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ハードボイルド書店員日記【100】

「すいません、これ大丈夫ですか?」

雨が降るはずだった平日の午後。永遠にカウンターを抜けられない。傘を持たぬ帰宅者が駅の出入り口で彷徨うように。交代要員はいずこ?

入って間もないアルバイトの女性が隣のレジで首を傾げる。クレジットのパスワード入力を待っているときに声を掛けられた。「VJAのギフトカードは使えない。JCBなら大丈夫。お釣りは出ない」カードとレシートとお客様控えをカルトンに載せた。カード会社控えと間違えていないか確認しつつ。

「じゃあこれは?」右のお客さんが直接訊いてきた。茶色い革のくたびれた長財布から全国百貨店共通商品券が顔を覗かせる。「申し訳ございません。そちらも」新潮文庫にカバーを掛けながら返した。「ここ百貨店じゃないの?」「違うみたいです」正面の人に「夏の100冊」のしおりを選んでもらい、まだ納得していない右側へ頭を下げる。本来俺はこの時間レジにいる人間ではないのにな。思わなくもない。

「さっきはありがとうございました」ようやく列が途切れた。しかし彼女ひとりを残して出られない。代わりはまだだ。事務所で店長と話しているのが見える。「あのふたつはよく訊かれる」「覚えました」ライトブラウンの長い髪をポニーテールにしている。週3で夜まで入っているから学生に見えても違うはずだ。ダブルワークか共働きだろう。

「あの」「何?」「いまさらですけど、先月入った」互いに自己紹介を済ませた。「小説を書いてるって聞きました」「ああ」「あとすごく本に詳しいって」「俺が?」頷かれる。「そんなことない。普通だよ」「私も本が好きなんです。元々は地元の図書館で働いてました」「へえ」「でもやっぱり本屋も接客業ですね。前の職場もそうでしたけど」何が言いたいか、言えないかを概ね察知できた。書店員は必ずしも本好きに適した職業ではない。

考えた。

「アマゾン使う?」「たまに」「あそこのカスタマー・サービスでは、顧客のお問い合わせに丁寧に対応すると上司から怒られるらしい」カウンターの脇へ移動してPCのキーを叩き、小学館新書「潜入ルポ アマゾン帝国の闇」のデータを出す。「元ネタ」「どうして怒られるんですか?」「ファストフードでも売るようにやれ、ってことみたいだな」「あり得ないですね」首を振る。白い眉間に深い縦皺が寄った。

「ウチはそういう職場じゃない。その点は安心してくれていい。むしろ商品知識を活かしてくれると助かる」「わかりました」表情が少し和んだ。もちろんその前に基本となるレジ業務をひと通り覚えてもらう必要はある。でもそこを耐えられなくて辞めるのは勿体ない。

遅い。代引き配送の手続きをしている。めったにないケースだから、やり方を確認しつつ進めているのだろう。「いまレジ時間じゃないですよね?」「仕方ない」「すいません。私のせいで」「いやそうじゃない」誰でも最初はあるのだ。「担当はどちらですか?」「ビジネス書。あとは資格書、歴史、哲学」「もしかしてあの本を仕入れたのは」「どの本?」「ちょっといいですか?」場所を交代する。十指が見事なタップダンスを披露した。

「ああそれか」頭木弘樹(かしらぎ ひろき)の名著「絶望名人カフカの人生論」だ。「あえて哲学書の棚に置いてる。本来は文芸書だし文庫にもなってるけど」「どうしてですか?」「人生に悩んでいる人に手に取ってほしい一冊だから」

たとえば、と記憶の底を浚う。「こんなフレーズがある。『ぼくの勤めは、ぼくにとって耐えがたいものだ。なぜなら、ぼくが唯一やりたいこと、唯一の使命と思えること、つまり文学の邪魔になるからだ』」「わかります」「でも彼は死後作品を認められた」「ですね」「ならば仕事が創作のうえで何らかの役に立っていたと言えなくもない」「たしかに。考えてみたら『変身』もザムザが仕事をしていたから成り立つストーリーですよね」セールスマンの主人公がいきなり毒虫になってしまうカフカの代表作だ。

「もしカフカが働かずに好きなことだけしていられる身分だったら?」「書けなかった気がします」本好きを自称するだけあって話が早い。「あ、だから書店員を?」「違う。俺はこの仕事も書くことも両方使命だと思ってる。いわば車の両輪だ」「両輪」「でも昔はカフカみたいに考えてた。だから彼の言葉に励まされた。同じような人がきっといる。だからめったに売れないけどずっと置き続けてる」

「お待たせしました」やっと来てくれた。「あの」「ん?」「ありがとうございます。ちょっと元気出ました」「そう」「私もこの仕事、先輩みたいに思えたらいいな」「迷ったときはあの本を」「そうします」「でもムリはしなくていいよ。カフカだってアマゾンでは一週間も続かない。それでもカフカなんだ」「大丈夫です!」この子は変身を遂げそうだ。無論ザムザとは違う意味で。

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