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ブルスク冠者(太郎冠者的なのりで)

レナードの朝、これはロバート・デ・ニーロが主演を務める映画で、一人の男の奇跡のような目覚めと、その後の再びの沈黙を描いています。ヘッダ画像をお借りしています。

レナードのことばっかり考えてしまう。昨日もおとといもレナードについて書いている。レナードは長い間、病によって動けない状態で生活していた。しかしある日、新しい治療法によって一時的に彼の病状が改善し、レナードは天才的な才能を発揮する。そして周りの友達(後天的な)も「目覚め」、音楽を奏で、絵を描き、周りの人々に大きな感動を与える。

だが、その奇跡も長くは続かず、レナードは再び沈黙の世界に戻ってしまう。

この映画は、希望と絶望が交錯する。深い感動とはかけ離れたものである。

その内容はある意味で残酷だ。特に、感受性が高まる15歳から18歳の若者にとっては、レナードのように「終わり」が見えてしまうような展開は、あまりにもつらい現実かもしれない。レナードの終わり方は壮絶ですよね。直視できるだろうか?

多感な時期には、大事な人の死や失望など人生の重いテーマに直面することがある。レナードの朝は、そんな現実を余すことなく描き出している。

6歳から10歳ぐらいの子どもたちなら、この映画のメッセージを受け入れる余地があるかもしれない。彼らにとっては、レナードの一時的な「目覚め」が、人生の可能性や奇跡を教えてくれるかもしれない。しかし、もう少し年齢が上の若者たちにとっては、この映画が伝える現実の重さが、心に大きな負担を与えることになるだろう。

レナードの朝は素晴らしい映画だが、その視聴には注意が必要だ。特に、人生の転機に立っている場合、この映画がもたらす感情の波に耐えられるかどうか慎重に考えるべきじゃないか。周りの大事な人が後半のレナードのようになってしまい、それを重ね合わせる実験的思考に耐えられるメンタルを持っているなんてことがあればそれ自体が奇跡みたいなものです。

終わりが見えてしまうような現実を目の当たりにするのは、あまりにも残酷だ。

映画『レナードの朝』は、一人の男が長い沈黙から目覚め、一時的にその才能を世に示すも、再び動けなくなってしまう物語です。この映画をブルスクと言ったのはレナードが経験する一時的な復活とその後の再沈黙をPCがブルースクリーン(ブルスク)に陥り、復帰不能になる状態に喩えたくなったからです。

PCにとってブルースクリーンは、しばしば終わりの始まりを意味する。同様にレナードの物語も、一時的な目覚めが彼の人生にとっての終わりの始まりであったかのように映ります。

レナードは、新しい治療法によって奇跡的に「目覚め」、友達と一緒に音楽を奏で、絵を描き、周囲を驚かせます。しかし、その奇跡は永遠には続かず、彼は再び動けない状態に戻ってしまいます。この繰り返しは、パソコンがブルースクリーンから一時的に復帰したかのように見えても、根本的な問題が解決されず、最終的には完全に機能停止に至る過程に似ている。

『レナードの朝』は、人間の精神と身体の脆弱性、そして一瞬の希望が絶望に変わる瞬間を描いています。レナードの物語は、ブルースクリーンに見舞われたパソコンのように、一時的な復活の後に訪れる避けられない終焉を象徴しています。レナードの一時的な「目覚め」とその後の「再沈黙」を通じて、人生の儚さと不確実性が浮き彫りになっているのかどうかはわからないけど、この話が事実に基づいているという地獄についてぼくらはどう考えればいいのだろう?

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