【書評】『アナキズムとキリスト教』ジャック・エリュール[2021]

エリュール,ジャック[2021]『アナキズムとキリスト教』新教出版社編集部訳,新教出版社.

評価:☆☆☆★★

 キリスト教的思惟の奥深さを思い知らされる一冊だ。あるいは、「根深さを」というべきだろうか。
 著者は、1930年代の「非順応主義」と呼ばれる運動を経て、プロテスタント神学の立場から「キリスト教アナキズム」というべき特異な思想を展開するに至ったフランスの知識人、ジャック・エリュールだ。
 ジャン=リュック・ゴダールの映画「さらば、愛の言葉よ」をご覧になった方なら、「今こそエリュールを読むべきだ。そこではすべてが予見されている」という趣旨のセリフがあったことを、ひょっとすると記憶しているかもしれない――が、このセリフを聞いて、「ああ、あの思想家のことね」とすぐにピンときた日本の観客は、極めて少ないだろう。1954年の主著「技術社会」で、極端にテクノフォビア的な技術決定論を展開した者として、エリュールの名は現代思想史にひっそりと記録されている。
 あるいはひょっとすると、アナキズムとテロリズムの歴史に関心のある方ならば、長期に渡ってアメリカ各地の大学などに爆弾を送り続けたテロリスト、ユナボマーがエリュールの思想から影響を受けていることを知っているかもしれない。
 ただし、エリュール自身の思想は、極めて非暴力的である。戦術的に、暴力より非暴力に訴えたほうが効果的であるという理由、そしてキリスト教では<暴力ではなく愛こそが道である>[p.40]という理由から、エリュールは暴力に断固反対する。
 とはいえ、興味深いのは、本書でエリュール自身、暴力が時にはとても魅力的な手段に思えることを、率直に認めていることだ。第1部の導入部分には、こんな記述がある。

 […]なるほど、攻撃や暴力に訴えなければならない状況は理解している。およそ二〇年前、パリの証券取引所を通りかかったとき、そのビルには爆弾が仕掛けられて然るべきなのではないかと自問したことが思い出される。その爆弾は資本主義を破壊はしないだろうが、一つの象徴であり、警告であるだろう、と。実際に爆弾を仕掛ける者はいなかったし、私はどのような行動も取らなかったが!

[pp.37-8]

 いきなり、サタンの誘惑である。このあと、エリュールは、暴力が有効な手段と認めうる理由を3つ挙げ、最初の2つに反論する。
 まず、継続的に権力者を殺すことで、権力の伴う仕事につくことを人々が恐れるようになり、国家は人材を失う、ということ。しかし、この考え方は、権力の反撃能力を過小評価している。
 次に、表現手段を持たない者が、抑圧に対する異議申し立てとして暴力を行使する、ということ。暴力は、絶望した者の最後の拠り所である。が、<それはまた、他に取るべき手段や希望を持てる拠り所がないという告白でもある。>[p.38]つまり……絶望に負けるな!
 そして、暴力が警告として有効だということ。つまり、プロパガンダとしての有効性。エリュールは、これには直接反論していない。
 「アナーキー」と「非暴力」、あるいは「アナキズム」と「キリスト教」とのかみ合わせの悪さ――そして、暴力という手段に力があることを理解しつつも、認めるわけにはいかない葛藤。乱暴に言ってしまえば、本書から読み取れるエリュールの「アナキズム」思想の根底にあるのは、そのような「ゆらぎ」である。第1部に先立ち、序章でエリュールは、自らがキリスト者として左派的な社会運動に関わってきた遍歴を書いているが、そこから率直に読み取れるのは、エリュールが無神論的な社会主義に抱いている葛藤、歯がゆさ、いや、劣等感と言ってしまって良い。
 アナキストやシチュアシオニストと連携する上で、自らがキリスト者であることは、常に<乗り越えられない一つの障壁>[p.17]としてエリュールにつきまとった。例えばエリュールは1964年、親しくしていたギー・ドゥボールを介してシチュアシオニスト・インターナショナルに加入できないか打診したが、キリスト者であることを理由に断られたという。そこであっさりと無神論者になれれば、どれほど話は簡単だっただろう。だが、エリュールはキリスト教を捨てられず、<自分が矛盾していないかを確かめるため>[p.18]に聖書を学び続け、聖書がアナキズムに親和的であるという確信を深めていく。本書の第2部は、そのことを実際の聖書の記述に沿って証明してみせる。
 しかし一方でエリュールは、本書がアナキストに改宗を促すものではないこと、そしてキリスト者にアナキストとなることを勧めるものでもないことを強調する。キリスト者でありながら改宗を勧めない、とはどういうことか? エリュールによれば、回心や信仰は、<一般に思われているのとは違って、救いにはさほど関係していない。それは責任の取り方の問題なのだ。>また、キリスト者には、<政治的選択肢のなかから、アナキズムを前もって排除すべきではない>[p.20]と言うにとどめている。エリュールの目的は、何が何でも両者を合併させることではなく、いわば、アナキズム思想を聖書の言葉で語り直すことである。
 しかし、部外者にとっては、ここはやはり分かりづらい点だろう。なぜ、それは「アナキズム」でなければならなかったのか? なぜ、そこで「キリスト教」にこだわらなければならないのか? 「アナキズム」にこだわるならばさっさと棄教すれば良いし、「キリスト教」にこだわるならば、そこにアナキズムという名をつける必要はないのではないか?
 エリュール自身は、なぜ無用な神を保持するのかという問いに対して、そ<うした言いようは、まさしく最悪の意味で、功利主義と近代主義に有利な証拠を与えることになる!>[p.74]と反論しているが、あまり歯切れの良くない答えである。
 こうした問いには、得てして、合理的な答えは返されないものだ。それはひょっとすると、どうしようもなく捨てられない信仰心のせいかもしれないし、もう少し合理的に言えば、アナキズムを広めるためには、素朴な信仰心の持ち主に通じやすい言葉で思想を語るほうが良いからかもしれない。社会主義的なヴィジョンが、いかにして伝統的共同体に「通じる」言葉へと翻訳されうるか、エリュールの仕事は、その回路を示唆してくれるだろう(その「翻訳」の内容の当否は別問題として)。それは例えば、革命派が「天皇」と言うことが<日本の底辺の民衆にどういう影響を与えるかということを一度でも考えたことがあるか>[三島&東大全共闘,1969:p.64]という、三島由紀夫が全共闘に突きつけた問いにも呼応するはずだ。
 これはいわば、アナキズムという「左」とキリスト教という「右」をめぐる問題の立て方だ。一方で、エリュールとシチュアシオニスト・インターナショナル(SI)の関係を踏まえて、「スペクタクル」と「反スペクタクル」という、別の基軸で問題を立てることもできる。
 エリュールによれば、

聖書の決定的な主張は常に、神を知ることはできない、神のイメージを作ることはできない、神が何であるかを分析することはできないというものである。否定神学と言われる神学を実践したものだけが、唯一真摯な神学者なのだ。これは、神が何であるかを知るのではなく、ただ神が何でないかを語る神学である。[…]おそらく神の死の神学の偉大な功績は、神を殺したことではなく、私たちが神について抱くイメージを破壊したことにある。ニーチェ同様、一九世紀の偉大なアナキストたちの攻撃は、紛れもなく当時の種々のイメージへと向けられたものだった。

[pp.72-3]

 神のイメージを攻撃するアナキズムも、神の有用性を否定する科学も、否定神学として、いわば「神学」の内部へと取り込まれる。そして、神学が「神のイメージ」を自ら解体していく果てに、キリスト者は、<神はいかなる外的な目的にも役立たないという、単純で本質的に聖書的な真理に戻>[p.74]るのだ。エリュールのこうした神学史観は、遍在するスペクタクル商品が自らを解体していく過程として現代を捉えたSIの思想に連関するものとも読める。
 では、「イメージ」または「スペクタクル」の解体の極致には、何があるだろう。最終的にエリュールとSI、またはアナキストとを分かつのは、この地点である。エリュールは、アナキズム的な「良い社会」が、この世に実現されうるとは考えていないのだ。
 端的に言えば、人間は貪欲さと権力欲を捨てられないから、というのがその理由である。なんとも、身も蓋もない言い方だ。
 もちろん、だからといってエリュールは、非暴力的なアナキストの活動を否定するわけではない。大規模な納税の拒否を長期的な目標としつつ、個人を基礎として、公教育とは別の学校などローカルな組織を運営し、あらゆる場面で国家権力に異議を申し立て、アナキズムの反権威的イデオロギーを拡散していくこと――要するに、グローバルに考え、ローカルに行動せよ、とエリュールは言う。ただし……未来に希望を持ちすぎるな!
 これは、SI的なユートピア主義とは相容れない姿勢だ。
 この姿勢が危険なのは、「どうせ人間は理想社会を築けないのだから」という諦めの態度に無防備なことだ。実際、エリュールは、オランダの薬物合法化が薬物対策としてうまくいかなかったことを、人間の渇望に際限がないことの例として挙げているが、これは目を疑う記述だ。これは、単体で読めば、「どうせろくな結果にならないのだから、権力の私的領域への介入に抵抗しても無意味だ」というメッセージ以上のものではないだろう。仮にもアナキストならば、政府によるドラッグの取り締まりを良しとするようなことは、(革命の利益になるのでない限り)口が裂けても言うべきではない。仮に、ドラッグを取り締まらないことが最悪の結果を引き起こすとしても、である(実際にはそのようなことはないのだが)。
 エリュールがこのようなことを書いてしまったのは、「暴力」や「ユートピア」など、既存の社会の「外部」を拒否し、「内部」へととどまることで課せられた制限のせいだったのだろうか。究極的な理想が実現しないことを受け入れつつ、少しずつ社会を良くしていく運動――要するにそれは、アナキズムとは名ばかりの、ただの社会改良主義である。だが、逆に、どれほど激しく「外部」を求める者であっても、現代の社会で、スペクタクルの「内部」で、「ただの社会改良主義」ではない立場に立つことは恐ろしく難しい。たとえ、ユートピアを志向して暴力という手段を選ぶとしても、それ自体が、エリュールの指摘する通り、<他に取るべき手段や希望を持てる拠り所がないという>シニシズム的な絶望の発露なのである。
 そして、「どうせ他のやり方でも社会は良くならないんだ」というシニシズムのもとに発露する暴力と、「どうせ理想社会は実現しないんだ」というキリスト教アナキズムのもとに発露する非暴力的な信仰は、ここで奇妙にも重なり合う。有効性がないとわかっているのに、なおも「外部」を志向し続けることは可能なのか――キリスト教の「根深さ」のもとにアナーキーを追い求めるエリュールが直面した困難は、「外部」を求めるあらゆる者に課せられた困難でもあるだろう。

参考文献

特記がない場合、文中のページ数はエリュール[2021]のもの。

 エリュール,ジャック[2021]『アナキズムとキリスト教』新教出版社編集部訳,新教出版社.
 三島由紀夫&東大全学共闘会議駒場共闘焚祭委員会(代表 木村修)[1969]『討論 三島由紀夫vs.東大全共闘――<美と共同体と東大闘争>』新潮社.

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