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与謝野晶子のこと

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愛とユーモアあふれる『どっきり花嫁の記』。与謝野晶子の晩年を支えた人によるエッセイ

愛とユーモアあふれる『どっきり花嫁の記』。与謝野晶子の晩年を支えた人によるエッセイ

見出し画像:与謝野晶子は晩年を荻窪で過ごしました。その場所は与謝野公園となっています(東京都杉並区南荻窪)

はじめに『どっきり花嫁の記』与謝野道子/著、1967年、主婦の友社

図書館で借りたら繰り返し読みたくなり、古本屋で買いました。

いい作品があったのだなあ。
当時は広く知られたエッセイだったようです。1968年には橋田壽賀子/脚本、若尾文子/主演でドラマ化もされました。

著者の与謝野道

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与謝野晶子の作品と人生を追う③

与謝野晶子の作品と人生を追う③

※見出画像:文化学院入口(千代田区神田駿河台2−5)

文化学院は大正10年(1921)、西村伊作が設立した男女共学の専門学校。与謝野夫妻もこの設立と運営に関わった。現在はエントランス部分が当時のままに残され、BS11局の社屋一部となっている。

前回記事はこちら↓

晶子、堺から家出同然に上京新婚生活は渋谷村で

・狂ひの子 われに焔の羽かろき 百三十里のあわただしの旅

(恋に狂った私は炎の羽

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【トピック】子を13人生んでいても「母性だけが絶対ではない」。与謝野晶子に見る女性観

【トピック】子を13人生んでいても「母性だけが絶対ではない」。与謝野晶子に見る女性観

見出し画像:さかい利晶の杜内、与謝野晶子記念館入口

与謝野晶子(1878-1942)は、生涯で13人の子を生みました(うち2人は死産と夭折)。

私に出産の経験はありませんが、晶子の生活を思うとき、ものすごく大変だっただろう…という想像はできます。
しかも彼女は一家の稼ぎ頭であったのです。

子を生み育児をしながら、晶子は自らの歌集も次々に生み出していきました。
家計にゆとりはなく、夫の寛はよそ

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与謝野晶子の作品と人生を追う②

与謝野晶子の作品と人生を追う②

与謝野晶子は明治期の文学を切り拓いた歌人・与謝野晶子(1878年(明治11)−1942年(昭和17))

堺県堺区(現在の大阪府堺市)生まれ。
幼いころから古典文学に親しみ、10代で和歌を詠み、地元の文学会に参加する。
雑誌『明星』を創刊した与謝野鉄幹を慕い、彼を追って1901年6月に上京。
同年8月には第一歌集『みだれ髪』を発表した。
『みだれ髪』は、当時の道徳観・女性観ではあり得ない、斬新な恋

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与謝野晶子の作品と人生を追う①

与謝野晶子の作品と人生を追う①

渋谷道玄坂からパリまで

東京都内には、与謝野晶子のゆかりの場所がたくさんあります。関西に生まれ、上京してから、あちらこちらに転居したためです。
彼女の歌碑は全国各地にあります。夫婦でよく吟行(歌を詠むために旅行に行くこと)にも出かけました。

そして、ロシアのウラジオストクにも晶子の碑はあります。

1912年。彼女は福井の敦賀から船で大陸へ渡り、ウラジオストク発のロシア鉄道に乗ったのです。半年

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