「生きさせられている」は受動的か

ふとした疑問。

あんまり「私、生きてます」とか思わない方がいいんじゃないか?と。

自らのやることなすことに責任を全くとらないってこと??とも解釈されうるんだけどさ。

「生きさせていただいている」みたいな謙譲的表現ならまだ受け入れられやすいかな???

なんでこんなことをつらつら考えるのかというと、現代ってエゴが出ずっぱりな印象があるからなんよね。

私の人生、私の好きなように生きる

あまり問題視されなさそうな表現だけど、、、臭うのよね。。。エゴ。。。

なんでエゴの出ずっぱりが嫌な感じするのか?

結局あんまり救われないと思うのさ。

はかない幸せとか??

まあ人生なんて儚いって言ってしまえばそれまでなんだけどね。

「はかない」よりも「かりそめ」の方がニュアンス的にはぴったりくるかなー?

かりそめの幸せ?快楽、享楽、栄光、名誉などなどを競って追い求める感じ。

いや。

深みがない。浅はか。短絡的。。。といったことかもしれないな。。

私は私は言ってるとそれらがどんどん促進されていくような。

あまり世の中の人間をとある基準で仕訳けたりはしない方がいいのだろうけれど、私はここのところ、表と裏はあるな、と感じている。

表舞台と舞台裏。

表街道と裏道。

道の方がなんかよさそうだな。

別に裏方で表舞台に立つ役者さんを支えているわけでもないし。

各々の歩いている道があって、表のでっかい大通りやらばっちり整備された高速道路やらもあれば、グーグルマップからでは存在もよくわからない山道けもの道。。。とまではいかないけれど、都会にあってもとある一部の人だけが日常的に使っている道などなど。

道だと歩いているうちにふらっと表に出たり裏に入り込んだりってのがあるし、より私たちの人生に近そうだ。

それでさ。

表の人間ってのは、表の方がいいと思っている。

裏の人間ってのも、表の方がいいと思っている。けれども、様々な事情により歩いているそれぞれの道を受け入れざるをえない。というよりも、とりあえず歩く。で。そこが裏道だと知らされる。といった方が実情に近い。

私が注意を向けたいのは、知らされないでただ歩いている状態。そこはどうも世の中の表街道ではないらしいけれども、そんなことも知らない。

それって意外と幸せな状態なんじゃないだろうか?と私は思う。

がしかし。

そうは問屋が卸さない。

人々は交わる。

あっちの方に表の道ってのがあって、そっちの方が絶対いいという。

どちらかというと、そうした言葉に影響される人の方が多い。

道は交わるものだから、そうした人々の動きもほぼ自然といえるし、妨げようとしたり、コントロールしようとはしない方がいい。

話が前後するけど。

表の人間って、その人自身が表街道を歩いているかどうかには関係なく、ふふんと鼻歌まじりに裏とされる道を歩いている人間(他人)を見ると、「そこ裏ですよ」とか「もっといい表の道ってのがあるんですよ」と言いたくなる人間なんだろう。

親切?お節介?

どっちもやろね。

どっちであってもさ。

裏と表を作るのは、この手の人間だ。

表の人間ってのは極めてバカっぽく私には見える。

けれど、本人たちは賢い方だと思い込んでいる。

現代の世の中にはCritical thinkingなる言葉がある。

かしこい(こざかしい)方の人間というのは、たいがいCriticalにモノゴトを見ることができると思い込んでいる。

しかし。。。

CriticalにThinkingしていることって、「我、Criticalなり」と言ってしまった時点でそのCriticalさがあやしくなる。

表と裏が存在することは、誰にもどうにもできないことなわけで、「表です」だの「裏はこうです」だの言ってみたところで、現実の世の中は中立的などこかで落ち合うことなどありえない。

何のためのCritical thinkingなのか?ということ。

結局私たち人間が作り出すボーダーは、アーティフィシャルで幻想的だということを思い知り、忘れないため。

個人と社会、ジェンダー、国境や階層・階級などなどなど。。。

これらは決してなくなりはしない。

そういう意味で、様々なボーダーはリアルだ、ともいえる。

私たちリアルな人間は、その能力を駆使して、様々なボーダーによって仕訳けられた幻想世界を創り出さずには生きられない。

幻想世界は非難、否定されるべきものではなく、受け入れられるべき、現実に存在する限界。

この限界は誰か特定の人間の手によってのみ作り出されているのではない。この世に産み落とされた人間なる動物一人一人が生きながら体現しているもの。

”知識の民主化”はどうしても目指されなければならないと考えている。

「仮に」とはいえ、ボーダーを引いて対照関係(因果や帰責性)を作り出したり、主部と述部とが分かれる言語なるサインシステムを日常的に使用して生活している以上、礼を失しては道徳的義務を果たすことはできない。道徳的義務を果たすことなく、社会的義務だの自己責任だのがいかようにも果たされることなどありえない。

自らの為すことの経済的・金銭的価値、それらに基づく交換システム。洗練させるのはいいけれど、”洗練させる”とは、”礼儀の正しさが個々人の義務として最優先される”ことでなければならないだろう。

知識なるものは、私たち一人一人によって日常的にデモンストレートされるものなのだから、日々の挨拶は決して侮れない。

「ふーん。じゃあカタチだけでもちゃんとあいさつしときゃええってこと?」

なぁんてのたまう個体数が徐々にでも減少する方向に変化しないと、”知識の民主化”は進んでいるとはいえないだろう。。。

社会的、世間的に認知される肯定的価値というものは確かにあるだろう。

けれども、どんな物差し(評価基準)をもって測定されたものであったって、その数値だけで社会的責務が果たされたことの証明にはならない。

勲章、紋章、認証、、、etc.を示し合ってコミュニケーションを完結してしまう、させようとするような世の中は、面倒なことに手間をかけたくないという無責任さの表れだ。

どう線引きしたってそれを越えて交わり合うのが私たち。

インタラクティヴである以上、どんなにシンプルな関係だって、”答え一発”なぁんてことはありえない。

ごくごく直近の一見分かり切った未来だって、文字通り一寸先は闇なのだ。

想定外のことに対応可能としておくためにも、また、予想通りで全く他の選択肢があり得ないような未来のためにも、お互いある程度の余裕を持たせ合うような思いやりはあっていいはずだ。

価値の交換もCritical thinkingも、やはり、コミュニティ全体の繁栄に主眼が置かれるようにならなければならないと思う。

個々が自らにポイントを加点していくようなやり方に恥を感じないようなら、どんな工夫も努力もかりそめに終わってしまうだろう。

上ばかり見ていたってキリがない。

目指すことは妨げないけれど、それをより幸福に続けていくためにも、自身の成り立ちを、インタラクティヴに、また、ヒストリカルに理解しようと努めることをお奨めしたい。

自分ひとりだけのお手柄なんてそうそうないさってことぐらいは結構多くの人が知っていることだろう。

けれども、それをどれぐらい詳細に具体的に認識できるか?というのは人により、また、おかれた環境などなどにより様々。

現に持たされている才能やリソースも様々だしね。

ただ、どんな人だって現に生きている現実には対処せざるを得ない。大して考えてなかろうともね。

つまりは、誰だって現に自分の持たされているものについて、その由来や、同時代の他者との関係、そして、将来へのアプローチの仕方などなど、その人なりに理解を深めるチャンスはあるということ。

自分の置かれた環境、出くわす人々やモノゴトをよく観察し、よく知ることはどんな人にも必要なことではある。

とはいえ、より重要なことは、自分自身のあれこれ(才能やその他リソースなど)と、まさにインタラクティヴに、関連付けて理解しようと努めること。

自分自身を知るということの重要性もよく知られてはいる。

ただそれも、心理やらなにやら、、、もっぱら内側に注意を向けるのではなくて、あくまでも他者・他物との関係性からよりよく理解しようという方向が望ましいと考えている。

決してなくなりはしないという意味で”リアル”だと言った様々なボーダー。

独立した個々人もそう。普通に運用されてしまっている性別にしたってそう。より細かい学業成績やらなにやらのランク付けもそう。

なくならないんだから、なくそうとなんてしなくたっていい。

「なくそうとしてます」なんて努力の主張はかえって不誠実にもなり得る。

大量の民衆が啓蒙されたとされる現代、なかなかどうして、思い通りになるスペースが極めて限られているということも周知の事実。

それでもこうやって現にある程度の調和を出現させている私たち人間のポテンシャル。カギは何といってもインタラクションやらコミュニケーション。

おいらはこれこれこういう正当な理由に基づいておいら自身のスペースを主張したって構わないんだ!

なんてこと言い合うためにエナジーを費やすのではなく、限られたスペースを適当に融通し合えるよう、絶えず学び続けないといけないんだろうと思っている。

生きさせられていようが、意識高く人生を切り開いていようが、生きておればなにがしかの責任は負うわけで、それは何をどうしたから解放されるとかいう類のものでもなし。また、一度や二度Cruelに振舞ってしまったからといって「もう取り返しなんてつかない」などとやけっぱちになるようなもんでもない。

別の言い方をすれば、「私の責任範囲はここまで」と定義しようとして仕切れるものでもなければ、中途半端な定義がまかり通るからといって融和の道が全く閉ざされているってことでもない。

「私は私は、、、」と言い続けるのではなく、一度「私は、、、」と言ってみたなら、そう言えた、言わせてくれた人、モノ、環境、、、etc.について考えて、そうすることでまずは自分自身のなりを見つめ直してみる。

別に他者の立場になんて立たなくたっていい。

そんな身の程知らずを考えたり、あたかもできているなんて風に偽ろうとするよりも、どんなツラ晒しているのか?それって最低限の身だしなみ、礼儀、マナーなんかを満たそうともしてないんじゃないの???みたいなことね。そういった気遣いぐらいはね。弁えるべきじゃないか??と。ちょいとぐらいは考えてみる。

そんなとこから始めてみるべきなんじゃあないかなぁ。

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