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おもしろい人はみな恥ずかしがり屋


2024年2月5日(月)朝の6:00になりました。

すべての人間は、恥をかくために生まれてきた。

どうも、高倉大希です。




読み終わりたくない。

おもしろい本を読んでいるときは、いつもこう思います。


はやく続きを読みたいけれど、読んだらページが減ってしまう。

なんとも、複雑な感覚に陥ります。


あまりにも読みたくなくて、数ヶ月放置しているような本も中にはあります。

しおりを挟んで脇に置き、先にべつの本に手を出すわけです。


まったく、ラジオもテレビも放送してしまえばおしまいだ。どんなに苦心してうまくつくりあげた番組も、一回こっきり、あとになんにものこらない、そのために、何日も、何週間もまえから、ひじょうな努力をはらうのである、これはひきあうことだろうか。

梅棹忠夫(1999)「情報の文明学」中央公論新社


おもしろい本に共通していることが、ひとつあります。

それは、書き手が恥ずかしがり屋だという点です。


もちろん、実際に書き手と会って話したわけではありません。

きっと恥ずかしがり屋なのだろうなという、ひとりの読み手の推測です。


ただ、ほぼ間違いなく恥ずかしがり屋だと思います。

その恥ずかしさが、見事に文章に反映されているからです。


自分の中の言葉、っていうのは意図せずにいいことを言ったね。カズトはカズトのボキャブラリー以上の写真は撮れない。ボキャブラリーというのは言葉も体験も思考もすげて含んでいる。

ワタナベアニ(2024)「カメラは、撮る人を写しているんだ。」ダイヤモンド社


書き手の言いたいことが、登場人物の発言を介して描かれていたり。

間に挟まるギャグが、照れ隠しのような機能を果たしていたり。


そのまま表現するのは野暮で恥ずかしいから、ぐるっと迂回して書きます。

迂回しすぎた結果、ぜんぜん伝わらなくなるというのもわりとよくある話です。


基本的に、書くことなんてのは恥ずかしいことなのだろうなと思います。

あとはそんな恥ずかしさに、どこまで敏感でいられるかです。


生きることは、ある意味で何かをさらけ出しているわけで、恥ずかしいことでしょう。生きることじたい、恥さらしみたいなもんです。でも、それを恥ずかしいと決めつけてしまったら、窒息しちゃいますよね。絵を描くことも、「さらけ出しながら生きていく」というのと同じこと。それでいいんじゃないかな。

横尾忠則(2021)「YOKOO LIFE」ほぼ日


恥ずかしさとは、言い換えるならば厳しさです。

おもしろい人は自分の表現に対して、これでもかというくらいに厳しい視線を向けています。


恥ずかしいから、書かないのではありません。

恥ずかしいからこそ、いかに書くかを考えるのです。


おもしろい人は、みな恥ずかしがり屋です。

そんな恥ずかしさを忌み嫌い、消し去ろうとしてしまっては元も子もありません。






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