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哲学カフェのアップデート
哲学とはなにか。この問いに対する考え方は色々あるが、とくに「自分の頭で考えること」という最もシンプルな行為を出発点にして考えてみたい。
「自分の頭で考えること」──みなさんは1人で考え事をするとき、どのような場所に足を向けるだろうか。
熱いコーヒーを片手に自宅の書斎のドアをそっと閉じるひともいるでしょう。あるいは仕事を終えたその足で、眠れぬ夜の雑踏をあてもなく歩き始めるひともいるかもしれ
「不協和音の解放」という概念について──シェーンベルクの音楽理論
相手の好きなジャンルが何であれ、今どき「ロックって何ですか?」という質問をするひともいないだろう。趣味といえば音楽鑑賞ぐらいしか思いつかないぼくにしたって、日々いかにその質問だけはされないように注意して振る舞うかに頭をいっぱいにして生活している。だが、疑問の持ち方としては正当性を欠いているとは言えない。
また、言葉にして質問を投げかけずとも、ある音響への対応や態度から、自ずと「ロックであるこ
意味の“意味”とコンテンツの公共性──もはや懐かしき『裸のランチ』
「何かしら文章を書きたい」と思う時に、とりあえずペンを走らせることはできる。それどころか、でたらめに書き進んでいくことすら可能だ。そこまでは落書きのような「絵を描く」行為と違うところはないのだが、絵ではなく文章の場合、書き手はそこで「目的」を要求される。
何のための文章なのか。文章を〈書く前〉と〈書いた後〉で、世界にどういった変化を与えようとしているのか。ペンを前に後ろに動かして、文章の生成
お守りとしての『沈黙の世界』
思想や文学などを好んで読み、なおかつ古本屋に通う習慣があるひとであれば、みすず書房のあの「いかにも」な装丁と、ふと目にしただけで湧いてくるなんとも言い難い「安心感」は、探しものがなくても、あるいは、衝動買いを行う余裕が全くないときであっても、大食漢を誘い入れるとんこつスープの匂いがごとく、古書店へと立ちいらせてしまう理由としてはおおいに常であることだろう。
あれら装丁がみすず書房という出版社
かつてバンドマンだったすべての人たちへ
以前書いた記事(『音楽における愛と歴史』)の中でぼくは、知的探究と愛情のあいだに量的な正比例関係を求める音楽観を〈脱構築〉し、環境論的な反論の提示による状況整理を試みた。その狙いは、「知識と愛がある音楽オタク」vs「知識も愛もないライトユーザー」という対立的な図式によってこれまで助長され続けてきた無益な敵対心の解除にあった。
しかしそのせいで、音楽オタク的な関わり方それ自体が否定されていると