精神病院物語第三十話イメージ

精神病院物語-ほしをみるひと 第三十話

 読書により幻聴と戦う日々が続いている。
 活字の力を借りて、幻聴とぶつかり合うのは決して平坦な道ではなかった。なんといっても激しく消耗した。他の患者とのコミュニケーションも少なくなり、ひたすら臨戦態勢に入っていた。
 外はまだまだ相当に寒いはずだが、ここは暖房が効き過ぎていて暑い。幻聴と戦っているせいか余計に体温が上がっている。僕はTシャツ一枚になっていた。
 そんなの効かねえんだよ。
 絶対に逃がさないよ?
 調子に乗ってんじゃねえぞ?
「くそっ。またか」
 僕は本を開いた。しかし頭が披露していて活字に集中できない。しかし幻聴が押し寄せてきている。
 とにかく集中するため本を開き続ける。やっと活字が頭に入ってきた。僕は目を見開いて文章を頭の中で物語に変換する。
 新キャラはなかなかキャラが濃い。楽しい……な。
 僕はバタンとベッドに倒れた。幻聴も、一旦消える。
 一日、また一日と幻聴を退けていく。幻聴にも波があるから、余裕ができる日もあった。
 なんとか幻聴が治まっていたある日、読書に疲れた僕は幻聴をやり過ごすためにホールまで足を運んでみた。知った顔では高見沢がコーヒーを飲んでいて、延岡や三浦が新聞と広告を分け合って読んでいて、あとは新しく入ってきた患者が多数を占めていた。テレビではドラマの再放送が流れている。
 今でも油断すれば、幻聴にやられて気が狂いそうな感覚がある。読書をしたり場所を移したりしてやり過ごすのは確かに効果があるが、明らかに僕は無理をしていた。
 できれば安心してゆっくり休めた方がいい。この戦いの先になにがあるかはわからないが、心の平和を取り戻した暁には分厚いステーキでも食べたいと思う。
「死にたくない……死にたくない……!」
 かすれるような嘆き声に振り向くと、しばらく見なかった太郎がまたも病室から出てきて命乞いをしていた。歩幅は僅かで、ここまで来るのも大変だったに違いない。
「死にたくない……俺は、このままでは死んでしまう……!」
 太郎は以前より相当に痩せていて、顔色も悪かった。どうしてこの病棟に居続けるのか不思議だった。
「死にたくない……誰か……助けてくれ!」
 どうしようもない気持ちにさせられる。あのお爺さんには、少なくとも現世においては先があまりない。そういう意味で僕が抱いている恐怖とは次元が違う。間近に迫った死は、本当に怖い物なのだろう。
「ったくこの老いぼれ爺が、仕方ねえなクソッ!」
 高見沢が立ち上がると、太郎の腕を掴んで乱暴に病室まで引っ張っていこうとする。
「ひいいいいいいい乱暴しないでくれえええっ!」
 太郎が恐怖で裏返った声で悲痛な叫びをあげた。何人かの患者が病室に戻っていく。
「ったくあんたはなんでこうなんだよ! てめえのせいでみんな迷惑してんだよ」
「誰かああ! 誰かあ!」
 病棟で問題が起こったときはとにかく看護師に任せるしかない。高見沢は看護師に諭されると怒鳴るのを止め、太郎は病室に連れ戻されていった。
「畜生! 畜生……!」
 高見沢はホールの隅でいつになく悔しがっていた。彼がああまで激しい感情を乱すのを見たことがなかった。なんだか今にも泣き出してしまいそうな勢いを感じられた。
 一方、僕自身はいくらか状況が好転しつつあった。翌日の昼、主治医がケースワーカーを連れて病棟にやってきたのだ。
「滝内さん。そろそろ退院への準備のために、デイケアという施設に通ってもらうことになります」
 主治医の提案に僕は「デイケア?」と聞いてしまったが、話の筋から大体どういうものかの想像はついていた。要は精神疾患患者のリハビリ所のことなのだろう。
「そうですね。病棟から、最初は半日。徐々に慣れてきたら一日プログラムに参加してみてください。順調にいけば退院後も継続して通うことになると思います」
 デイケアというリハビリ所がどういう場所かはわからないが、入院時に通えるのならば相当に慣れる時間がある。日中病棟にいても仕方ないので、とりあえず休まずに通った方がいいだろう。
 これは、もしかしたら救いの道かもしれない、と思った。僕は今まで退院したところで、なにもしないで家で過ごしていたらきっと前と同じように再入院してしまうと心配していたのだ。だけど、退院後も通う場所があるのならば話は別である。
 僕は今まで悩んでいたことが和らいでいくのを感じていた。
「滝内さんさえよければ、明日から体験利用ということになりますが」
 断る理由がなかった。病棟からの出入りには看護師がついていくらしく、もちろん逃げる必要もないのだけど、おかしなことにはなりようがなかった。
 僕は機嫌がよかった。今日は幻聴も小康状態で気分が落ち着いていた。デイケアへの通所も決まり、退院への道がみえてきた気がする。
「どんなことやるんだろうね」
「見に行こうか」
 しかし少し幻聴が舞い戻ってきたようなので、部屋に戻って小説の続きを読み始めた。
 今は物語のどんでん返しのような場面にさしかかっているが、こういう物語を作る人たちはどうやって、こんな思いもしなかったような展開を作り出すのだろう?
 小説でも漫画でも、人を驚かせるなんてのは本当に凄い技術だと思う。僕もそれをやってみたいが、今それを想像しようとしてもちっともできないのだ。
 一ページ近く読むと、息が止まるような疲れにやられ、また布団に倒れ込んだ。疲れても小説世界に浸るのは悪いことではなかった。
「おう、滝内君。死にそうな顔してんな。ヒヒ」
 顔をあげると、最近見なかった御子柴が書類ケース片手に入ってきた。この前の取り乱しようが嘘だったように、またひょうきんな表情が戻っていた。
 しかし御子柴は僕に用があるのではなかったようで、奥の部屋のお爺さんと話しかけていた。
「ほらお爺さん。これ戦時中の朝日新聞」
「あんた。珍しいの持ってるね」
 奥の部屋のお爺さんは旧日本兵である。御子柴はいろいろ面白い物を集めているが、なかなか粋なことをするものだと感心した。
「懐かしいなあ」
「しばらく貸してやるよ。じっくり読んでくれ」
 御子柴は書類ケースをお爺さんに預けていた。お爺さんはメガネをかけて、新聞をじっと眺めていた。
 僕は幻聴対策のため、御子柴の力を借りてみようと思った。
「御子柴さん。よかったらまためぞん一刻を貸してもらえませんか」
「だからあんたにやるっての」
「いいんです。借りるだけです」
「じゃあ俺の部屋から持ってけよ」
 僕は再度御子柴にめぞん一刻を借りると、最初から最後まで何度も繰り返し読み直した。幻聴を忘れるくらいに熱中させられる力がある。
 この漫画の主人公のように、社会で苦労するのも、恋をするのも今の僕には羨ましかった。彼のようにはいかないかもしれないが、どこかで自分も同じくらい生き生きとしていられないものだろうか。
 いろいろと夢想したせいで、結局その日も寝付いたのは深夜遅くになってしまった。(つづく)

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