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「処女受胎~あれからの釈華~」『ハンチバック』二次小説<中>

 その夜、私はまたひとりで悶々と考えていた。健常者でも子宮をとってしまったら当然授かることはできないんだ…。本当は、医学的に可能なら、今胎児として成長しつつある命の塊を私の胎内から茉莉亜さんのような健常者の子宮に移して、代わりに元気な赤ちゃんを産んでほしいなんて夢みたいなことも考えていた。けれど、子宮を摘出して赤ちゃんを胎内で育てられない健常な女性も世の中にはいるんだということを改めて知らされた。

 それから流産のこと…。私が出産を望んで、このまま子宮内でこの子を育て続けたら、夢の中の母が懸念する通り、途中で流産してしまう可能性もあるだろう。そもそも障害者という前提を抜きにして、私はとっくに高齢出産にあたる年齢だから、流産のリスクは決して低くない。流産して子だけでなく、茉莉亜さんのように子宮を摘出しなければならないことになったら…。そんなこと考えたこともなかった。特に初期の流産なら何のリスクもなく、手早く処置してもらっておしまいなのかと思ってたから。初期であっても大量出血する場合があるし、身体にダメージが残ることがあるということに気づかされ、流産も恐ろしくなった。

 茉莉亜さんから妊娠中期での中絶の残酷さも教えられた。中期でなくとも中絶は酷なものだろうけど、胎児が大きくなればなるほど心身に負担が増すのはよく分かった。医師や母の言う通り、産めないなら一日でも早く堕胎すべきなんだろう。
 
 それに自分の身体を自分で支えるのも精いっぱいの自分が、これからどんどん大きくなるおなかを抱えて生きることはできるのだろうか。コルセットだって合わなくなるだろう。自分の命さえ自力で支えられないのに、私は子の命を子が自力で生きられるようになる二十二週以降まで守ることはできるだろうか…。
 
 こういうのってマタニティブルーっていうのかな。昨夜は誰がなんと言おうと産んでやると力がみなぎっていたのに、夢の中で母と会話し、早朝、田中さんと再会して話し、昼間、茉莉亜さんの話を聞いたら、産むことに迷いも出てきた。ちょっとした言葉で心の浮き沈みが激しい。ホルモンが変わったせいなんだろうけど。なんだっけ。妊娠検査薬の時に判定に使われる妊娠すると増えるホルモン。あぁ、「ヒト絨毛性ゴナドトロピン」っていうラスボスみたいな名前のホルモンだ。そのホルモンは胎児由来のホルモンだった気がする。つまり受胎して以来の私は、自分のホルモンや自分の細胞に左右されているというより、胎児が日々、生み出すホルモンや細胞に振り回されて生きている気がする。自分が別人になってしまった気がするのは、我が子にコントロールされているというか、身体を乗っ取られているからかもしれない。もはや私の曲がった身体は私のものではなく、子を生かすための生命装置でしかなく、我が子が掌握するものだった。
 
 考え過ぎたせいか、何だか息が苦しくなってきた。痰が絡むことによるいつもの息苦しさとは違う。これってもしや過呼吸ってやつ?身体的にではなく、精神的に呼吸がしづらくなった。私はただでさえ息苦しくなることが多いのに、過呼吸まで発症してしまったら本当に死んでしまう。いや、過呼吸で死ぬことはないと読んだことがあるけど。でも本当に苦しい。痰が絡んだ時の息苦しさと同じくらい。それ以上につらいかも。だって痰なら吸引機で吸引できるけど、過呼吸の原因になる不安や恐怖は吸引機ではどうにもならないから。ママ、苦しいよ。息ができないよ。助けて…。
 
 息苦しさばかりでなく、何ひとつままならないから、私には生きづらさもある。何をするにもいちいち作業効率や動線を考えて行動しなきゃいけないから、時間かかるし…。のらりくらり何も考えず適当にぐだぐだ生きていられる健常者が羨ましい。他者に頼らなきゃ生きられない障害者は心身共に常に神経を使って疲れる…。オムツ交換どころかベッドのシーツの交換さえ他人任せの私が、どうやってこの子を守れるというの…。
 
 パニック状態に陥った私は惨めな自分を嘆きつつ、四苦八苦して起き上がり、何とかリモコンで明かりをつけて、ゆっくり深呼吸をした。なんだか動悸もドクドク激しかった。数分で乱れた呼吸は落ち着きを取り戻した。こんな夜は明かりをつけたまま寝ようと思ったけれど、窓から射し込むやさしい月明りに気づいて、シーリングライトは消した。ラジオを聴きながら、寝落ちを試みた。またあの曲が流れていた。
 
《幼い頃に うえつけられた傷は 重く心にのしかかり 暗い狭い世界で 心ない世界で ゆりかごに似たやすらかな Final Song》
Rumania montevideo『Still for your love』

 
 浅い眠りだった気がするけど、たぶん睡眠はとれたと思う。朝、起きると何となく食欲がなくて、朝ごはんに用意されたサバのみそ煮やみそ汁には手がつけられなかった。あぁ、もしかしてこれって「つわり」かもしれないと思った。昨日までは何でも食べられたのに。なんか、出汁が使われている和食が特に苦手かもしれない。みそとかお出汁のめんつゆとか身体が受け付けなくなった気がした。

「釈華ちゃん、どこか具合悪いの?食欲ないみたいだけど…。」
心配そうに茉莉亜さんが私の顔を覗き込んだ。

『あまり食べたくなくて…。もし良かったら、明日から洋食中心のメニューにしてもらえませんか?わがまま言ってごめんなさい。コンビニのサンドイッチとか、わざわざ調理しなくていい、軽食で構わないから。』
さっぱりしたものなら食べられそうだったから、サンドイッチをリクエストした。

「分かったわ。洋食中心にするわね。昼食のトーストとかはいつも通りで大丈夫そう?」

『うん、たぶんトーストは大丈夫。でもグレープフルーツとそれから…フライドポテトもつけてください。できればマックのが食べたい。夜は梅干しのおにぎりとか酸っぱいものがいいな。』

「了解、グレープフルーツにフライドポテト、それから梅干しのおにぎりね。」

 フライドポテトはむせることが多いからあまり食べないようにしてるんだけど、なぜか無性にフライドポテトを食べたくなった。マックにはハッピーセットっていうお子さま向けのメニューがあるけど、妊婦向けのセットメニューも作ってくれたらいいのに。どうして100%ジュースはどこでもアップルとオレンジが主流なんだろう。グレープフルーツジュースは薬と相性が悪い場合があるから?ポテトとバーガーとグレープフルーツジュースをセットにした大人の女性向けハッピーセットも作ってほしい。
 
 つわりが始まったからと言って食欲がなくなったわけではなく、おなかは空くし、胎児のためにも食べたい気持ちはあった。食べられる物が限られただけで。和食と甘い物は食べる気がしなくなった。ブドウやリンゴもチョコのように甘だるく感じて、フルーツは柑橘系しか食べられなくなった。柑橘系の中でもやっぱりグレープフルーツが一番おいしかった。酸味だけでなく、苦味があるのが良かった。どうやら味覚が甘くなる妊婦がいるらしく、おそらく口の中が甘くなったせいで昔のグレープフルーツみたいに、砂糖をかけて食べている感覚になれたから、グレープフルーツがよりおいしく感じたのかもしれない。ジャガイモには葉酸がたくさん含まれているから、葉酸を摂取した方がいい妊婦にフライドポテトはうってつけらしく、胎児を育てるために身体がポテトを欲しているんだと思った。だからポテトサラダもなるべく食べるように心がけた。
 
 食べ物のつわりや眠気のつわりと奮闘しながら、心は毎日、出産と中絶の狭間でヤジロベエのように揺れ動いていた。早く主治医に打ち明け、相談しなきゃと考えていた頃、たまたま大学病院の定期通院日の予約が入っていたことを思い出した。
 
 「釈華さん、ごめん。明日、急に山之内さんのご家族と面談することになってしまって、大学病院に付き添えなくなったの。代わりに小湊さんにお願いしたいんだけど、いいかしら?」

 山下さんが申し訳なさそうに私に言った。通院日はいつも大学病院が古巣の山下さんに付き添ってもらっていたけれど、今回はむしろ元助産師の茉莉亜さんの方が心強い気がしたから、申し訳ないけど都合が良かった。明日には茉莉亜さんにだけは打ち明けるつもりだし。

『大丈夫ですよ。茉莉亜さんによろしくお伝えください。』
 
 我が子と二人で戦場にでも向かうような気持ちで翌朝、目覚めた。私たちだけの秘密の戦いがもう八週も前から幕を開けていたのだ。

「おはよう。今日もよろしくね。」

 最近はなぜか早朝五時に目覚めるようになっていた。その時間になるとおなが張ったから、我が子に起こされている感覚もした。五時に目覚めるからと言って、何をするわけでもなかった。ベッドに横になったまま、まだ胎動なんて感じるわけないけど、我が子に話しかけ、おなかの子の命をどうにか感じようとしていた。電子書籍の絵本を読んだりしながら。
 
 妊娠が発覚して以来、七時になるとお決まりのラジオ音楽番組を聴くため、ラジコをかけるのが日課になっていた。

「おはようございます。本日はBUMP OF CHICKEN特集です。まずはこの曲からどうぞ。」
 
《ハロー ここにいるよ 生まれた時から ここまでずっと 同じ命を削り 火に焚べながら生きてきた 瞼の裏の 誰も知らない 銀河に浮かぶ すごく小さな窓の中から 世界を見て生きてきた ここにいるよ》
 
 身ごもってから読んだ本の中で、卵子は女性が母親の胎内に宿った直後から作られる原始卵胞の中で生まれると知り、卵子の数のピークは生まれる前の胎児の頃ということも知った。つまり今、私の胎内にいる子は私が胎児だった頃からずっと共にに生きてきた卵子が元になって存在する命だから、この子とはこの曲の歌詞の通り、同じ命を削って生きてきたんだと思えた。何も八週間前という最近出会ったわけではなく、我が子と私は生まれた時からずっと一緒で、とっくに出会えていた気がした。私がミオチュブラー・ミオパチーと診断され、絶望した時も、それ以来、いろんなことを諦めて、健常者を羨んで、醜い心で汚らわしいことを考えていた時も、一緒に生きていたことに気づけたから、戦友のような気もしたし、この子には何も隠せないと思った。隠しようがなかった。私の泥の中で密かに息づいていた輝かしい命には。絶望しながらも私が生き続けて来られたのは、この子という希望の光が泥の下から光を放ち、私の命を照らし続けてくれていたからかもしれない。私が生まれた理由はこの子と会うためだと思えたし、私が生きている理由もこの子のためだと思った。
 
「『窓の中から』をお送りしました。続きまして『コロニー』と『ゼロ』、二曲続けてどうぞ。」
 
《聴こえた命の音は よく似ているけど違っていて 雨に変わり何度も肌を叩いた…見つけた事 失くした事 心が作った街で起こった事 こんなに今生きてるのに 嘘みたい 掌で教えて…消えそうで消えない生き物 ありがとう あなたは光 それだけが続ける理由》
 
《終わりまであなたといたい それ以外確かな思いが無い ここでしか息が出来ない 何と引き換えても 守り抜かなきゃ 架かる虹の麓にいこう いつかきっと 他に誰も いない場所へ…命まで届く正義の雨 飛べない生き物 泥濘の上 一本道の途中で 見つけた自由だ 離さないで どこまでも 連れていくよ》
 
 不完全な私の中に宿ってくれたまだ儚い命は私の胎内でしか生きられない。私が育むことを放棄して、追い出してしまったらその命は誰も助けることができない。私にしか守れない命だった。自分の命ではないからこそ、より重みがあるし、守らなきゃと思えた。泥のぬかるみにどっぷりつかりながら、不自由に生きていた私に自由を与えてくれたのはこの子の気がした。ぬかるみの中にいるとしても、自分の人生、これからの未来は自分で選べること、自分で選ばなきゃいけないことを我が子から教わった。泥の中にいるから何もできないと卑屈になっていた私に、虹の麓まで届きそうな飛べる羽を授けてくれたのも我が子だった。知らなかった母性、子を愛する心、命と出会える感動、命の尊さ、たくましさ、儚さ、希望、絶望、幸福感、憤り、悔しさ、情けなさ…すべての感情を私に与えてくれたのは、まだ会ったことも触れたこともない子宮の中にいる命だった。
 
「最後に新曲をお送りします。『Sleep Walking Orchestra』です。」
 
《どうして体は生きたがるの 心に何を求めているの 肺が吸い込んだ 続きの世界 何度でも吐いた 命の証 さあ今 鍵が廻る音 探し物が囁くよ 赤い血が巡る その全てで 見えない糸を手繰り寄せて…誰が消えても星は廻る 明日が今を過去にしていく 残酷なまでに完璧な世界 どこかでまた躓いた蟻 未だ響く心臓のドラム それしかないと導くよ 疑いながら その全てで 信じた足が運んでくれる》
 
 私が毎日のように吸引している痰は私が生きている証で、胎内で必死に生きている子は私の命の証だった。不完全だとしても、たしかに赤い血が巡る私の身体は、胎児に血液を送り続け、胎児からは母性や知らなかった感情を与え続けられて私は今、生きている。私の心臓は今、我が子の命を守るために鼓動を刻み続けている。命に執着なんてなかった私が残酷なこの世界で生きたいと思えるようになったのは、生命力の塊みたいなこの子が、私に生きる力を与え、導いてくれているからだろう。
 
 今の自分が必要とするような曲ばかり耳にして、つい熱くなった私は、下腹部に違和感を覚えた。生理が始まったような血が流れる感覚…。
 念のためナプキンと新しいショーツを持って、慌ててトイレに向かうと本当に茶色い出血があった。

「もしかして…これって、流産…?」

 赤ちゃんが流れてしまったかもしれない。あんなに大事だと思えた命が消えてしまったかもしれない。不安に駆られながら、ショーツを替え、ナプキンをつけた。
 
 「あいにくの雨ね。でも雪よりはマシかな。暖冬のおかげでこの冬は雪がほんと少ないよね。もし寒かったら、今日あたりは大雪だったわね。」
福祉車両に私を乗せ、冷たい雨降りの中、大学病院へ向かって運転し始めた茉莉亜さんが呟いた。

「そうですね…。」

 正直、空模様のことなんて考えている余裕はなかった。私は出血が気になって仕方なかった。そのことをなかなか彼女に打ち明けられないまま、絶え間なく車窓に流れる雫の波をぼんやり横目で追っていた。
 
 病院へ到着すると、いつものようにひとりで診察室へ入り、主治医に告げた。

『先生…私、妊娠しているんです。それで、今朝から出血していて、流産しているじゃないかと心配で…早く診てください。』
長年私の身体を見続けている主治医は、うつむく私が入力した言葉に目を疑っていた。

「釈華さん、何かの冗談ですか?」

「冗談ではありません。本当なんです。」
私は声を振り絞って、真顔で伝え直した。

「二週間前に産婦人科でもらったエコー写真もあります。」

 エコー写真を主治医に見せると、急に慌て出してこう言った。
「まず本当に妊娠しているのかどうか、院内の産婦人科で早急に確認してもらいましょう。」

 すぐに大学病院内の産婦人科に回され、そこで例のごとく開脚する検査台の上に乗り、産婦人科医に超音波で診てもらった。

「たしかに出血はありますが…流産はしていませんよ。赤ちゃんは無事です。ほら、心拍も元気に動いてますよ。妊娠すると不正出血が起きる人がいるんですよ。」

 中絶することになるかもしれないのに、流産していなくて良かったと安堵する自分がいることに驚いた。我が子が生きていて良かったと。二度目に見た心拍は前と変わらず、力強く命を刻み続けていた。そして八週目になった胎児は1センチ以上に成長していた。二週間前はまだたった二ミリの命だったというのに。その成長ぶりに感動してしまった。
 
 産婦人科医はエコー写真と妊娠証明を私に持たせて主治医の元へ戻した。

「うーん…。まさか本当に妊娠しているとはね。釈華さん、お相手にはちゃんと伝えたの?」

『先生…あの…信じられないかもしれないんですが、私、性交した覚えはないのに妊娠したんです。精子だけは体内に取り込みましたが…。』

「性交に準ずることをしたのであれば、そういうお相手がいるなら、彼が釈華さんの同意なく知らないうちに妊娠に至る行為をしたとしか考えられませんね。とにかくそのお相手は何と言ってますか?」

『自分は関係ないと…。私も彼に責任はないと思っています。』

「そうですか…。お相手や経緯はともかく、釈華さんはどうしたいですか?二週間も前に分かったことなら、今日までいろいろ考えたと思いますが。」

『最初に診てもらった産婦人科の先生から、もし産みたいなら産める可能性もあるのではないかと言われて、産みたい願望が強まりました。それまでは妊娠したとしても中絶するしかないと諦めていたんですが、希望が芽生えてしまって…。でもその先生は主治医次第と言ってました。』

「なるほど…そうですか…。赤ちゃんの心拍を見せられて、エコー写真ももらって、産める可能性もあると言われたら、それは産みたくなりますよね。でも釈華さん、主治医としては出産をお勧めできません。私はあなたのご両親がご健在の頃から、あなたの命を守ってほしいとお願いされていますし、患者の命を守ることが使命の医師としても、釈華さんの身体面を一番に考慮して判断しなければならないんです。このまま妊娠を続けるのはリスクがあり過ぎます。妊娠を続けられたとしても、おそらく流産してしまう可能性が高いです。そうなると身体へのダメージも大きくなります。流産する前に、少しでも安定しているうちに、中絶手術をすべきだと私は考えます。」
私の身体を私以上によく知っている主治医はやはり夢を見させてはくれなかった。

『でも先生、産婦人科の先生は胎児の命を子宮外で守れるようになる二十二週まで母胎で育てられたら、帝王切開ですぐに産んで、保育器で育てることが可能かもしれないと言ってました。私の身体、妊娠二十二週まででいいから、もちませんか?その前に死んでしまいますか?』

「この子に会いたいんです…。命に触れたいんです。」
私はアイフォンに入力した後、声に出して切実な思いを訴えた。

「釈華さんの気持ちは十分、分かりますが、二十二週まで身体が持ちこたえられると主治医としては断言できません。酷な話になりますが、私は二人の命を同時に失くしたくない。助けられる命は助けたいんです。二人とも救えたら何よりですが、医療現場ではどうしても救えない命もあります。特に、釈華さんはすでに生まれた命だから、なるべく長く生かしてあげたい。釈華さんは勉強熱心だから知っているだろうけど、まだ生まれていない胎児の場合、日本においては二十一週六日までは母体を守るためなら堕胎してもいいという法律もあります。つまり生まれた命とまだ生まれていない胎児の命を比べると、前者を優先したくなるのが医療に携わる人間のさがです。」

『先生はすでに、この子の命と私の命をトリアージしたんですね…。』

「…そう思われても仕方ないですね。私は今なら釈華さんの命を守れるから。なので産みたいという気持ちは申し訳ないけど、諦めてほしい。」

『この子の命を犠牲にしてでも、先生は私の命を守りたいんですね…。』

「本当に申し訳ない。いろんなことを諦めながらも、がんばって生きている釈華さんの唯一の望みさえ叶えてあげられなくて。あなたがこんなに私に反論というか、わがままを言ってくれることなんて、めったにないことなのに…。」
いつもは冷静な主治医が私を思いやってくれたことはうれしくて、私は希望を封印して、いつもの物分かりのいい釈華に戻るしかなかった。

「わかりました、先生。私、この子を産むことは諦めます。本当は…自分の命よりこの子の命の方が大事と思えてしまうけど、こんな身体だから仕方ないですよね。ちょっと夢見てしまいました。とても良い夢でした。」
涙目でしゃべる私を見ながら、主治医は悔しそうな表情をして「すまない」と頭を下げ続けてくれた。主治医の思いに打ちのめされた私は、折れるしかなかった。
 
 主治医はこのまま入院して明日にでも手術を受けたらどうかと提案してくれたけれど、「この子の命に猶予期間をください。」と一週間ほど時間をもらうことにした。必要な血液検査を受けた後、一週間後に大学病院の産婦人科で中絶手術を受ける予約をとり、診察室から出た。さっき産婦人科でもらった八週目の我が子のエコー写真と、中絶同意書を抱えて…。
 
 「付き添いなのに、ほとんど何もしてあげられなくてごめんね。産婦人科も受診したみたいだけど、大丈夫だった?」
待合室にいた茉莉亜さんが私の元へ駆け寄ってきた。私の方がひとりで大丈夫と言い張り、彼女を待機させていた。
「待たせてしまって、ごめんなさい。」

 彼女と一緒に院内から外に出るとあの時と同じように虹が見えた。

「釈華ちゃん、虹!雨上がって良かったね。」

 今回の虹色は太陽の反対方向の空に出ていたから、紛れもなく本物の虹だった。例年ならまだ寒いはずのこの時期、空から降るものは雨ではなく、雪の場合が多いから、もし雪なら虹は架からない。暖冬のおかげで雨だったからこうしておなかの子と一緒に虹を見ることができた。希望も夢も破れて絶望のどん底なのに、どうして空はこんなにきれいなんだろうとまた涙が溢れた。私の赤ちゃん、どうにかして産んで、きれいな景色をたくさん見せてあげたい、この世界で生きてほしいって心から願っていたけれど、それは叶えられない無謀な夢だったみたい。だから、見せてあげられなくて、生かしてあげられなくてごめんね…。そんなことを思いながら、早くも消えそうな儚い虹をみつめていた。何かを察した様子の彼女は私に多くは話しかけず、黙って車に乗せてくれた。
 
《そばにいてずっと君の笑顔を見つめていたい 移り行く瞬間をその瞳に住んでいたい どこまでも穏やかな色彩に彩られた 一つの風景画の中 寄り添うように時を止めて欲しい永遠に》 L'Arc-en-Ciel『瞳の住人』

  運転し始めても遠慮しているのか何も尋ねようとしない彼女に向かって、私の方から重い口を開いた。

「帰ったら、茉莉亜さんにだけ話したいことがあるの。私の部屋に来てもらえますか?」

「うん、分かった。私もずっと気になっていたことがあって、釈華ちゃんとゆっくり話したかったの。」
 
 イングルサイドに戻り、部屋で休んでいると、茉莉亜さんは手作りのハッシュドポテトとしぼりたてのグレープフルーツジュースを持って来てくれた。

「マックのフライドポテトもいいけど、たまには手作りハッシュドポテトもいいかと思って。私はピンクグレープフルーツの方が好きだから、しぼってみたんだけど、どうかな。」

「私も…ピンクグレープフルーツの方が好きだから、うれしい。」
妊娠前はそうだったけど、今は普通の黄色くて酸味の強いグレープフルーツの方が好きになっていた。けれど彼女の好意がうれしかったから、本音は黙っていた。

「話って…?」
一口フレッシュなジュースを飲むと意を決して彼女に白状した。

「私…妊娠してるの…。」
彼女は私の言葉にさほど驚く様子もなく、
「やっぱりそうなんだ。相手は…例の彼?」
と尋ねてきた。

「驚かないの…?」
「うん何となく、そんな気がしてたから。元助産師の勘というか…。食べ物の好みが変わったのもそうだし、産婦人科の受診も気になってたし。ただの生理不順じゃない気がしてたの。それに産婦人科に行って以来、釈華ちゃんから母性が垣間見れるようになったし。助産師の頃、よく見ていた母親になった彼女たちの表情と似ていたから…。だからあの時もあえて釈華ちゃんに自分の過去の話をしたのよ。もしそうなら伝えた方が役に立てるかもしれないと思ったから。」

「そっか…茉莉亜さんにはもうお見通しだったんだね。それなら話しやすいよ。」
隠し通せていると信じていた自分が馬鹿だったと思えたし、とっくに知られていたなら、何でも腹を割って話せると思った。

『でも、これは信じられないと思うんだけど…。私、誰とも性交してなくて、処女受胎なの。』
私が入力したアイフォンを見るなり、彼女はさすがに驚いた様子を見せた。

「処女受胎…?聖母マリアのような?どういうこと?」

『茉莉亜さんには知られているから、隠さないけど、おなかの子の父親はあなたが推測する通り、元ヘルパーの彼、田中さんだと私も思ってるの。でも田中さんにしたのはフェラチオだけで、つまり口からしか彼の精子は取り込んでないの。彼とは性交できてないの。最初に受診した産婦人科でも処女膜は残っていると言われたし…。』

「うーん…。産婦人科に勤めていた時も、処女で妊娠なんてもちろん聞いたことないし、にわかには信じ難い話だけど、命が生まれるって奇跡の連続だから、そういうこともあるのかもしれないわね。精子と卵子が出会えるのも、受精するのも、着床するのも、子宮内で命が順調に育まれることも、無事に生まれられることも、生まれてこうして生きていられるのも全部、天文学的確率の奇跡だもの。だから命が生まれる時、何か常識や理屈では片づけられない神秘的な現象が起きても不思議じゃないのかも。」
ひとまず彼女が処女受胎のことも受け止めてくれたことに、ほっと胸をなでおろした。

『実は…健康な女性、健常者に憧れがあって、彼女たちが当たり前にできていることを私もしてみたかっただけなの。性交して、妊娠して、中絶するって過程を経験したいとずっと思っていて。つまり妊娠願望と中絶願望があったの。私の身体じゃ出産は無理って分かってたから、せめて中絶してみたいって。母性なんて少しもなかったから、産みたいとも思えなかったし。ネットで呟いていた私の妄想が田中さんにバレてしまって…私の方から彼にお願いしたの。でも、彼は妊娠に至る行為まではしてくれなかった。私の身体が途中で悲鳴を上げてしまったから。』

「そうだったの…。命を授かってみたいと思う女性は多いものね。たとえ育てられないとしても、本能的に産みたいと思うものよ。産める期間も限られているし、若いうちはそうでもなかったのに、急に妊娠願望が芽生えて三十代後半から不妊治療を始める女性も少なくないもの。閉経が近づくと焦り出す女性も。」

『私…想像力が足りなかったって今さら後悔してるの。まさかこの不自由な身体の自分が産みたくなるなんて考えたこともなかった。妊娠も中絶もなめてたの。心のどこかで自分はそもそも妊娠なんてできっこないから、出産や中絶なんて他人事だって…。けど、命を孕んだら、産みたくなる、または産ませようとする母性が芽生えることに気づいたの。命の重みを身をもって知ったら、妊娠中絶願望は浅はかな欲望だったって。でもなぜか懐妊できたこと自体に後悔はなくて。妊娠できたこと、この子の命を感じられたことだけは絶対否定したくない。』

「そっか…。産みたくなってるんだ。仕方ないよ、釈華ちゃんはもうおなかの子の母親なんだから。我が子の命を守りたいと思うのは生き物として当然のことよ。妊娠してみないと気づけないことも多いの。だからいろんな事情で中絶を考えなきゃいけない人は葛藤するのよね。妊娠前から母性がある女性なら、いろんな準備や覚悟もできてるけど、妊娠してから母性が芽生えると悩むことになって、たいへんなのよね。主治医の先生には相談したんだよね?先生は何て言ってたの?」

『我が子の命も守れそうにないんだから、胸を張ってこの子の母親なんて言えないし、母親失格だけどね。先生は…私の身体のことを考えると、出産は無謀だから、早く中絶手術を受けるようにって。やっぱり主治医だから、この子の命より、私の命を優先するみたい。頭では理解できるんだけど、本当に諦めるしかないのかなって。中絶が後ろめたいというより、この子の心拍を止めてしまうことが本当につらいの。言われるまま、一週間後に手術の予約を入れてしまったけど、でもまだ割り切れてないの。』

「そうなんだ。やっぱり主治医はそう言うよね。あなたの命の方が大事って言われても、割り切れないよね。中絶手術の予約入れても、当日キャンセルする人もいたもの。最初は卵子と精子っていうたった二つの細胞だったのが、どんどん細胞分裂を繰り返して、生まれる頃には三兆個になって、大人になってピークを迎えると六十兆個にもなるの。それを考えると私たちってひとつの命というより、細胞ひとつひとつの命の集合体というか、小さな細胞たちに身体や脳を支配されている気がするのよね。だから私は授かった時、自分の意志で産みたいと思うというより、胎児の細胞が産ませようとしている気がしたわ。胎児が母体に与えるホルモンとかの影響を受けて、自分の身体が操られている気もしたの。それは別に嫌ではなくて、幸せと思える体験だった。つまり赤ちゃんが生まれたくて、母親の脳に働きかけているかもしれないから、迷う人もいるのかなと思うの。」

『その感覚、すごく分かる。私、妊娠して以来、自分が自分でなくなってしまった気がして…。思考とかいちいち子どものことを考えてしまって、自分が気持ち悪いと思ったり、前は空気読んで何でも我慢できて物分かりが良かった方なのに、おなかの子のためと思うとわがままになって、自分の気持ちを抑えられなくなったり…。でもそれは自分のせいというより、この子がくれるホルモンや母性のおかげだと気づいたら、そういう気持ちも手放せなくて…。』

「赤ちゃんがくれるホルモンや愛が起因だとしても、最後には母親が産むか産まないか必ずどちらかを決めなきゃいけないのよね。産めないからってまさかずっと子宮に命を留めておくことはできないから…。私、思うんだけど、赤ちゃんはみんなもちろん生まれたい、お母さんに会いたいと思って来てくれるんだろうけど、中には生まれることを最初から諦めていてそれでも子宮に宿ってくれる子もいる気がするの。母親が生きる上で足りない何かを与えるために、母親の生きづらさを解消するためにね…。だから途中で心拍を止められることになったとしても、母親を恨んだり呪ったりはしないと思う。むしろわずかな期間でも命を育んでくれてありがとうって言ってくれると思うの。都合の良い理由付けかもしれないけど、どんな母子の絆も永遠だと信じたいから…。生まれられても、会えなくても、命と命を感じ合えるのは母子だけだから、お互い無条件で愛してしまうのよ、きっと。」

『私は…妊娠や中絶を安易に考えていて、命を軽視していたの。中絶なんて少しも悩まず、例えばガン細胞でも摘出するみたいにさくっと済ませることができるって…。母性を知らなかったから。だからこの子は私に母性を与えて、命の重みを教えてくれたんだと思う。茉莉亜さんが言うように、この子はそのために来てくれたのかな…。私に欠けていたやさしい気持ちとか愛する気持ちを与えるために。私の中にもこんなに温かい感情があったなんて驚くほどで…。』

「本当は宿る命に理由なんてないのかもしれないけど、必要なら理由付けはあっていいと思ってるの。その人が生きやすくなるなら、死なずに済むなら、いくらでも理由はあっていいと。釈華ちゃんに必要な気持ちを与えるために、その子は来てくれたのよ。その気持ちを与えられたから、その子はもう自分の使命は果たせたと納得しているかもしれないわね。だから…思いつめないで、自分を恨んだりしないでね。我が子の存在を生かす方法ならいくらでもあるんだから。子宮をなくした私はもう二度と命を育めないけど、亡くした子たちのことは心の中で感じて生かせているつもりよ。」

『私が妊娠を軽く考えていたように、この子も…私の子だから、ほぼほぼ生まれられないと分かっていて、まぐれで生まれられたらラッキーくらいに思って来てくれたのかな。だから手放されることになったとしても、私のことを憎まないかな。茉莉亜さんみたいに私も子宮ではなくて心の中でこの子を忘れず、育み続けることができるかな。一度も会えなくても、死ぬまで一緒に生きられるのかな…。』

「憎むわけないよ。きっとずっと釈華ちゃんのことを愛し続けて、見守ってくれるわよ。お母さんのことを心から嫌う子はいないから。釈華ちゃんだって、亡くなったお母さんのことはどうしたって愛してしまうでしょ?会えなくなっても愛してるでしょ?手術までの一週間の間に、悔いのないようにその子のためにしてあげられることはたくさんあると思うわ。何でも協力するから、遠慮なく言ってね。私が経験した流産と釈華ちゃんが悩んでいる中絶は似ているようで違うから、すべて分かったようなことは言えないけど、どちらも経験してない人よりは分かってるつもりだから。」

 ママ…こんな時、茉莉亜さんがいてくれて良かったって思ったよ。そうだね。私は何だかんだママのことを憎めないし愛しているから、この子もきっと同じ気持ちだね。お別れすることになるとしても。何をしてあげられるかな。そうだ…まずは名前を考えよう。
 
 TL小説とかいろいろ書いているから、名前を考える癖はあった。使えそうと思った名前はその都度メモしていた。「心」は「み、と」と読ませることができることも知っていた。愛心(あゆ)、心結(みゆ)、颯心(はやと)…。それから「音」がつく名前も好きだった。瞬音(しゅんと)、香音(かのん)、心音(ここね)…。物書きを始めた頃、最初に思いついた名前は「美琴(みこと)」だった。それが命という意味をもつことを知ったのは後になってからだったけど。ミサトも好きな名前だけど、すでに物語の中で使った名前はキャラクターのイメージが強すぎるから、我が子には使いたくないと思ったし、どれもしっくりしなかった。そもそもまだ性別も分からない。男の子にも女の子にも使えそうな名前を考えようと思った。

 この子は…私に愛や母性、いろんな感情を与えてくれた。私に知らなかった心を与えてくれた。だから「与」という漢字は使いたいと思った。その漢字を人名に使いたいと思ったのは初めてだった。「幸与(ゆきと)」、「心与(みと)」、「与愛(とあ)」…。「とあ」という名前ならジェンダーレスな気がした。愛を与えてくれたこの子にぴったりなのではないかと。でもちょっとキラキラネーム過ぎる気もするから、「与和(とわ)」の方がいいかな。和みも与えてくれたし…。「井沢与愛」、「井沢与和」。永遠に生きてほしいという願いも込めて、やっぱり「とわ」がいいかな。でも「和」はちょっと古風なんだよね。私にひと時、希望という名の羽も与えてくれたから、与羽(とわ)が良いかも。この子の名前は「井沢与羽」に決定。私の元から離れて、魂だけになったら自由にどこでも羽ばたいてほしいし…。悲しいけれど、一週間後には天使になることが定められているこの子にふさわしい名前かもしれないと思った。私は与羽から希望の羽をもらったから、お返しにママもあなたに羽を与えるね。
 
 名前が決まるとますます話しかけやすくなった。「与羽、おやすみ」、「おはよう、与羽」、「与羽は何が食べたい?」…。心の中で、時には声に出して話しかけてしまっていた。そんなことをしても、お別れすることは決まっているんだから、虚しいだけなのに。つらくなるだけなのに…。でも手放さなきゃならない命だからこそ、私の胎内にいてくれるうちは、特に話しかけて大事にしたいと思った。ひとりぼっちだった私が、愛する子とたしかに二人で生きた時間があった証を残したかったのかもしれない。話しかければそれが思い出になる気がして、やめられなかった。私は自分の母性を止めることはとっくに諦め、暴走する母性に従って生きていた。
 
 手術の前日には病院に入院することになっていたため、残された時間はあまりなかった。健常者なら、妊娠初期の中絶手術は日帰りが普通らしいけれど、重度身体障害者の私の場合は念のため、手術の前後は入院するように主治医から促されていた。猶予期間のうちに与羽にはなるべくたくさんの場所に連れて行ってあげたいと思った。見せてあげられなかったこの世界を見せてあげたかった。まだ見えるわけないし、聞こえるわけもないけど、母体を通して、与羽の命に私が生きる世界を感じさせてあげたいと思った。
 
 茉莉亜さんに付き添ってもらって、イングルサイド近くの公園を散策したり、少し足を伸ばして書店に行ったりした。与羽も含めて三人で。私のリクエストでめったに行かない大型ショッピングセンターへも足を運び、ベビー用品やおもちゃを見たりもした。

「ベビー用品売り場なんて、つらくならない?大丈夫?」
茉莉亜さんは私を気遣って、心配そうな顔をした。

「大丈夫。一度は来てみたかったところだから。」
買う気なら、アマゾンでいくらでも買えた。けれど私は実物がたくさん陳列されているその空間を味わってみたかったし、その中から与羽に何かプレゼントを選びたかったのだ。

「この水色の靴下にしようかな。」
私が自分の足で自由に歩けたのは人生の中でそう長くはなかった。今もがんばれば歩けるけれど、自由に歩けている感覚とは違う。体力が衰えないように、無理して歩いているだけで。だから、与羽には自分の足でいつまでも自由に歩いてほしいと思った。どこまでも好きなところへ行けるように。

「ベビー用品って何でも小さくてかわいいよね。」

「ちょっと早過ぎるけど…靴も買おうかな。」
羽と靴下と靴があれば、きっとどこへでも行ける。母親の私がいなくてもひとりできっと…。
 
 『ベビー用品売り場に付き合ってくれてありがとう。私より、茉莉亜さんの方がつらかったよね。思い出させてごめんね…。』
与羽へのプレゼントを買い終えた私は彼女に感謝と謝罪を伝えた。過酷な中絶現場と流産を経験していた彼女に申し訳ないことをしたと思ったから。

「気にしなくていいよ。実は私もたまにひとりでブラブラ見て歩いてるくらいだから。どうしてもベビー用品、気になっちゃうんだよね。だから楽しかったし。明日は、どこへ行きたい?」
二人で行きたい場所、与羽に見せたい場所は全部行けたと思ったけれど、どこか忘れている気もして、少し考えた。

「…古本屋。古本屋に行ってみたい。」
潔癖症の私は図書館や古本屋なんて興味ないはずなのに、妙に行きたい気持ちに襲われた。

「古本屋?釈華ちゃんって古い本とか苦手じゃなかった?」

「うん、でも…なるべく広い古本屋に行きたい。」
私というより、与羽が会いたがっているのかもしれない。どこかの古本屋で働いている父親かもしれない田中さんに。
 
 翌日から茉莉亜さんに広めの古本屋へ連れて行ってもらい、本ではなく田中さんを探した。
「何か本でも探しているの?絵本を買ってあげたいとか?」

「うん…そういうわけじゃないんだけどね。」
私は古本屋に行く度に、そこで働く人の姿を追った。
 
 入院する前日…。明日からは安静にしてなきゃいけないから、その日が田中さんをみつける最後のチャンスだった。イングルサイドから六キロほど離れた場所にある大きな古本屋に車椅子で足を踏み入れると、棚整理をする見覚えのある背中が遠くに見えた。やっとみつけた。田中さんが働いている古本屋を。もちろん話しかけたり、野暮なことをするつもりはなかった。ただ、与羽に父親の姿をひと目見せてあげたかっただけだから。棚と棚の間のスペースが広いおかげで、通行は車椅子でも問題なかった。私はまだ全然目立たないおなかをさすりながら、働く田中さんの背中を目に焼き付け、彼がいる場所とは反対側の絵本コーナーへ向かった。

「なんだ、やっぱり絵本を探していたのね。」

「うん…。ここで絵本を買いたくなったから。」
田中さんも触れたかもしれない絵本を与羽に買って読んであげたくなった。私の声ではうまく読み聞かせはできないだろうけど。

「これにしようかな。」
ぱっと目についた一冊の絵本を選んだ。人気がある本なのか、定価とほぼ変わらない値札シールが張られていた。

『もうじきたべられるぼく』
赤ちゃん向けではないけど、文字数が少なくて読みやすく、やさしいタッチのイラストに惹かれた。しかも内容は離れ離れになる母子の話だったから…。
 
 その後、田中さんがさっきまで整理していたコミックコーナーにも向かった。彼がいなくなっていることを確認した後、彼の手の温もりが残っている気がした漫画を手に取った。普段は漫画をめったに読まないけれど、なぜかそれは読んでみたくなった。『約束のネバーランド』という少年漫画をとりあえず五巻まで、絵本と一緒に購入した。
 
 古本屋の隣には小さな花屋さんがあった。絵本と漫画を買った後、その花屋にも立ち寄ってみた。店内には狭くて車椅子では入れないため、杖と茉莉亜さんに支えてもらいながら、自力で歩いて見て回った。狭いはずなのに、自分の足で歩くとそこは広い空間に思えた。そしてひとつの鉢植えの花を選んだ。

「レウィシアは多年草で葉は多肉質だから、花が咲き終わってからも、上手く育てれば毎年花をつけますよ。暑さと湿気に弱いので、乾燥した暑すぎない室内で育てるのがコツです。」
店主からそう説明を受け、与羽代わりにずっと大事に育てようと決心した。
 
 「かわいい花よね。小ぶりな花だけど花数が多くて見応えあるし。」
茉莉亜さんもレウィシアを気に入ってくれた。

「うん、ピンク色の小さな花に一目惚れして…。」

「レウィシアは和名で岩花火っていうらしいわよ。たしかに花火にも見えるわね。」
スマホでレウィシアのことを調べていた茉莉亜さんが教えてくれた。
 
 「ぼくはうしだから もうじきたべられるのだそうだ 最後にひと目だけ おかあさんに会いに行くことにした…」
イングルサイドへ帰ると、部屋の出窓にレウィシアの鉢を置いてもらい、買った絵本を与羽に読み聞かせた。文字数が少ない本とは言え、発声が苦手な私が読み聞かせるのはやはり簡単なことではなかった。他の分厚い本と比べたら、薄くて軽い方だから何とか手に持ってはいられたけれど。
 
 それから『約束のネバーランド』も読んでみた。鬼の食用として飼育されている子どもたちがやさしい「ママ」の管理下にあるハウスから脱走を試みる話だった。絵本の牛も、食用として育てられた漫画の中の人間も、食べられてしまう運命だからたしかに不憫だけど、食べられたら捕食者の細胞の栄養となり、捕食者が生きている限り、その中で命の欠片は生きていられる気がした。何もできないうちに、ただ死んでいくよりは、捕食され、何者かの細胞の一部になった方がマシかもしれないと思った。私のように中絶して、この子の命をただ放棄するよりは…。与羽はきっと、私の胎内から引きずり出されたら、ただ死に行き、ゴミと同じように然るべき処理をされ、捨てられてしまう。何のために宿った命だろうと思う。この子は死ぬために宿ったようなものだ。そんなのあまりにもむごい。何もできないまま、焼却処分されてしまうくらいなら、いっそ私は自分のおなかを引き裂いて、自分でこの子を食べてしまおうか。人間が牛を食べるように。鬼が人間を食べるように…。私が自分の子宮に宿った命を食べれば、またその命を自分の細胞の一部として取り込める気がした。そうして私が生きている限り、この子の命を生かしたいと思った。そんなおぞましい妄想を考えてしまう私は正気じゃないのかもしれないけれど、自分でおなかを切り裂く勇気はなかった。実際に、親が我が子を殺して食べてしまう生き物も自然界では珍しくはないけれど、私の母性はそこまで獣化してはいないらしかった。
 妊娠中に読むべき絵本や漫画ではなかったかもしれない…。普段なら想像もできないことを思いついてしまう自分が怖かった。
 
 古本なんていつもならこんなに触っていられないのに、田中さんが触れたかもしれない本だと思うと、触れることは嫌ではなかった。田中さんに恋愛感情があるわけでもないのに、ストーカーみたいに田中さんの職場を探し当ててしまうなんて、気持ち悪い人間になってしまったと自嘲もしていた。でも恋愛感情は抜きにして、与羽の父親だと思うと気になって仕方なかった。推しが田中さんになってしまった私は、力の弱い自分のような障害者にやさしくない紙の本を憎んでいたはずなのに、彼が触れたかもしれない紙の本たちを読み耽り、それを心の拠り所にさえし始めていた。
 
 与羽とイングルサイドで過ごす最後の日。中絶手術の同意書にサインと押印した私は、大学病院へ向かう前、田中さんにラインすることにした。

『明日、中絶手術を受けます。おなかの子は与羽(とわ)と名付けました。』

少し経つと既読になったので、どうやらブロックはされていなかったらしい。けれどもちろん何も返信はなかった。
 
 最後に与羽と一緒にグリーンゲイブルズの庭を歩き、澄んだ空気が子宮まで届くように思いきり吸い込んだ。次にここに戻ってくる時は、またひとりぼっちになっていて、もう与羽はいないのかと思うと涙が溢れた。

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