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ハードボイルド書店員日記【61】

「その人、好きじゃないです」

スポーツ書担当の女性が細い眉をひそめ、僅かに首を傾げる。「わかった。じゃあビジネスの棚で置こう」「すいません」軽く頭を下げてくれた。だが切れ長の瞳はなおも堅い光を称えている。スリムで背が高く、ストレートの黒髪を仕事中はアップにしている。私は彼女を見る度に「キル・ビル」や「チャーリーズ・エンジェル」で活躍したルーシー・リューが思い浮かぶ。

今朝、本部の一括注文した落合博満「采配」が10冊届いた。10年ほど前にヒットした名著である。少し前に出た「嫌われた監督」と一緒に置けという意図だろう。並べれば両方売れる可能性は高い。だが「采配」はビジネスマンが仕事のヒントとして読むことを狙った構成だが「嫌われた監督」は明らかに違う。想定される購買層はプロ野球ファンだ。ゆえに併売するならスポーツ書の棚しかあり得ない。

だが彼女はそれを拒んだ。落合監督にいいイメージがないらしい。現役時代をリアルタイムで見ていないという事情もあるだろう。ひと回り年長の私ですら全盛期のロッテ時代をほぼ知らないのだ。

「いまは違うチームのフェアをやってますから」「まあそうだな」我々の目の前に広がるエンド台で「東京ヤクルトスワローズ優勝記念フェア」が展開されている。もちろん彼女の発案である。

「ラインナップどうですか?」「阪神ファンの俺が読んでも面白かった本ばかりだ」中央を占めるのは高津監督が書いた光文社新書「二軍監督の仕事」だ。他にもノンフィクション作家・長谷川晶一氏の傑作「幸運な男」「詰むや、詰まざるや」、そして故・野村克也氏の「野村ノート」などが並んでいる。

「私はもうひとつ遊び心が欲しいです」「遊び心?」「どうしてこれがっていう。なおかつフェアの趣旨にも合っていて」「難しい注文だな」腕を組んで考えを巡らせる。こういうことは事務所の椅子に座って悩むよりも実際に棚を見て閃く方がいい結果に繋がる。ヒントは常に現場に転がっているのだ。

「これはどうだろう」文芸書のコーナーから抜き取ってきた。村上春樹の短編集「一人称単数」である。「スワローズファンですよね。ヤクルトについて何か小説を?」「小説というか」収録されている「ヤクルト・スワローズ詩集」のページを開いた。

「詩ですか?」「詩みたいな何かとエッセイの融合だな。サンケイ・アトムズ時代の外野手について書いたものが面白い」「その時代は知らないなあ。どんな感じですか?」口振りとは裏腹に目に涙が滲んでいる。欠伸を噛み殺したのがバレバレだ。

「こんな感じだ。『相手チームのバッターは右翼フライを打ち上げる』『君は両手を軽く上げ三メートルほど前に進む』『ボールは正確に物差しで測ったみたいに君のちょうど三メートル背後に落ちる』『僕は思う。どうしてこんなチームを応援することになったのだろう』

しばらく間が開いた。彼女はいつの間にか下を向き、細い肩を小刻みに震わせている。「大丈夫?」応えるように顔を上げる。またもや涙目。ただし内実は先ほどとは雲泥の差だ。「…それ、宇野ですか?」「宇野は中日だ。あと彼はフライを落としたわけじゃない。ヘディングしたんだ。角度といい跳ね方といい芸術的としか言いようのない見事なヘディングを」するとまた俯き、エプロンの上からお腹を押さえて身体を折り曲げた。

「大笑いしていいぞ。君はスパイでも殺し屋でもない。一介の書店員だ」「…先輩、ドSでしょ」「ドは余計だ。ちなみに『嫌われた監督』にもその話は出てくる」「興味が出てきました」「じゃあ『采配』も一緒に置いてくれるか?」

ようやく落ち着いた彼女がふーっと息を吐く。「わかりました。併売します」「ありがとう」「こうなったらガンガン売って来月の店長賞を狙いますよ」「おう、やっちまいな!」そう言うと「『キル・ビル』は見てない世代です」と釘を刺してきた。見てないのに知ってるのかというツッコミは自重した。例のヘディング事件が起きたのは1981年。落合がロッテで一軍に定着した頃だ。つまり私も宇野の問題のプレーを見ていないのである。まあいい。とにかく目的は果たしたのだ。やれやれ。

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