、ここで「雁」の物語に目を向ける。本作においてお玉と岡田との間には縁がなかったと見える。あるいは、すれ違う縁があったと見える。岡田が放った石で死した雁のように、お玉と岡田との関係は、決して結ばれない縁があった。そう見て間違いないように思われる。

しかしながら、縁というものの世の中的な扱われ方を踏まえつつ、お玉と岡田の言動について穿った見方をすれば、縁がなかったと言い切れるかは怪しく、まさしく我々が頻繁に使うような言い訳がましさが感じられる。

何故ならば、お玉にしても岡田にしても、互いに自分の中で意識している気持ちに素直に向き合い行動してさえいれば、結末はいくらでも変わった筈だからである。前提としてお玉は既婚者なのだから結ばれるのは不可能だろうといった意見もあろうが、お玉は末造の不貞を知っていたわけである。

加えてお玉は父親に末造の職業を伝え、父親の助力を乞いさえすれば、末造の手から逃れる選択はできたものと思われるし、そうした認識を持っていた風な様子も言動の端々から窺える。理解していながら敢えて行動しておらず、現状に甘んじる選択をしていたわけである。

岡田にしても、何もお玉が学校帰りに見かけるだけの存在であり続けたわけでない。またお玉の挙動から何らかの意を汲み取っていたのは、言動からうかがい知ることができる。末造についての情報を持っていた可能性は高く、お玉を奪おうと思えば奪えた可能性は低くない。だがそうしなかった。

確かに意を決したお玉が行動を起こそうとしたタイミングで岡田は友人との時間を過ごすこととなり、またその翌日には旅立ってしまい二度と会えなくなるというのは、まさに縁がなかったと言えそうだが、それは事そこに至るまでに二人が何ら行動しなかったからこその結末に過ぎない。

”縁”を待つ者は何も手に入れられない

我々は日常的とまでは言わないものの何か不都合な出来事が起こる都度、あるいは希望が叶わなかった都度、『縁がなかった』『また縁があれば……』などと口にするが、結局のところそれにしたところでお玉と岡田の二人と同じではなかろうか。

選択すべきときに選択せず、行動すべきときに行動せず、その帰結として機会を逃し続けているのではなかろうか。たとえば街角でとびきり魅力的な異性を見かけたとき、何もしなければ(余程の運がない限り)その異性と関係を深められる機会を得られない。

就職も同様である。深く心惹かれる企業を見つけたとき、『こんな会社で働けたら良いのに』『この会社で働いている人々が羨ましい』などと思うばかりで、企業と繋がるための行動を取らなければ、その企業で働く機会を得られる可能性は限りなくゼロである。

これら機会を得られない事象は、果たして縁によるものだろうか? そんなわけはない。至るべくして至っている当然の帰結である。買わない宝クジで大金を得る可能性がゼロであるように、行動しないから機会を逃す。ただそれだけの話でしかない。

いつまでも結婚できない婚活中の人々に対して、『希望が高すぎる』『会う努力をしなければ相手を見つけられるはずがない』『必要な努力ができていない』などと説教が飛び交う場面が多いが、やはりここまでの話同様に、それらは正論なのである。

確かに縁と呼ばれる運、あるいは巡り合わせのようなものは存在する。だが、我々の手から日々こぼれ落ちている機会のほとんどは、我々の意思や選択、行動によってこぼれ落ちているに過ぎない。機会はやって来るものではなく、掴み取るものである。

『雁』で描かれているのは、縁によって結ばれないお玉と岡田の悲しい運命ではなく、行動を起こさない人間は何も得られないという極々ありふれた現実ではなかろうか。


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