母上様とお雛様

掌編『母上様とお雛様』


母上様とお雛様

著者
小野 大介


 母が、一人で雛人形を飾っている。

 その様子を離れたところから見ている、私。

 この光景を見るのは、これで何回目だろう?

 あの雛人形は私が生まれたときからあるけど、覚えているのは四つか五つだから、十回も無いはずだ。

 母が幼い頃に買ってもらったという豪華な雛人形。飾るときはいつも自分一人でするぐらい大切にしている。つまり宝物だ。

 それを私は、この後、母がいなくなった隙に壊してやろうと企んでいる。

 理由は腹いせ。母のことが嫌いだから、腹が立つから、一番大切なものに八つ当たりしてやるんだ。

 さっき、また母とケンカした。悪いのは私だ。勉強をサボって成績を落とした私が悪い。頑張らない私が悪い。

 でも、勉強は嫌いなんだ。頑張るのだって嫌い。だって、いくら頑張ったって成績は上がらない。上がってもちょっとだけで、母が望んでいるぐらいにはなれない。

 私は、母みたいな優等生じゃない。頭もそんなに良くない。そもそも出来が違うんだ。だから、母が通っていた一流の高校や大学になんか絶対入れるわけないんだ。

 だから、無理なんだよ。いくら頑張ったって、無理なものは無理なんだ。それくらい、頭の悪い私にだってわかる。

 でも母は許してくれない。頑張れって言う。もっと頑張りなさいって言う。いつも、頑張れ頑張れって、そればっかり。

 だから、ケンカになったの。我慢できなくなった。我慢するのが嫌になった。それでつい、教科書とか、ノートとか、ペン入れとか、カバンに入っていたものを投げつけてしまって、いい加減にしなさいと、子供みたいなことをするなと、ひどく怒られた。

 私はまだ子供だもん。

 だから、もっと悪いことをしてやるんだ。

 嫌われてやる。


 やっといなくなった。今だ。

 私はこっそり和室に入って、横に回ってお姫様を取った。

 どうしてやろう?

 投げつけようか。

 畳に叩きつけようか。

 踏んづけてやろうか。

 どうすれば一番怒らせられるだろう?

 そんなことを考えていたら、なにかが足に当たった。

 見ると、お姫様の頭が落ちていた。

 びっくりした。まだなにもしていないのに壊れてしまった。

 小心者な私。

 すぐに拾って確かめると、首の軸が途中で折れてしまっていた。

 悩んでいる間に力が入って、つい折ってしまったのかも。

 そう思った私は、やっぱり小心者で、なんとかして直せないかと、誤魔化せないかと、そんなことを考えてしまった。

 それで、首の根元を覗いてみたんだけど、着物で隠れていた胸元に、なにか黒いものがあった。

 よく見るとそれはものではなく、汚れだった。

 ううん、違った。文字だった。

 油性のペンでなにか書かれているみたい。

 このお雛様は着物を脱がせられるようになっているので、全部見ることができたけど、これには驚いた。


 バカ。

 アホ。

 ブス。

 ババア。

 怖い。

 こんなの欲しくなかった。

 人形嫌い。

 お母さんなんか大嫌い。


 そういう言葉が、小さな字で書かれていた。そしてどれも、消そうとしたけど消せなかった、という跡があった。

 きれいな字だ。多分これ、母の字だと思う。似てる。ううん、そっくり。

 きっと母が書いたんだ、このラクガキ。

 この雛人形は母が幼い頃に買ってもらったものだし、一人っ子だから、間違いない。

 これは母のしわざだ。

 いつ書いたんだろう、これ。

 漢字もあるから、小学校の高学年ぐらいかな。それとも、もっと上の中学生ぐらいとか。もしかしたら、今の私と同じぐらいだったかも。

 あの完璧人間な母にも、こんなときがあったんだ。驚いたなぁ。

 私はニヤニヤしながら、お姫様を元に戻した。首は乗せれば大丈夫だった。きっと母もこうして誤魔化していたんだ。

 あー、だからいつも自分一人で飾っていたんだ。誰かに気づかれないようにしていたんだ。

 そのときのことを考えると、余計にニヤニヤしてしまう。

 いつも、私に見られてどんな気持ちだったんだろう、ドキドキしていたのかな。

 いつか聞いてみたいな。


 あれからすぐじゃなかったけど、母と仲直りをした。

 私から謝った。

 正直な気持ちを言えば、自分が悪いとは思っていない。でもここは私が大人になって謝っておけば、家に流れるなんとも言えない嫌な空気が少しはマシになる。

 そうしたらさ、母も謝った。言い過ぎたって認めた。

 困るよね、そうなると反省しなきゃいけなくなるじゃんか。勉強をサボったことじゃなくて、嫌われるために悪いことをしようと企んだことをだけど。

 ああいうところが優等生なんだろうなぁ。やっぱり私とは出来が違うよね。

 なんて、そんなことを考えていたらさ、母がね、こんなことを言ったのよ。


 勉強は頑張りなさい。

 嫌いなのはわかっているけど、今は我慢して頑張りなさい。

 良い高校とか、良い大学に入るためじゃなくて、自分のためにね。

 将来の自分のため。

 いま頑張っておけば、必ず、あなたのためになるから。

 お母さんのために頑張らないで、いいからね。


 なーんかさぁ、拍子抜けだよね。だったらもっと早く言ってほしかったなぁ、なんて。

 まだよくわかんないけど、あの人のために頑張らないでいいと思うと、ちょっとは気持ちが楽になった気がするよ。

 でもさぁ、期待されていないとなるとさぁ、だったら見返してやろうじゃないって気にもなっちゃうよねぇ。

 ちょっと、頑張ってみようかな。

 でさ、いつか見返して、そのときに言ってやるんだ、あのラクガキのことを。

 どんな顔をするのか、見ものだね。


【完】


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