野原小麦
あぶくっこ の吐き出す あぶくだま
妖怪をテーマに詩を書きます。
世紀末、過ぎし日の妖怪日和。
思い出に生きる「思い出の民」、刹那刹那を生きる「せつなびと」。彼らは同じ世界に共存している。
私が見つけて、私が名づけた、私だけが知っている、私だけの勝手気儘なおばけたち。私が名前をつけたけど、すべてを好きなわけじゃない。
本気で拒絶したわけではない。 気にしないでほしい。 ひとこと謝っておくべきだろうか。 意を決して私が目を合わせると、橘が見つめ返してきた。 不敵な笑みを浮かべている。 前言を撤回すべきかもしれない。 橘に悪気はありそうだ。 警戒する私に向かって、意味ありげなトーンで橘はいった。 「つかぬことをお聞きしますが」 突然の前振りに身構えて、私は自覚を持って、思いきり眉根を寄せた。 そんな私の表情にはおかまいなしに橘は続ける。 「由里さんの部屋に金
頭を反らせて、橘の親指を振り払った。 「せっかくサクランボあげたのに」 不満そうに橘がいう。 ストローでレモンスカッシュをかき混ぜながら「サクランボ好きだったよね」と私の機嫌をうかがっている。 橘に悪気はない。 うまく噛み合わないだけ。 ティーソーダをおごってくれるうえに、サクランボで私を喜ばせようとしてくれているのだ。 それなのに、このサクランボはレモンスカッシュに手を突っ込んで取り出したのだろうか、なんてことを私は考えている。 私の対応は冷たす
ポチャン。 目の前にあるコップに赤い塊が飛び込んだ。 金魚だ。 すがすがしさが一瞬でかき消されてしまった。 赤色の気がかりが、体の中を再び支配しはじめる。 金魚。金魚。 赤い金魚。 金魚は、すり替えられている。 「そのサクランボ、あげるよ」 橘の声で我に返った。 飛び込んできた赤い塊。 これは金魚ではない。 赤いサクランボ。 橘が私のティーソーダに放り込んだのだ。 断りもなく勝手に入れないでほしい。 心のなかで非難する。 私は
小さな泡がのぼっていく様子は美しい。 泡と一緒に紅茶の香りも鼻の先まで立ちのぼってくる。 なんという茶葉の香りなのか私は知らない。 すがすがしく、すっきりとした香りだ。 この香りに諭されて、体に染みついていた心配事がだんだん小さくなっていく。 頭の中に溜まり続けた、ぐずぐずとした考えは、小さく小さく萎んでいって、ものすごく濃い、ぎゅうっと詰まった塊になる。もうこれ以上は無理というほどに小さくなると、その瞬間、いきなり、ぶわっと拡がって、細かい細かい霧に変わる。
喫茶店の一番奥、右側の席に橘は座っていた。 店の扉が開く音に顔を上げると、レンガの壁にすがったままの姿勢で、右手を軽く上げて合図してきた。 店内には私たちの他に客はいない。 「ティーソーダ?」 私は黙って頷いた。 私は人におごってもらうのが好きだ。 得した気分と食べたいものを食べられる喜びで気持ちがいっぱいになる。 飲みたいものを飲みたいときに飲ませてもらうのも好き。 橘が私にティーソーダを飲ませてくれている。 もちろん、ティーソーダを私の口元に
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昨日、私はゲームで橘を打ち負かした。 その報酬に、お茶をおごってもらうのだ。 じっとりとした暑さが、私の足を「おひるねガーガ」へ急がせる。 今日の気温はティーソーダにぴったりだろう。 少しだけ透明度の低い、青みがかった厚いガラスのコップ。 四角い氷が3つ。 そこに注がれる飴色の炭酸水。 コップの底の方からぷつぷつとのぼってくる小さな泡。 駅通りの地下にある喫茶店「おひるねガーガ」のティーソーダ。 私は、今、ひどく、ティーソーダを欲している。
ガラス扉の向こう側に階段をのぼっていく二人の姿が見えた。 彼らも由里さんの部屋に向かうのだろうか。 見たことのない二人だった。 由里さんの部屋には、どれだけの人間が出入りしているのだろう。 全員の顔と名前なんて私は把握していない。 私がいない時間帯のことは何も知らないのだ。 あの部屋に出入りする人間で私が知っているのは、橘、古泉、タケトの三人だけ。 その橘と、これから会う約束をしている。 (つづく) 次回予告「ティーソーダ 1」
左側の生垣。手前から4本目の金木犀だけが枯れて葉をすっかり落としている。 3本目と5本目の間。枯れた4本目の部分が窪みになっているのだ。 その窪みに私は正面から気をつけの姿勢で嵌まり込んだ。 路地に背を向けたまま、ボウルとお玉の二人組をやり過ごす。 じっと立ち尽くす私の背中を二人の気配が通り過ぎていく。 彼らの気配が建物の中に消えるまで、窪みの中で、じっと待つ。 エントランスドアが開閉する音を確認し、私は、そっと路地へ戻った。 (つづく)
建物を出て、右の路地へ折れた。 前方から台所用品を持った二人連れがやってくる。若い男女だ。 男の方は銀色のボウルを、女の方は取っ手の赤いお玉杓子を持っている。 お好み焼きでもするのだろうか。 路地の道幅は狭く、人が二人並んで歩くと、それでもういっぱいになってしまう。並列に歩く二人の男女と普通サイズの一人の大人がそのまま真っすぐ擦れ違うことはできない。 私の方が脇へよけて道を譲ることにした。 (つづく)
「なくなっているかもしれない何か」 これを探し出すのは、とても難しい。 そんなことは不可能なのだから。 心配に、キリはない。 そんな私が、なぜか由里さんの部屋を後にするときだけは、後ろ髪を引かれるおもいに襲われることがない。 なぜだろう。 また、この部屋に来る。 そう思えるからかもしれない。 また来られるし、来たときには、ちゃんと、そうあって欲しいと思う状態で迎えてくれる。 そんな部屋だから、不安を感じないのかもしれない。 (つづく)
小さな紙切れが落ちているのが目にとまると、それを手帳に挟んでおいた自分のメモ用紙に違いないと思い込み、駆け寄り拾って確かめる。 メモではない。ただの紙くずだと確認しても、そのままその場に落として行くこともできず、ごみ箱を探す羽目になる。 ごみ箱を見つけて紙切れを捨ててしまうと、今度は、さっき捨てた紙切れは本当に自分のメモ用紙ではなかっただろうかと疑いだす。 実際にメモをなくした覚えはない。 だけど、もしもということを考えてしまう。 考えだしたらもうだめで、どうやっ
金魚や花のことを考えながら階段をおりた。 由里さんの部屋から出て階段をおりるとき、いつも体温がすうっと下がっていくのを感じる。 他の場所では、こんな感覚は味わえない。 たとえば、大学の講義が終わって教室を後にするとき、忘れ物をしていないだろうかと私は必ず心配になる。 鉛筆、手帳、英語の辞書。 何かを忘れていないだろうか。 そんな不安でいっぱいになって、鞄の中にある物を思いつく端から順に取り出していく。 鞄をまさぐり確かめながら、その際にまた何か新しく落とし
私はゲームをするために由里さんの部屋を訪れている。 やりたいと思うゲームのソフトは、発売日に由里さんの部屋に行けば、ちゃんと用意されていた。そして当たり前のように新品のソフトを開封して遊ぶ。 友達が来れば一緒にゲームで対戦した。 だけど由里さんとゲームで遊んだことはない。それどころか、由里さんがゲームしているところを私はまだ見たことがない。 私がゲームしているとき、由里さんはベランダで花の世話をしている。 金魚の世話は大雑把だけれど、花の世話は本格的だ。
ところで、由里さんでも頭が上がらない相手なんて本当に存在するのだろうか。 「由里さんには頭が上がらない」と思っている人なら大勢いるはずだ。現に、由里さんの部屋を自由に出入りさせてもらっている私は、それだけでもう由里さんには頭が上がらない。 由里さんの部屋は特別だ。 まず、テレビが3台ある。録画再生機器は4台。パソコンは2台。ゲーム機は8種類あって、ゲームソフトは限りなくある。来訪者は、それらすべてを勝手に使ってよい。映画を観たり、ゲームをしたり。テレビ番組を録画するこ
そもそも、由里さんは、びくびくなんてしていないのだった。あの雑な金魚の扱い方。死んでしまえばそれまでだと腹をくくっているとしか思えない。はなから金魚なんてすぐに死んでしまうものだと割り切っているのかもしれない。そんなふうに考えているのならば、どんなに頭の上がらない相手からの預かりものであろうと関係ない。バレなければ問題ないのだ。金魚の健康状態なんて気にすることはない。死んでしまえば、また新しい金魚とすり替えればよいだけ。よく似た金魚の入手方法と誰にも気づかれずに金魚をすり替