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俺の癖を味わってくれ


2024年3月9日(土)朝の6:00になりました。

きみの癖を知りたいが、引かれそうで悩むのだ。

どうも、高倉大希です。




みんなの考えを尊重するなら、つくる意味がない。

ほぼ日の代表である、糸井重里さんの言葉です。


何かを表現する限り、誰かを否定することになる。

この考え方と、よく似ているなと思います。


書くということは、きっとこういうことです。

誰も傷つけたくないのなら、はじめから書くべきではありません。


僕のイノベーションというのは、「そのバイアスを見つけて破壊すればいい」ということに尽きます。それを発見した瞬間に、コンセプト・ビルディングに対するビビリが消えました。

石川善樹(2020)「考え続ける力」筑摩書房


そもそもを言えば、否定が悪いというわけでもありません。

否定があるからこそ、先に進むことができます。


同意だけの世界ほど、つまらないものはありません。

まわりがイエスマンだらけだと、考えが深まることもないわけです。


だからといって、何でもかんでも否定すればよいというわけでもありません。

的外れな否定ほど、どうしようもないものもありません。


バフチンによる対話の定義がどういうものかというと、「いつでも相手の言葉に対して反論できる状況がある」ということです。バフチンの表現で言うと「最終的な言葉がない」。つまり、だれかが「これが最後ですね。はい、結論」と言ったときに、必ず別のだれかが「いやいやいや」と言う。そしてまた話が始まる。そのようにしてどこまでも続いていくのが対話の本質であって、別の言いかたをすると、ずっと発言の訂正が続いていくをそれが他者がいるということであり、対話ということなんだとバフチンは主張しているわけです。

東浩紀(2013)「訂正する力」朝日新聞出版


俺の癖を味わってくれ。

俺の訛りを聞いてくれ。


そんな書き手の願望が、文章には表れているのだろうなと思います。

どれだけ無機質に書いたところで、そこには書き手の取捨選択が反映されます。


書くということは、きっとこういうことです。

誰かに迎合したいのなら、はじめから表現なんてするべきではありません。


「みんな違っていい」は対立を覚悟することであって、「心をひとつに」はそれとは真逆の考え方です。繰り返しになりますが、多様性を心の教育で解決できると信じている教育は乱暴すぎます。共通の目的を探しだす、粘り強い対話の力こそ必要だと思っています。

苫野一徳、工藤勇一(2022)「子どもたちに民主主義を教えよう」あさま社


こう思っていたけど、実際はこうだった。

その差分が、学びになります。


表現したことが間違っているかどうかなんて、べつにどうだっていいことです。

むしろ、間違っていた方が学びを得られるチャンスです。


俺の癖を味わってくれ。

大きな声で、叫んでしまえばよいのです。






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