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ナメてかかれるものをさがす


2023年10月3日(火)朝の6:00になりました。

風邪気味だろうが、毎朝6:00はやってきます。

どうも、高倉大希です。




圧倒的な小説に出会ったら、自分も作家になろうとは思いません。

圧倒的な曲に出会ったら、自分も音楽家になろうとは思いません。

圧倒的なものに出会ったら、自分もやってみようだなんて思うわけがないのです。


自転車に乗れるようになるのは、自分にも乗れそうだと思うからです。

テストの点がとれるようになるのは、自分にもとれそうだと思うからです。

ある意味ナメてかかるからこそ、実現させることができます。


要するに「自分で自分の行動を見て、自分の性格を判断している」ということです。他人のことを判断するときに、相手の行動を見て「こういう性格かな?」と思ったりするのと同じですね。たとえば、毎日、朝ダラダラと遅くまで寝ていると、自分はだらけた人間だ、と思ってしまったりするということです。

けんすう(2023)「物語思考」幻冬舎


ナメてかかれないものに対峙すると、わたしたちは途端に臆病になります。

対象を「すごい」と言うことで、必死に自分と切り離そうとします。


あの人だから、できるんだ。

環境が整っているから、できるんだ。


どうにかこうにか頑張って、やらない理由を探します。

圧倒的なものでなかったとしても、圧倒的なものだったことにしてしまいたくなるのです。


デューイは「不確定な状況」をかき乱された、困った、曖昧な、混乱した、矛盾に満ちた、不明瞭な状態、などと表現している。モヤモヤなどのわからない状態を不安と感じるかワクワクと感じるかは個人差もあるかもしれないが、わからない、わかりたいという気持ちこそが深い学びを引き起こしていくのである。

藤原さと(2023)「協働する探求のデザイン」平凡社


毎朝投稿をはじめるきっかけのひとつに、糸井重里さんの存在がありました。

糸井さんは「ほぼ日刊イトイ新聞」に、25年間毎日文章を投稿しています。


25年は、圧倒的な数字です。

でも、ほんのすこしだけ「自分にもできそうだ」と思ったのです。


この「自分にもできそうだ」がなければ、おそらく書いてはいません。

語弊を恐れずに言うと、糸井さんをナメたからこそ書きはじめられました。


東京でも流行り出して、それが広がって名古屋でもバトルイベントが開催されるようになって、客として観に行ってるうちに「あれだったら俺でも勝てるな」って思ったんですよね(笑)

KAI-YOU「名古屋でトップの自分が食えなきゃダメ」呂布カルマさんの発言より


それが圧倒的なものなのか、はたまたナメてかかれるものなのか。

当然ですが、そもそも出会わなければ判断することはできません。


そしておそらく、ナメてかかれるものが多いほど可能性は広がります。

圧倒的なものなんて、この世のほんのひと握りです。


ナメてかかれるものをさがそう。

大抵のことはできます。






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