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ハードボイルド書店員日記【156】

2017年8月。

勤めていた書店がなくなり、同業他社へ移って数か月が過ぎた。店長が同世代でプロレスファンだった。「高田延彦 vs ヒクソン・グレイシー」を2回とも東京ドームで生観戦したらしい。

ある日、大量のダンボールを開ける作業中に蓋で剥き出しの前腕をこすり、8センチぐらいの浅い切り傷ができた。「大仁田だね」と笑みを向けられたが「わかりません」ととぼけた。大仁田厚のことは嫌いではない。だが「7年ぶり7回目」という甲子園出場みたいな引退発表にモヤモヤしていた。

前年に新日本プロレスを辞め、アメリカのWWEへ移籍した中邑真輔の本が出るという情報をキャッチした。しかも異なる出版社から2冊。「SHINSUKE NAKAMURA USA DAYS」と「THE RISING SUN 陽が昇る場所へ」だ。すでに8月におこなわれる真夏の祭典「サマースラム」でWWE王者への挑戦も決まっていた。もし戴冠すれば日本人初の快挙である。

「このタイミングで本を出すんなら勝ちそうだね」平日夜の平和な時間帯、カウンターの後ろに置かれたPCで売り上げをチェックしていた店長に声を掛けられる。「そう思います?」「だってアメリカのプロレスは」言い掛けて口を噤む。ああそのタイプか。日本のプロレスは格闘技に近いがアメリカのそれは完全なるショーというややこしい上から目線。「獲ってくれるといいんですけど」言葉とは裏腹に勝ちを確信していた。王者のジンダー・マハルは恵まれたフィジカルを持つ優良選手だが、客観的に見て真輔を上回るほどの華や説得力は感じない。

だから乱入絡みとはいえ負けたときは驚いた。9月の大会で再戦が決まった。入荷した2点を並べて積んだがほぼ売れない。「WWE王座再挑戦! 今度こそチャンピオンになってくれ!」という手書きのPOPを飾った。

また負けた。

「やっぱりプロレスでも世界の水は甘くないねえ」思わず顔を盗み見る。先の発言と矛盾していることをまったく意識していない。「なんで負けちゃったかねえ」「ジンダー・マハルはインド系カナダ人らしいです。最近のWWEはインドでの市場拡大を目論んでいると何かの記事で」「ああなるほど」そういうことにしておいた。

「真輔、きっと落ち込んでるね」「それは大丈夫です」古くからの親友みたいに断言した。「店長は『USA DAYS』読みましたか?」「いや」レジを離れてスポーツ書の棚へ行き、平積みから取って戻る。「203ページを」こんなことが綴られている。

「マイナス方向で考えようと思ったら、人生なんて底なしですよ。なんでもネガティブにとらえてしまう人っていうのは、自分自身でそういう塊を作り上げてるんですよね」
「”これが普通だパワー”さえ手に入れちゃえば、どんな変化が起きてもそれをどうにか楽しむことができる。『人生、嫌なことが起こるのも普通だよね』ってね」

「さすがは猪木さんの愛弟子。いいこと言うねえ」猪木さんは関係ないのでは? 口に出し掛けて留まった。関係ないことはない。新人時代にロサンゼルスで長い時間を共に過ごし、間違いなく影響を受けたはず。そういえばWWEで日本人はまだ誰も世界王者になっていないが、実は猪木さんが1979年に戴冠している。しかし日本での出来事だったせいか、WWEは彼を歴代王者としてカウントしていない。

「猪木さんの王座獲得はうやむやになったけど、ぜひ真輔にリベンジを果たしてほしいです」「又吉みたく?」予期せぬ返しに戸惑った。「又吉、ですか?」「あれ、○○くんって太宰治が好きでしょ?」「ええ」「太宰がどうしても貰えなかった芥川賞を、彼のファンでたまたま同じ住所に居を構えた又吉直樹が『火花』で獲ってくれて嬉しかった、って熱く語ってたよね」たしかに語った。入社初日の面談で。

あれから6年。猪木さんは昨年亡くなった。でもまだ中邑真輔がいる。闘魂は終わっていない。師匠がつかんだはずの栄光を、今度こそ「選ばれし神の子」が名実ともに形にしてくれるはずだ。

店長見てますか? 日本での市場拡大チャンスだし、今度こそ真輔はやりますよ。決戦は日曜日。チャンネルはABEMAで。

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