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ベルリンに来たのに周りがロシア語話者ばかり〜過去にあったイタイ話④〜
ベルリンに来たのが20代初め。好奇心の塊のようなエネルギーとなんでも吸収してやろうというオープンな姿勢だったからだろう、最初の数年はそれはもういろんな人と知り合う機会があった。90年代後半のベルリンは道を歩けばおかしな人に当たる、というくらい奇妙な出会いで溢れていた。
飽きることがない代わりに、早朝から始まる語学学校に毎日通うのには無理があった。ドイツ語学習よりも、ベルリンの街角で人間観察をして
役所嫌いな男〜過去にあったイタイ話②〜
1994年の春休み、ベルリンに2度目に旅行で来たときに「行くといいよ!」と知り合いになった人から言われたのがプレンツラウアー・ベルク地区だった。そこのCafe Blabla(ぺちゃくちゃカフェ)で見つけたポストカードのフライヤーが気になり、見に行くことにしたのが当時はまだ地下鉄9番線ハンザプラッツ(Hansaplatz)駅の側にあった芸術アカデミー(Akademie der Künste)で行われ
もっとみるヴィム・ヴェンダースのベルリン
日本で大学生をやっていたときは、その大半を映画や音楽鑑賞に費やし、大学では授業に出るよりも図書館で過ごした時間の方が長かったように思う。茶屋町のロフト地下にあったテアトル梅田にはよく通っていた。
映画を観るきっかけを与えてくれたのは、奈良の中高一環教育の学校で知り合った体育の先生である。体育の先生でもあり、バスケットボール部の顧問でもあった先生には中学1年で担任を持ってもらってからずっと懇意にし
1998年4月14日の日記
4月14日 くもりのち雪 <<2度>> モスクワ
けだるくモソモソっと12時前にふとんから出て、リフレッシュのためにシャワーを浴びる。目玉焼きとチーズトマトとパンで朝ご飯。朝はなぜかベルリンのそれよりもちゃんとしている。わざわざ卵を焼いたりするのだ。
そして、フォトビエンナーレだと思って、軽い気持ちでдом фота(House of photography)に行くとそこはただのインフォーメー
初めて会ったときの君は
「初めて会ったときの君はもっと自由だったよ。」
と25歳の私に向かってカプチョーニは言った。
初めて会ったときの私はどこで何をしていたのだろう。ベルリンに来て3ヶ月くらい経ったくらいか。毎日、それこそあてもなく散歩好きの友人とそこら中をくまなく歩いていたように思う。
道を歩いているだけで、それはそれは面白いことが次から次へと起こった。時間なんて気にしないで東の空が白む頃まで歩き通した。そんな
1998年6月26日、ベルリン
前回の「ベルリンに来て3年目」からの続き。当時の日記を読むと、これを書いたのは2ヶ月半にわたる日本、モスクワ滞在からベルリンに戻って来てすぐに書かれたもののようだ。
シャルロッテンブルク区のNiebuhr通りに住んでいたちょっと風変わりなベルリナー家族との共同生活中。当時の自分にとってまさに「ドイツの家族」のような存在だった。
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西側のNiebuhr通りに引っ
ベルリンに来て3年目
以前はノートに手書きで日記のようなものを書いていた。久しぶりに何冊か引っ張り出して当時の自分が書いたものを読んでみた。
1998年の日記には「家」について思ったことを書いている。
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この家はなんというか自分の家みたい。
そういう場所がどこにでもあるもんだ。
そういう場所に共通しているものって一体なんだ?そもそも家ってなん
世界の果てのような街
1993年に初めてベルリンに立ち寄った時、そのガランとしていて暗いイメージが何とも言えない感情を呼び起こした。
あれはなんだったんだろう。
ドイツというよく耳にする国の中にあって、ベルリンという街はそのメジャーな国とは一線を画していた、とでもいえばいいだろうか。まさに飛地のような存在。今でも「ベルリンはドイツではない」というドイツ人がいるくらいなのだから。
ポツダム広場を歩きながら、今はお洒
ベルリン渡航前の数ヶ月
ワーホリ制度もなく、ネットもまだそこまで普及していなかった頃の話だ。
英文科だった大学卒業間近の私にとって日本からベルリンへ行くためのビザとして一番現実的だったのがまず語学ビザをとり、いずれは学生ビザに切り替える、というものだった。
大学ではたまたまドイツ語を第二外国語で専攻していたものの、ベルリン行きを決めてからは英語で卒論を書きながら独文学科の授業にせっせと足を運んでいた。就職活動もせずひ