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SFに息吹を吹き込む新たな古典の誕生 『三体』

本稿は光文社のサイト「本がすき。」に8月8日に寄稿したレビューです。編集部のご厚意でnoteにも転載しています。

話題の中国発の大作は、評判に違わぬ一気読みのエンターテインメント性をそなえた第一級のSFだ。多くの識者が指摘しているように、スケールの大きさとグイグイと引き込むストーリー展開は巨匠アーサー・C・クラークの古典「幼年期の終わり」を想起させる。

『三体』早川書房
劉慈欣/著 立透耶/監修 大森望、光吉さくら、ワンチャイ/翻訳

ネタバレを避けるため内容に踏み込むのは控え、ここでは本作の魅力がどこから生まれているのかを探ってみたい。そこには、コンテンツが多様化する現代にあって、小説という表現手段が生き残っていくヒントがあると考えるからだ。

異星文明とのファーストコンタクトというテーマ自体は、先に挙げた「幼年期の終わり」を筆頭にSFでは定番と言って良いテーマだろう。
定番には、「書きつくされている」というハンディと、「万人に受ける王道」というメリットの両面がある。無論、「三体」は後者の恩恵で世界的なベストセラーとなっているわけだが、それを成し遂げた原動力は、私の目には「精緻さと強引さ」のバランスにあると映る。

まず精緻さ。この400ページを超える大作は、文化大革命を起点とする「過去」と21世紀を舞台とする「現代」、そして劇中劇の趣がある「三体」というバーチャル空間が有機的に絡み合う、一点の緩みもない構成を持っている。SF的要素と人間ドラマの両面で何本もの伏線が張られ、後半はそれが一気に回収されていくミステリーとしての興奮度が極めて高い。

強引さという面については、それこそネタバレになるので詳述できないが、ハードSFにありがちな科学的な整合性や世界観の作りこみへの固執に偏らず、「こんなのアリなのか」と度肝を抜かれるうちに世界に引きずり込んでしまう筆者の剛腕が光る。そんな離れ業ができるのは、情景や人物描写にリアリティがあってこそ、だ。

一人の書き手として読後に抱いたのは、「小説とはここまで自由になれるものなのか」という解放感のようなものだった。
映像化プロジェクトが進行中とのことだが、この「精緻さと強引さ」を両立させるハードルは極めて高いだろう。読者の思考の流れをテキストの緩急でコントロールし、イマジネーションに働きかけられる小説の方が、本作のような荒唐無稽と紙一重の稀有壮大な物語には相性が良いのではないだろうか。

本作によって、中国の文学界では軽視されてきたSFの地位が一変したという。それも頷ける、「SFの新たなる古典」の地位を約束された傑作だ。三部作の二作目の邦訳は2020年になるとのこと。とても待ちきれない気分で、英語版の続編に手を出すか迷っている。

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