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芸術と犯罪

※この文章は、犯罪心理・酒鬼薔薇事件を論じるなど、残酷描写を含みます。苦手な方はご遠慮ください。

ー芸術家と犯罪者ー

何が両者を分かつのだろう…。

「現実拒否」という根を持つのは、宗教も同じだ。

しかし、単独の宗教家が自らの内で消滅するのに対して、芸術家や犯罪者は、1人で世界に向き合い、反旗を翻す。

「私」を絶対のモノとして、意思を、欲望を、外へ放つ。

「真に生産的なモノは、衝撃を与える」

ニーチェの名言だが、言ってる本人にも当てはまる。ナチスにその思想を利用されてしまったが、元々キリスト教文明ごと、壊そうとしていた。

個人が挑む相手としては、あまりに巨大であり、この事も彼の人生を、ドラマチックにさせている。

※これは、哲学者・永井均のニーチェ論だが、第1章で「なぜ人を殺してはいけないか」を論じてる。

革命家が犯罪者になるか、英雄になるかー。芸術家も聞こえはいいが、認められればの話。そうでなければ…。

他人からすれば、「ガラクタ」だけを作り出し、趣味の人に収まってしまう。作家は社会から認められないで、世界の果てに放り出される。

別の仕事で生きていけるとしても、認められなければ虚しい。

芸術は遊びだから、認められなくても存在しうる。でも、作家としては認められたい。

コレ以上に真剣になれるものはない。「本当の自分」はどこにも存在できないのか?

疎外感。

それが怒り変わる時。犯罪者となるのかもしれない。


ー殺人願望ー

10代の頃。少年犯罪が多かったので、私は影響された。家族が嫌いだったから、殺したかった。でも、止める。

理由は2つ。1つは漫画家になりたかったし、これでなれなかったら嫌だった。

もう1つは、殺しても気が済まないから。親族一同、あるいは、世界中の人を殺しても、私は気が済まない。それは、分かっていた。

今でも家族は嫌いだが、母はもう死んだ。老いた父と病弱な姉は、私より先に死ぬだろう。そう考えれば気が楽。

復讐はよく言うように、自分が幸せになる事だ。

家族は私を虐待するし、馬鹿にするから、ムカついた。とは言え、自分に原因がないわけじゃない。

私のやるべき事は、馬鹿にされる原因を無くす事。つまり漫画家になる事である。

そうすれば私は幸せだし、家族にも馬鹿にされない。されても気にならない。

自己克服は、その事で「過去の自分の感情」ごと切り離せる。


私はそう解釈したが、世の中は、殺人や事件が絶えない。特に最近は、子供への虐待や犯罪が多い。何故か。

これは勝手な見方だが、酒鬼薔薇聖斗の影響が強いと思う。


ー酒鬼薔薇聖斗についてー

※ここから、彼の自伝(…なのか怪しいが)「絶歌」を参照に論じる部分があります。読みたくない方はご遠慮下さい。もしくは、スクロールし、下のー結論ーを、お読み下さい。

子供への犯罪、または性的犯罪。昔から、この手の犯罪者は居る。

でも犯罪者が、皆が皆、ロリコンやサディストなのか?そうは思えない。何か強い苦痛があって、性に逃げているのだろう。

それは、生きてる実感の欠如じゃないか。

「絶歌」では、彼が殺した男児の首を、学校の校門に置くシーンが書かれていた。以下のようだった気がする。

最も憎むべき学校と、最も愛すべき存在が、今、ここに交尾した。僕はこの映像を美しいと思った。自分はこの作品を作るために生まれてきた。もう、いつ死んでも構わない。

「この映像」ー。

「この映像」を誰が作品と認めるのか。

でも、だからこそ、そこに独自性がある。評価自体も出来ないような、規格外の「存在」。

そして、仮に作品と認めるならば…。これ以上、衝撃的な作品があるだろうか?


最も愛する者を殺すほどの、自己否定。彼は殺害に興奮する自分を嫌っていた。

嫌っていながらも、湧き上がる高揚と良心の呵責に、生の実感は覚えていたと思う。

こんな事にしか、生きてる実感や感動を見出せない人間が居る事。

これ程の犯罪を犯しても生きてけるという事。

それらを、彼は示してしまった。これもまた、彼の犯した罪だ。

大切な人や、情熱があれば生きてける。でも、それをあまり愛せない、または全く愛せない人間もいる。

そんな疎外感を持つ人は、酒鬼薔薇によって、内心を炙りだされた。

似合わない仮面をつけていた自分。社会に適応できない罪悪感に潰される自分。

そして、『背徳の快楽"ならば"、生きてる実感を味わえる。悲しみに暮れ、怖がるより、怒りとして発散させた方が「マシ」』と知る。

規格外の独自性と、後味の悪さー。

これは文章・作品・事件に共通する、彼の特徴でもある。

ー世間への影響ー

事件が作品とは、世間は認めない。でも、この犯罪者に、嫌な自分を見てしまった人は多いんじゃないか。だから衝撃を与えた。

醜悪な快楽に身を沈めるしかない少年の絶望に、人生に愛を感じれない自分をも見た。

世間は、第2の彼を出さないように法改正や個性化の流れを尊重する。そして、裏では背徳の快楽が浸透。

少年犯罪が増えたが、数年で沈静化。しかし子供への犯罪や虐待は増えたし、今のところ終わりが見えない。

萌えアニメがウケるのも、控えめな背徳の快楽の現れだろう。多くの人の「犯罪はしないが欲求を満たしたい」気持ちが下地になっている。

事件をモデルにした小説や、漫画も出てきた。

「中二病」に言われる自分を特別視する、誇大妄想も、酒鬼薔薇から来てるんじゃないだろうか。

事件は、時間が経てば笑いに変わる傾向がある。笑いにして、危険なモノを切り離したい心理もあるのかもしれない。

個性化の流れも生まれた。変わった人や、孤立した人にも、ある程度、許容量が増えたように感じる。

「自分らしく」は新しい常識になり、YouTuberやフリーランスの個人が、企業の売り上げを凌ぐ事も珍しくない。

しかし独立は自由の反面、孤独だ。

独立もしないし、世間にも適応出来ない、しない人々。そういう人の受け皿に、スピリスチャルの台頭があるー。


世間に与えた影響が大きいからと言って、私は酒鬼薔薇を天才視してる訳じゃない。自殺するべきだと思ってる。

それが、残された被害者家族に出来る、唯一の贖罪だからだ。

仮に才能があったとしても、それを発揮し幸せを享受する資格は、殺人者にはない。


ー結論ー

自分の欲求を抑えられず、世の中に醜い姿を晒す犯罪者。

彼らは、社会を、自身と同じように醜くする。

犯罪者は大抵、不幸な背景がある。それは原因の全てじゃない。犯罪を選択してしまうほど、彼らは自分や人生を憎んでるのが根本なのだ。

彼らは自身を憎み、傷つけている。辛い経験・自分を不幸にする「他人の価値観」に縛られて、忘れられない。

そして、その悪い価値観を覆すだけの、価値観を生み出せてない。

人は二度生まれるのだ。一度は望まれて。二度目は自ら望んで。

誰しも与えらたモノだけじゃ、幸せになれない。

「私」は特別な存在であり、そのため「私だけの幸せ」を必要とする。

試行錯誤に哲学や実験をしなければ、「私だけの幸せ」を獲得出来ない。

獲得できなければ、自分の不幸を誰かのせいにする。「分かってもらえないなら、分からせてやる!」といった行動に出る。

「分かってもらえたら救われる」、「幸せになる」と思うのは幻想だ。人は人を、本当には理解出来ない。

でも、愛する事は出来る。人は、本当に愛するモノがあれば生きていけるのだ。


私は昔、孤独が辛かった。殺人か自殺をして終わりたかったけど、どっちもしなかった。リストカットすら、ない。

やっぱり漫画家になりたい。何度もこの二択で迷ったけど、最後はこの気持ちが勝った。

例え認められなくても、私は私の作品を、創作や表現を愛してる。

それは真実の愛だからこそ、それを支えにして生きていけた。それがなければ、気が済まないと分かってても、やっていたと思う。


誰かに愛されても、自分から愛さなければ虚しい。逆に愛されなくても、愛する事が出来れば幸せだ。

人でも、ペットでも、仕事でも、趣味でも。愛すれば、人はその幸福を維持しようと誠実になる。愛は理性を育む。


そう考えると、「愛する」ほど、大事なことは無いんじゃないか。

愛の有無、また、その強弱。

それが、似た者同士の、芸術家と犯罪者を分ける。


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