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エッセイ:比呂暇太郎(9)「フマキラー」と「安(やす)の目薬」は広島発祥なんで!


「フマキラー」は、広島発祥の会社なんで!

まだ冬じゃあ 思うとったら
はー 春になっとって
花見じゃあ 浮かれとったら
あら! 言うとるうちに 
夏みたーになったのう
 
あんたあ 今日は なにしとったん?
わしじゃ
比呂暇太郎 じゃあーや!
 
地球温暖化のせいなんかのう
近頃は えらい 暑い日が
多ゆうてから
 
最近は 蚊も あんまり 
見んようになったィの
 
蚊と言えば 急に思い出したんじゃが
「フマキラー」 言うんは
広島発祥の会社 じゃったの! 
 
明治23年(1890)にの
広島市 安佐郡 祇園町(現 安佐南区祇園)で
大下(おおしも)さんちゅうひとがの
「大下回春堂」という薬屋さんを
始めちゃったのいね
 
もともと大下家は
明治7年(1874)から
「除虫菊」やらも扱う 薬種業を営む家じゃったんじゃ
 
その「大下回春堂」さんが
大正9年(1920)に
「強力フマキラー剤」言うんを開発しちゃっての
どんどん会社を大きゅうしちゃったんで
 
戦後になっての
昭和38年(1963)に 世界初の「電気蚊取り」の
「ベープ」を発明しちゃったんよ!
 
ほいでの CMには 
藤純子さん(現 富司純子さん)を
起用しちゃったんよ
 
当時 藤純子さんは
任侠映画の「緋牡丹のお竜」で
高倉健さんと 共演しとっての
大人気じゃったのィね
 
女侠客の 黒い着物姿での
「煙も出さず 灰もなく…… 
蚊を…… 落とします……」言うセリフが
えらい 艶っぽうてのう
 
わしも それ見てから
痺れてしもうての
蚊と一緒になって
畳の上に 倒れてしもうたィや
 
そう言やあ
蚊取り線香の「金鳥」さんは
美空ひばりさんが
CMに 出とったのう
 
昔は 思い出に残るCMが
ようけ あったのう……

「安(やす)の目薬」も有名じゃったんじゃ!

広島市の安佐南区にはの
古い地名で「安(やす)」と呼ばれるところがあっての
江戸時代には
「安(やす)の目薬」が 有名じゃったんで!
 
えっ? 安佐南区が どこかわからん?
下の地図を見てつかあさいや

広島市中心部より北の方が「安佐南区」なんじゃ

上の地図での
広島市内の三角州の北側のほうが
たいがい安佐南区になるんじゃィや
 
地図の上のほうに
緑色の矢印の先に「上安(かみやす)」言うんが
あるじゃろ?
 
だいたい そのへんィや
「安(やす)の目薬」を作っとったんは
 
今でも「上安」のあたりの 旧街道沿いに
「安の目薬」の石碑が建っとるのィね
 
この目薬はの 今のやつと だいぶん 違うてからの
貝殻に入った軟膏みたいなんでの
赤い紙に包んで 売っとったんじゃと
 
下瞼(したまぶた)に塗ると
皮膚からしみ込んで
眼の病を治してくれるっちゅう 
すぐれものやったんで
 
その「安の目薬」をつくっておったんが
原田家、野村家、品川家の三家だったんじゃ

「幕末の志士」から「検事」になった原田隆造さん

この原田家のひとでの
原田隆造(はらだりゅうぞう)さん 言うひとが
幕末維新のころ おっちゃったんよ
 
原田隆造さんは 京都へも行っちゃっての
「尊王攘夷の志士」として活躍したんで
きっと 新選組の隊士たちとも
渡り合っとったんかも しれんのう
 
「倒幕派」の広島藩士の志士たちとも
様々な交流があって
戊辰戦争に出征した「神機隊」の結成にも
関わっちゃったんで
 
広島藩の「神機隊」のことについては
下の記事にも書いとるけえ
見てつかあさいや

さてその 原田隆造さん じゃけどの
明治時代になってから
「司法省」に入省しちゃってからの
その後 長野県の松本裁判所の 上席検事にも
なりんさったのいね
 
薩摩や長州のひとたちだけや のうて
広島出身のひとも
えらい 頑張っとっちゃったんじゃのう!

きっと 眼の病 だけじゃのうて
世の中にある
いろんな「病」を
治したかったんじゃろうの!
 
引退してからは
京都に住んじゃっての
篆刻(てんこく)家、漢詩人として
余生をおくられちゃったんと
 
きっと
幕末の風雲の中
志半ばで 京都に散った
「尊王攘夷」の同志たちのそばに
おりたかったんじゃろうのう……

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