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4月の鯉のぼり

(写真はみんなのフォトギャラリーから頂きました)

幼い頃の記憶といえば、保育園くらいからは鮮明に覚えている。黄色い園服を着て、保育園に通い始めた頃、私はお母さん子で、ひとときも母親と離れるのが嫌な子どもだった。保育園に行くまでがすでに修羅場で、保育園に行くまいと、時間が過ぎても家でぐずぐずしていると、自営業の父親がそれを察して、私を家から引っ張り出そうとして、それにあらがう私とで、行くのが嫌でぎゃん泣き、下手すると父親から頭をはたかれて、さらにぎゃん泣き、というお決まりの儀式があった。泣きながら保育園に連れていかれると、しかたなく、保育園のホールで、全校園児が朝、集まるのだが、ここでも私はギャン泣きし、みんなが起立して、出席確認のために名前が呼ばれると座るシステムだったのだと思うが、私は立ったまま泣き続け、あたり一面が体育座りをして、立ったまま泣いてる私をみている、という構図になっていた。たまに、私につられてか、立ったまま泣いている園児がいると、「仲間がいる」、と思わず私はほっとしたものだった。さて、これだけでは、まだまだ収まらず、もうひとつ、山場があって、それは、ホールから出たところの手洗い場で、私が、毎日、朝食べたものを吐く、ということが待っていた。保育園にいるのが嫌でしょうがなかった私は、嫌だ嫌だと思うと吐き気を感じ、いつでもどこでも吐いた。おそらく、園の先生が後片付けをしてくれたのだと思うが、今思い出しても、本当に迷惑な園児であったと思う。
途中で帰った記憶がないので、きっと、吐いた後は、私も観念して、おとなしく4時まで園にいたのだと思う。たいして美味しくないおやつのクッキーを食べ、眠たくもないのに、タオルケットをかぶせられ、寝たふりをしなくてはならないお昼寝の時間が苦痛でしかたがなかった。それに、私は人よりとても不器用で、ハサミなんかを使った工作というものが大嫌いだったのだが、保育園に行くと、初めて、集団で工作をする、という体験をし、自分が人についていっていない、という体験をするのだが、それが嫌で、白目をむきそうな、やるせない気持ちでいた。保育園の集合写真が1枚残っているのだが、私は、とても上手にできた鯉のぼりを手にして、嫌そうに写真に写っている。そしてなぜか、その私を抱いた父親も一緒に写っている。大人になってから母親に訊ねると、私は、たった1か月で保育園を中退し、5月には保育園には行かなくなっていたそうだが、90%以上、保育園の先生が工作を手伝ってくれた、素晴らしい出来の鯉のぼりを保育園に取りにいったようだった。黄色い園服の園児たちが、笑顔で、思い思いに、不恰好だったり、不揃いだけれど、自分たちで作った元気いっぱいの鯉のぼりを手にしているのに交じり、端で、父親に抱かれて、仏頂面をして、それとは真逆に、不自然によく出来た鯉のぼりを無理やり持たされている感を充満させて写っている私が、なぜかとても不憫に思えた。
さて、私を力ずくでも保育園にひきずって行った父親がいるのに、なぜ保育園を中退できたかというと、おそらく、ある日の、いつもの約束通りに吐いていた時のことが原因なのだろうと思う。その日、いつも通りに吐き気をもよおした私は、手洗い場で吐いていたが、目の前に、真っ赤な色が広がった。「あ、血だ」と一瞬思い、周りでも気の利いた園児たちが、「ああああーいちあちゃん、ちぃ―吐いたああああああ!!」と騒いでくれた。私も、驚きはしたが、その時、5歳くらいだった私の頭に浮かんだのは、「これで保育園やめられるやろ」という黒い考えだった。その後、母親に連れられて、病院に行った。不思議と鮮明に覚えているのは、病院の診察室で、その時、病院の先生が、「大丈夫ですよ、異常ないですよ。保育園、やめさせなくても大丈夫ですよ」と、保育園をやめさせたほうがいいでしょうか?と尋ねる母に即答したことだった。「ちぃ吐いたのに、何言うてるんや、この先生は!」と5歳児のくせに思った私。その後の記憶はないが、きっと、私が保育園に迷惑をかけると思った両親が、中退を決めたのだと思う。
「うちはねえちゃんもあんたも、保育園中退」と、死ぬまで、ふと子どもの頃の話をしていると母はよく言ったものだった。
たまに、あの集合写真を思い出すのだが、若かった父も、この子どもをどうしたものかと考えあぐねていたのだろうなと、申し訳なくなる。
春が近づくと、5月の鯉のぼりが上がるまでは我慢できなかった、あの人生のまだ始まりの時代を思い出し、妙に、切なくなるのだった。
 
(了:次回につづく)

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