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ドリアンのシンガク・ノート(キリスト教神学)

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聖書や教会に関するちょっとリクツっぽい話。見えない神がここで見えるはずなのに、違って見えているかも、というところが気がかり。
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シンガク・ノート メモ

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キリしよん(12) キリストが栄光の座につく時

マタイ25:31-30 マタイの記しているキリストの終末預言、最後となりました。 弟子たちがエルサレム神殿の素晴らしさに驚嘆したことから始まったキリストの預言は、神殿の崩壊、キリストの再臨、世の終わりについて弟子が質問したことへの答えでした。 聖書の「預言」は、旧約聖書では、すでに語られた教えに神の民が従うか従わないかによって未来において祝福となるか呪いとなるかの宣言、という形でした。教え・勧告と祝福・のろいが、神の民に語られた全体が、神の預言です。 キリストの終末預

キリしよん(11) 天国を持つ人、持たない人

マタイ25:14-30 キリストの終末預言、略して「キリしよん」。譬と同じで、説明を聞かないとこれだけ見てもわからない、ですよね。 天国の譬話が続きます。「タラントのたとえ」というタイトルで有名な個所です。 前回は、思慮深いか思慮が浅いか。その違いは、「わたしはあなたがたを知らない」と言われて置いてけぼりにされるほどのものでした。でもその譬による教えの結論は、むしろ、恵みをほうふつとさせるものでした。 今度の譬は、「良い忠実な僕」「悪い怠惰な僕」の違いを教えてくれるも

キリストの終末預言(10) 世の終わりの恵み

マタイ25:1-13 いつ起こるのか誰にも決して知られることがない、天に引き上げられるという出来事を、どのように待ち受けたらいいのでしょうか。しかもそれが本当は誰に起こるのか、いつどうなるかわからないままでいる不安を解消できる、はっきりとした基準が、弟子たちに語られます。 ただし、譬で、というところがちょっと難しいところです。マタイの福音書13章でも譬による天国の教えが多数ありましたが、イエス・キリストに繰り返し問い直す弟子たちにだけ、その意味が明らかにされていました。尋

キリストの終末預言(9) 目をさましていなさい

マタイ24:42-51 見えていなかったのに見えてくる。目からうろこ、という経験があるものです。 それが、しばらくすると目が曇って来る、ということもまたあり得るのです。見えていたはずなのに、と。しかも、自分では見えているつもりでいる。。。そういう危険性があるということで、イエス・キリストは、「目をさましていなさい」と忠告しています。 グレゴリオ「覚醒者」6~7世紀カトリック教会の教皇の名前で、「グレゴリオ聖歌」でも有名ですが、ギリシャ語の意味が「目をさましている」。名前

キリしよん マタイによる福音書24-25章 イエス・キリストの終末預言

マタイが記録しているイエス・キリストの5大説教集の最後。オリーブ山という、エルサレム神殿を真正面に見る丘で弟子たちに語られたものです。 キリストの昇天が紀元30年と考えられていますが、あと10年ほどでちょうど2000年になる今、この説教は緊迫感を伴って私たちの心に迫ってきます。 マルコもルカも、少し違う視点からまとめています。ここでは、マタイの視点に沿って学んでいきたいと思います。 神殿、今の世の終わりと患難時代の前兆~気をつけなさい

キリストの終末預言(8)―天に引き上げられるという福音―

マタイ24:34-41 天に引き上げられる。天にも昇る気持ち、いや、気持ちだけではないのです。 でも、すべての人、ではないみたい。なぜ? だいたい、天に引き上げられる、という出来事のスケールが大きすぎるので具体的にイメージするのが難しいのですが、それは、神さまが大きすぎてイメージするのが難しい、ということにつながるように思います。 それで、神さまはいったい何を考えているんだろう、いったい人間に理解できるんだろうか、という疑問も生まれるのです。 神さまの側からしたら

キリストの終末預言(7) ―譬から学びなさい―

マタイ24:32-41 天に帰る。死んでから、というのではなく、生きているときに。生きながらにして天にあげられる時が来る、という教えが、聖書にあるように思います。それがどう実現するのか。 24章から始まったイエス・キリストの終末預言は、「世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難」(マタイによる福音書 24章21節)を知らせてきていました。 大患難があるという預言は、イエス・キリストの弟子たちにどういう意味があるのか。弟子も患難を味わう事になるのか

キリストの終末預言 (6) ホントウの救い主、って。。。?

マタイ24章23-31節 世の救い主、と呼ばれる人とは、どんな人なのか。それは私の救い主でもあるはずだけれど、どれが本当の救い主なのか。そもそも、本当の救い主はいるのか。 困難のただ中にある時、助けの手を差し伸べてくれる人があれば、それにすがるのは自然の成り行き。その人が本当に善意でしてくれているのかどうか、その時には考える余裕もないままに。「弟子」にとっても同じで、救いの手が差し伸べられるとき、「神の助け」と思ってそれにすがってしまうだろうと思います。 はっきりと「偽

キリストの終末預言(5) 大迫害者が来てしまったら

マタイ24章15‐22節 聖書の中で預言と言われる箇所を、どう読んだらいいのか。未来の出来事を本当に教えてくれるのか。 ユダヤ人にとって、基本は「モーセの律法」にある預言だったはずです。祝福と呪いの預言が、実際にバビロン捕囚として実現した。でも、今はそれすらも事実というより神話としている流れが主流。もし神話にしてしまうんだったら、神とイエス・キリストもまた神話の中にしかいなくなりそう。 でも、約束を守る遺伝子は、神から来ていると思うんだけれど。あ、これは比喩的表現です

ヨハネ福音書ノート 「はじめにことばが... そして過越の祭が近づいた」

教会でヨハネ福音書を通読して学びました。 随所にある、とても大切なフレーズを、それ以前にいくつか学んだことはありますが、全体を通して学ぶのは、これがはじめて。ヨハネは、ほかの福音書が記していない独自の視点から、神の御子であるイエス・キリストを描いています。 イエス・キリストの時それが、「はじめに」あった「ことば」。ある「時」人となった。バプテスマのヨハネの登場ではじまったその「ことば」についてのあかしは、「その翌日」のあかしに続き、さらにキリストが人々に直接触れていく日々

キリストの終末預言(4) 苦しみに会う時

マタイ24章9-14節 「世の終わり」でイメージするのは、どういうわけか、良くないことごとが多いような気がします。 たぶん、聖書の「預言」と言ってすぐに思い起こすのは黙示録なのです。「地獄の黙示録」という映画があるほど、「黙示録」には悲惨なイメージがついて回ります。様々な災害が、実際、描かれているからです。 それらは「血の報復」(黙示6:10)に神の怒り(黙示6:16)が盛り尽くされる時だからです。 誰の血に対する報復? 誰に対する怒り? 出来事の予告産みの苦しみ

キリストの終末預言(3) 終わりの日の前兆

マタイ24章4-8節 日本での毎日の生活に、天気予報は欠かせません。 でも、インドネシアでは毎日の天気予報に関心が向けられることはありません。雨が降るのはだいたい午後以降で、しかも、急に積乱雲が発達して、狭い地域でゲリラ雨のように降るのが普通ですから。雨が降ったら、雨脚の激しい1時間くらい、雨宿りしてその時が過ぎ去るのを待って、また活動に戻る。それだけです。 何を着ようか、傘の備えは必要だろうか。そういう悩みを持ちえない生活では、天気予報は必要ありません。 それと同じ

キリストの終末預言(2) 将来に対する弟子たちの不安

マタイ24章1-3節 どんなきっかけで、「世の終わり」などということに関心を持つことになるでしょうか。 イエス・キリストの弟子たちは、すぐに手に入るかもしれない栄光を夢見つつ、ふと発した言葉に、思いがけない返事を受けて、慌てて、これからどうなるの、と、不安になったのがきっかけだったようです。 宗教経典で、世の初めと歴史、それに世の終わりを具体的に書いているものは、そう多くはないかもしれません。聖書は、世の始めから終わりまでを丁寧に伝えています。預言が語られるまでの経緯も