「近代」の理想の内部崩壊 -- 批判理論とポスト構造主義

 ヨーロッパで誕生した「近代」は絶対的な主体として君臨した。その主体性は、あらゆる事物を客体に貶める破壊作用としての〈近代〉に支えられていた。「近代」の膨張は〈近代〉を増殖させ、ついには〈近代〉が「近代」を破壊し、自己増殖する〈近代〉のみが残される。



亡命知識人たちの失望 -- 批判理論の原動力

 世界が第二次大戦へと進んでいくなかで、ドイツからアメリカへと亡命する知識人たちがいた。アドルノ、ホルクハイマー、フロム、マルクーゼは、いずれもユダヤ系の出自であり、反ユダヤ主義を強めるナチス・ドイツを脱出して「自由の国」に辿り着いた。その過程で、彼ら亡命知識人たちは二つの失望を味わうことになる。

 まずは、ナチズムを生み出した祖国ドイツへの失望である。第一次大戦の敗戦という経緯はあったものの、世界でもっとも民主的なワイマール憲法を備えたドイツは、世界史の最先端を走る国家であるはずだった。しかし、まさにワイマール憲法に規定された男女同権の普通選挙こそが、ナチズムの台頭を許したのである。

 もう一つは、アメリカの資本主義社会への失望だった。命からがら「自由の国」に亡命した彼らを待ち受けていたのは、「自由主義」の名の下にカネと地位を追い求める利己的な社会である。互いを蹴落とすように競争し、商品広告に盲従することで、自己増殖する資本の道具となった人間たちを、亡命者たちは醒めた目で見る。

 普通選挙も自由競争も、「近代」を象徴する社会の在り方である。すると、ナチズムもアメリカ資本主義も「近代」の帰結ということになるのだろうか。ドイツにおける権威への従属とアメリカにおける資本への従属が重ね合わされ、亡命者たちの二つの失望は「近代」への失望として一体化する。「近代」とは何だったのか、そして「近代人」たる我々とは何か。この切実な問いこそが、批判理論の原動力である。


ナチズムとアメリカ資本主義 -- 客体化する民衆

 ドイツ哲学の伝統において、人間の人間たるゆえんは対話能力 Dialektik に求められる。 Dialektik は「弁証法」とも訳されるが、新たに関係性を取り結ぶ能力であり、主体と客体の両義的存在となってその関係性のなかで調和する能力である。ヘーゲルやマルクスにおいては、弁証法は社会発展の原理として展開された。

 料理人は、料理機械ではない。あらかじめ定められた特定の手続きしかとれない機械とは違って、料理人は食材やお客さんに合わせて料理の仕方を調整する。収穫した時期が近いジャガイモに対しては茹でる時間を短くするし、薄味が好きなお客さんには塩を減らして提供する。料理人は、食材やお客さんと対話することによって、彼らを「料理」や「お客さん」へと成形する主体となり、また自らは「料理人」として彼らに成形された客体になることで、主体かつ客体という両義性を達成し、その関係性において調和する。この料理人は、すぐれて人間的である。

 この料理人とは対照的に、主体性を失って一方的な客体に堕落したのが、ドイツとアメリカの大衆である。彼らは、普通選挙や自由競争において主体性を発揮したつもりでいるが、普通選挙はむしろ自らの主体性を統治者に譲渡する契約でしかなく、自由競争の「自由」とは資本主義の論理に外側から規定された範囲の選択余地でしかない(主権は投票用紙の上だけ、自由は貨幣の上だけ!)。彼らは、「社会」を自らの客体として新たに作り直す能力を失い、自らをただ「社会」の客体として提示するだけの存在となった。これが「近代」の帰結であり、これこそが〈近代〉の論理なのである。

 「近代」の啓蒙主義は、人間の主体性のみを礼賛する。自らが客体であることを忘れた人間たちは、自然との対話をやめてそれを「資源」として客体化し、一方的な収奪を始める。〈近代〉の破壊=客体化作用が歴史を動かしていく。その態度は植民地支配にも適用され、次いで「近代」の内部における人間関係にも適用され、最後には自分自身への内省にも適用される。人間相互の収奪関係は、貨幣や国家といった社会制度へと結晶し、あらゆる人間が「社会」の客体となって〈近代〉が貫徹される。批判理論の諸氏は、この過程をただ告発することしかできなかった。


実存主義と構造主義 -- 「近代」の根本的な矛盾

 さて、舞台をドイツからフランスに移そう。1960年代のフランスでは、サルトルに導かれた実存主義とレヴィ=ストロースによって確立した構造主義とが、壮絶な議論を繰り広げていた。どちらが勝ったのかは問題ではない。実存主義と構造主義が対立したという事実こそが、「近代」の根本的な矛盾を露呈させたのである。

 実存主義は、人間の主体性を足場に、歴史を生み出す存在としての人間を描く。構造主義は、人間の客体性を足場に、歴史を消し去る存在としての構造を描く。興味深いのは、これが主体主義と客体主義の平面的な対立ではないことである。サルトルの実存主義は、歴史法則を絶対的な客体として措定したうえでの主体主義であり、客体主義に媒介された主体主義と言える。一方、レヴィ=ストロースの構造主義は、観察対象を一方的に客体化する絶対的な主体を措定したうえでの客体主義であり、主体主義に媒介された客体主義である。

 この奇妙に屈折した対立は、やはり「近代」の啓蒙主義に端を発する。素朴な啓蒙主義は、絶対的主体としての「人間」と絶対的客体としての「自然」を対置する。たとえば自然科学はその二項対立を前提とした営みであり、主体と客体の絶対性は究極の自明性として社会の基盤とされた。そのような社会は、必然的に実存主義と構造主義の双方を生み出す。すなわち、客体の絶対性を媒介とした主体の絶対性の証明と、主体の絶対性を媒介とした客体の絶対性の証明である。

 しかし、構造主義の段階では、まだフランス社会の啓蒙的世界観は維持されていた。それは、構造主義が主客の絶対性を前提していたからだけではない。構造主義がフランスの外部の「未開社会」を対象とする限りは、絶対的な主体としてのフランスを幻想できたからである。しかし、構造主義のまなざしを、他でもないフランス社会そのものへ向けるとどうなるか。観察者の主体性を絶対化しつつ、あらゆる事物を客体化する破壊作用が、構造主義の本質である。たとえ構造主義を生み出した絶対的主体であっても、構造主義の客体化作用から逃れることはできない。


透明化する絶対者 -- 「近代」を捉えた〈近代〉

 あらゆる人間が「主体」になることは、自分が自分以外のすべての他者から「客体」として扱われることを意味する。それは現実的には、すべての人間が〈普遍的な他者〉=「社会」の客体になるという形式をとる。まさにパノプティコンが普遍化した形態である。

 「科学」とは、絶対的な客体である普遍的真理を追究する営みであり、観察者の絶対的な主体性を前提している。構造主義とは科学的態度の典型だ。しかし、この論理は自己言及に耐えられない。フランス社会に構造主義的分析を適用した瞬間に、「フランス」も「構造主義」も解体されてしまう。実存主義を葬り去った構造主義は、自らの客体化作用によって蒸発する。これこそが〈近代〉である。

 フーコー、バルト、ボードリヤール、デリダたちは、「近代」としてのフランスを完膚なきまでに解体した。現在から振り返ってみれば、「近代」とは、人間が自らを絶対的主体として確立するために絶対化された足場に過ぎなかった。しかし、あらゆる事物を客体化し、その客体化作用すらも客体化する〈近代〉は、人間の立つ足場を破壊して回る。もはや地上には絶対的なものは残されておらず、不可視の絶対者である〈近代〉が人間に襲い掛かる。

 この透明な絶対者から、我々はただ逃げ続けることしかできないのか。高度情報化社会に結実した大衆消費社会とは、目の前のコンテンツに逃げ込む人間たちの総体でしかない。皮肉なことに、高度情報化社会を成立させているのは、あらゆる事物を消費可能なコンテンツへと客体化する〈近代〉の破壊作用なのである。〈近代〉から逃げるためには〈近代〉に依拠せざるを得ない、そしてその過程でさらに〈近代〉が増殖する。我々は〈近代〉の客体である。


「近代」の理想の内部崩壊 -- いかに〈近代〉を生きるか

 「近代」とは結局、自分自身を絶対的主体だと思い込んだ人間の傲慢だった。自分自身も自然の一部であるのに、それを忘れた「近代」は自然を完全に支配することを企てた。絶対的主体であることを理想とした「近代」は、まさにその理想によって内部崩壊する。

 あとに残されたのは、〈近代〉という透明な絶対者である。批判理論もポスト構造主義も〈近代〉の破壊作用を告発するけれども、「近代」の理想のオルタナティブを提示することはできなかった。むしろ人々は、すでに効力を失ったはずの「近代」にすがりつく。新自由主義や自己責任論とは、〈近代〉から目を背けるための退行がイデオロギーに結晶化したものに過ぎない。それらは巧妙化したファシズムに他ならない。

 「近代」を喰らいつくした〈近代〉は、あらゆる人間を客体へと貶めると同時に、「近代」の仮面をつけて人間こそが主体だと喧伝する。自らを主体だと妄信する客体は、次々と供給されるコンテンツを絶えず消費させられて、自らを客体化する時間と能力を奪われる。自分自身を主体的に客体化することこそが弁証法の出発点だが、〈近代〉はその隙を与えないことで透明な絶対者として存立するのである。

 この〈近代〉をいかに生きるべきか。「シラケつつノリ、ノリつつシラケる」というのは中途半端な選択に過ぎず、たとえシラけていたとしても〈近代〉の増殖に加担することになる。絶対的主体としての〈近代〉は、すでに絶対的制約としての地球環境の限界へと接近しており、もはや主体性を保てなくなっている。〈近代〉というのは、それがどれほど強力に見えようとも人間社会の最終形態だという保証はないし、最終形態にしてはいけない。

 〈近代〉の呪縛から解放されるためには、強靭な対話能力と想像力が必要である。「近代」の理想が崩壊した今こそ、魅力的かつ剛健なオルタナティブが求められている。その課題に真正面から取り組んだのが、見田宗介=真木悠介であった。名残惜しいが、本稿はここで打ち切る。

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