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冷え物/小田実(とても長い感想文と自戒、その1)

ひょんなこと(ただのネットサーフィン)から小田実さんの存在を知り、調べてみたらものすごく興味がわいて試しに読んでみたらものすごくすごくてすごすぎた。何も言えないけどがんばってこの感情を言葉として残しておきたい。
小田実さんの顰に倣って、私も出来る限り正直に書こうと思います。

私の中の「近年読んだものすごい小説ランキング」暫定一位に躍り出ました。二位は閉鎖病棟かな。


相手がどんなに素晴らしい人でも、人間を(特に生きてる人を)神格化するのはよくない、と常々自分に言い聞かせてるんですけど、そうとはわかっていても「この人の概念をもっと取り入れたい」「批判するところなんてない(作品としてはあるのかもしれないけど、少なくともこれを書こうとした精神においては)」「こんなものが書ける人が存在するなんて信じられない」と、まあめちゃくちゃ崇めたくもなるような作品でした。


この『冷え物』という小説は差別についてかなり深くえぐって書かれたものです。

わたしは普段から差別について意識的に深く考えたり感じたりしているかと言われたらそれはもう間違いなくNOなんだけど、自分の中にある壁みたいな物を感じることはまあまああって、それでもひどい差別とはそんなに近い距離感で生きてこなかった(と自覚している)ので、世の中はまだまだ知らないことだらけすぎるな、と思いました。

舞台は大阪で、戦後で、だから差別といえば「朝鮮人」と「部落」についてがもっぱらで、それはもう社会全体に根付いていて、「差別というより区別だから当たり前のこと」くらいの感覚で描かれていて、とても驚いたし、それと同時にむかし父親が言っていたことが少しだけリアルに見えた気がしました。

わたしの両親は関西出身で、特に父親はまあなかなかにヤンチャで電車の中で喧嘩するとかそういうの日常茶飯事だったらしいんです。
まだもうちょっと若い頃は「喧嘩で負けたことは一度もない!」ってよく豪語してて、なんの自慢にもならないしむしろ恥ずかしいからやめてって思うんですけど。
それでも「負けたことはないけど、絶対に喧嘩したくなかった相手はいる。朝鮮人は怖いから避けてた」ともたまに言っていて。
それを聞いても今の今まで、ただ腕っぷしが強いだけかな〜とか思ってたけど、そういうことじゃなさそうですね。

ある地域には東京でいう新大久保みたいに韓国人とかがいっぱいいるんだよ、というのは昔から聞いていたから、そういう地域が今もあることは知っていたけど、その人たちが差別されていたとかそんな認識はひとつもなかったから、なんというかただ単純に驚いた。新大久保は行ったことないけど。これも偏見なのかなあ。


まだ子供だった頃、友達がインスタントカメラのことを〇〇〇〇〇と呼んでいました。
わたしはその呼び方を知らなかったから、なんでそう呼ぶの?と尋ねたんですけど、その友達も「えーしらなーい、パパが言ってたー」って返してきて、わたしはただの通称みたいなものかなと、「7をナナと読んだりシチと読んだりするのと同じかな」くらいに考えました。
でもそのやり取りを聞いていたうちの親が
「それは差別用語だから使ったらあかん」
「〇〇でも〇〇〇でも操作できる簡単さ、という意味だ」
と教えてくれました。

その子のパパだって差別用語だと知らずに使っていた(と信じたい)んだろうし、悪意なんてなくて、だから良いってわけじゃないけど、それくらい当たり前に差別というものがこの世にはきっと溢れているんですよね。

そのときはふーん、と流しました。
そもそも◯◯◯が朝鮮人を意味する差別用語だということもわからなかったし、朝鮮人が差別されてきたという事実も知らなかったから。



何年か前に四国に行って、
【部落差別はやめよう!】
と書かれた看板を目にしました。

え、被差別部落ってなんの話?部落ってむかしむかしの話じゃないの?えたひにんとかでしょ?と思って、その場でググって。

正直、「穢多・非人」という漢字表記をそのとき初めて知りました。
穢れが多いって書くのか。人間にあらずってこと?なんで?二つの違いは?でも昔のことでしょ?
そんな考えがぐるぐるしたけど、結局深く知ることはありませんでした。恥ずかしい限りだけど、あのときはうどんを食べるのに夢中だったから……。

ほんっとうに何もかも知らなさすぎるけど、学校では教わらなかったと思うし少し触れてたにしても記憶にないくらい表面的なものだったんだろうな、と思う。

部落についてはわたしがちょっと調べて書いたところでたかが知れているので、よければ翠さんのこちらを。

流れがとても分かり易かったです。
これを読んで、これが全てではないんだろうけど、よくわからないものは怖いとか、ただの流れとか、やっぱりそういう理由にもならないような理由で差別が生まれてるなあって思いました。


言い訳がましいとは思うんですけど、日々の生活で被差別側の人たちと出会うことって、ないじゃないですか。最近LGBTQとかは話題だし、それについても次に書きたいけど、このお話に出てくる部落や朝鮮人について、その差別について、目にすることって全然ない。
だから、戦後の話だと思ってました、ほんとうに。
会ってても知らないだけなのかもしれないけど、それくらい部落とかそういうの、すごく昔のすごく遠い話だと思ってた。

今でも遠いことには変わりないのは、「部落出身です」とかを聞いたことがなくて、少しずつ減ってきているにしてもまだそれこそ親世代とかだと偏見のある人は多くいて、だからこそそれだけ隠されてるだけなのかもしれないけど、とにかく私にとって身近でないことは確かです。


試しに部落とか同和地区とか調べてみたけど「ありすぎてもうどうでもよくない?笑笑」なんて感じました。
中にいる人からしたら「ふざけんな」なのかもしれないけど、めちゃめちゃ由緒正しい高級住宅街とされてる地域も部落ですとか書かれててまあネットの情報を鵜呑みにするのもあれなんだけど、仮に部落だとしてもなんか、どうでもよくない?みたいな感想しか持てませんでした。
リッチな立地についても書きたいことがあるのでまた別で書きます。

それでも部落出身の苗字とか調べてみちゃって、なんの根拠もないリストに自分の苗字があるかどうか血眼になって探しちゃって、見つからなくてホッとした自分もいるんです。そう感じてしまうのは恥ずかしいけど、正直なところ、そんなふうに安心するのはまともに人間としての感性が機能してるからなのかな、なんて思ったりして、それでもとにかく「被差別の外」にカテゴライズされて安心する自分、っていうのを変えていかないといけないと作者もあとがき(?)で書いていたので、そんな風に感じてしまう自分を自覚して、それを恥ずかしいなと思う気持ちはなくさずにいようと思います。


まあでも部落でも部落じゃなくてもなんかもうどうでもよくない?

地域や苗字について調べて、どこかで安心する自分もいたけど、でもやっぱりもうどうでもよくない?という気持ちの方が大きいです。
それは私が差別の外にいるからそう考えるだけなのかも知れないけど、そんな生まれながら受け継いだものより、想像力のある人間かどうかとか、そういうのを私は重視したいです。



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