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【終戦特集】植民地の記憶をどう残すか

日本の最大版図


有史以来の、日本の最大領土を白地図で塗りつぶしなさい。

という問題を出されて、正解できる人がどのくらいいるでしょうか。

正解例は、以下のようになります。


<出典>下記、プチモンテのサイトより


俗に「台湾、朝鮮、満州」を日本の3大植民地と言いますが、東南アジアや南方、南洋に多くの領土を持っていたことは忘れられがちです。

(上の地図を見れば、それらが、独立国を占領したというより、西欧諸国の植民地を一時奪った形だったのがわかります)

植民地と占領地は違う、と言っても、その違いは必ずしも分明ではありません。

南方でも、日本が1910年代から委任統治したパラオ(ミクロネシア)などと、フィリピンなど太平洋戦争後の占領地は当然別でしょう。

私も詳しくはわかりませんが、通常、太平戦争で占領したフィリピンなどは、植民地とは言われないでしょう。その現地の人は「日本人」に数えられていないからです。

しかし、フィリピンでも、日本語教育、皇民化教育が行われ、フィリピン人を「日本人化」しようとしていたようです。もう少し占領が長引けば、植民地と同じ意味を持ったかもしれません。

「3大植民地」でも、天皇を元首にしていた朝鮮、台湾と、清朝皇帝を元首にした満州(傀儡国家)とは分けるべきでしょう。

中国大陸でも、満州と、北京の臨時政府や、共同租界だった上海などは、当然違います。

南洋には、占領とは別に、日本人移民がそれ以前からいて、終戦で一緒に引き揚げてきたこともあります。


いずれにせよ、1945年以前は、日本人が、日本列島の外に大きく広がって住んでいました。日本の外のそれらの地は「外地」と呼ばれました。

1945年の時点で、日本人は内地に約7000万人、外地に約3000万人いました。(1930=昭和5=年の国勢調査で、内地人口6445万5人・外地人口2594万6038人)

1940年時点では、朝鮮に総数2370万9057人(内地人68万9790人、現地人2295万4563人)、台湾に総数122万5570人(内地人18万5185人、現地人103万8613人)でした。


内地と外地、合わせて「1億火の玉」と言っていたのです。

Wikipedia「進め1億火の玉だ」より


私が問題にしたいのは、その「外地」の記憶が、日本人から失われつつあることです。

いま、記録を残せるだけ残しておかないと、全容が永久に分からなくなってしまうかもしれません。

ちなみに、「外地」とは、「植民地」という言い方が帝国主義的で(朝鮮などで)嫌われたため、作られた言葉のようです。

しかし、今では「外地」と言っても通じませんから、一般用語として「植民地」と言うしかないでしょう。


植民地の必要を説いた朝日新聞


1945年8月の時点で、それらの地での統治機能は停止し、旧日本軍も解体されたので、記録が残りにくかったのは仕方ありませんでした。

その後のGHQの日本統治方針で、それら「外地」の記憶は組織的に「忘れさせられた」と言っていいでしょう。それらの地域に関する書籍の多くが「焚書」になっています。

たとえば、朝日新聞が1937(昭和12)年に出した『植民地の再分割』(東京朝日新聞東亜問題研究会編)が、GHQにより焚書になりました(が、現在は国会図書館のデジタルコレクションで読めます)。

それを読めば、第一次大戦後、植民地を「持てる国」と「持たざる国」の不公平が広がっており、日本のような「持たざる国」は、「植民地の再分割」を要求すべきだ、と、朝日新聞が「次の戦争」の必要を説いているのがよくわかります。


(第一次大戦後のヴェルサイユ条約で)もともと持っていた国々はドイツその他の植民地や領土をその支配下に引き入れて益々肥え太り、従来貧乏国であった国々は、丸裸にされたり、分捕り品の分配から除外されたりしたのであるから、それまではいわば程度の差であった持てる国と持たざる国との隔たりが、ほとんど質的な相違にまで拡大され深刻化されることになったのだ。

今日では、世界中どこを探してみても、少なくともいくらかでも役に立ちそうな土地という土地は、残らず列強の支配下におかれている。だから植民地の獲得は、今日では単純な分割ではなくて再分割であり、甲の領有者から乙の領有者への植民地の移転と言う形式をとらなくてはならないのである。そこに今日の植民地問題の特殊性がある訳であり、だからこそ大きな危険と困難とが伴うわけである。

(東京朝日新聞東亜問題研究会編『植民地の再分割』 画像とも「しばやん」さんのサイトより)


朝日や毎日の「A級戦犯」性の問題は、ここではひとまず脇に置きます。

「植民地」(の獲得と維持)こそが、日本の戦争目的だったことは、意外に忘れられがちです。

「外地」「植民地」の存在を忘れさせる、ということは、日本のそもそもの戦争目的を忘れさせる、ということでもあったのです。


「植民地史」の試み



日本の戦後政府としては、旧植民地への補償問題解決に忙しく、日本人のために「外地」の記録を残すような暇はありませんでした。

それでも、引き揚げてきた人の話や、有志団体が集めた記録で、外地の記憶は、昭和のあいだは細々と受け継がれたように思います。

1970年代というのは、補償問題が一段落した時期だったかもしれません。1975年、毎日新聞社は、外地を含む戦中の写真を読者から募集し、「1億人の昭和史」というシリーズを出しました。

(この「1億人」は、1970年代に戦後人口が1億人を突破したこと、上述のとおり戦中は内地と外地あわせて1億人であったこと、の両方をかけていると思います。)

これは、戦中の写真を組織的に集める最後の機会だったかもしれません。新聞社がそれをおこなったことで、かなりの写真が集まっていたはずです。

とくに「外地」の写真は、「日本植民地史」として、1「朝鮮」2「満州」3「台湾・南洋諸島」4「続満州」の4巻に分けて出版されていました。

毎日新聞社の「日本植民地史」シリーズ


しかし、その後、いわゆる「従軍慰安婦」問題など、旧植民地との政治的問題、歴史問題が再燃します。

それとともに、また「外地」の記憶について、率直に語るのが難しい時代になっていきました。


写真はあざむく


毎日新聞の「1億人の昭和史」出版と同時に、「従軍慰安婦」「軍艦島」「石井部隊」などの「証拠写真」が世に出回り始めたのは、今から振り返ると偶然とは思えません。

いわゆる「従軍慰安婦」問題は、今では吉田清治と朝日新聞が主役のように思われていますが、発端は元毎日新聞記者・千田夏光の1973年の著書「従軍慰安婦」でした。千田は毎日新聞の報道写真から「慰安婦」に興味を持ち、「1億人の昭和史」でも執筆しています。

軍艦島での朝鮮人の強制労働の証拠とされた写真も、このころから世に出回りました。有名なのは、軍艦島(長崎県端島)の坑内壁に「腹が減った」「故郷に帰りたい」とハングルで落書きされた写真です。

が、のちにこれは、朝鮮総連傘下で1965年に作られた筑豊炭田の映画のスチールだと判明しています。(この写真も「1億人の昭和史」で見た記憶があります)


最近亡くなった森村誠一の赤旗連載「悪魔の飽食」がベストセラーになったのが1981年です。のちに、関東軍731部隊の中国人を使った人体実験の写真とされたものが、過去のペスト治療の写真だと判明します。

南京虐殺の「証拠写真」というものもたくさんありました。

すべてが捏造なのかどうかわかりませんが、いわゆるプロパガンダ写真が多数混じっていることがわかってきて、歴史写真の真贋がわからなくなってしまいました。

「外地」の写真含め、戦中の記録を集める、という「1億人の昭和史」シリーズが中断したのは、そのせいもあるでしょう。

以後、同じような試みはなされていないと思います。


事実をありのままに保存しよう


「外地」の記録が残りにくく、日本人の記憶として定着していないことには、以上のような政治的、歴史的事情があります。

しかし、いちばん大きな問題は、日本人がいまだに、これら「外地」の存在をどう考えるか、考えが定まっていないところにあるのではないでしょうか。

現在、新宿の平和記念展示資料館や九段下の昭和館、また千鳥ヶ淵戦没者墓苑などで、外地についての史料が展示されていますが、いずれも部分的な印象です。

それらの展示を見て、「外地」についての全体像を思い描くのは難しいのではないでしょうか。


占領地の歴史は、今でも「戦史」の文脈で語られることが多いと思います。

そうすると、勝ち負けの問題になるとともに、どうしても戦争責任とか、軍役の苦労とか、日本軍人による虐待とか、そういう話になる。

しかし、外地に住んでいたのは、軍人だけではありません。

たとえば、三菱商事や三井物産、伊藤忠商事などの商社マンが大活躍していました。そもそも資源や物資の調達が戦争の目的でもあります。

伊藤忠(太平洋戦争中は丸紅、呉羽貿易などと合併し三興株式会社)は、軍需とともに「時局事業」で稼ぎました。

 時局事業とは戦争および国内生活のための物資の調達などのこと。時局に鑑みた武器以外の軍需品、生活品の調達のことだ。
 東南アジアからは石油と金属類、木材などが主だ。中国からは綿花、小麦、雑穀、落花生、牛脂、豚毛、タバコ、卵粉、希有(希少)金属、日用品と在華紡(中国にあった日本資本の紡績工場)の綿布。
 調達といってもタダで持ってきたわけではない。いくら払ったかは社史(旧版)に書かれていないが、円系通貨(中華民国臨時政府の銀行券、汪兆銘政権の銀行券)で支払っている。ただし、どちらの円系通貨も通用したのは敗戦までの期間で、その後は紙くず同然になった。
(「伊藤忠商事の社史」が、かつて平仮名を使わなかった理由 ダイヤモンド・オンライン2021年)



また、フィリピンなどでも日本語教育が行われましたから、日本語教師もいたわけです。

そうした民間人がいれば、その家族がいる。普通の日本人が住んでいたのであり、現地の人との交流含め、そこには普通の日常があったはずです。

戦時の異常事ばかりが強調されがちですが、そうではない日常もあったでしょう。

たとえば、日本統治下の台湾では、映画「セデック・バレ」で描かれたような、凄まじい現地人との軋轢(霧社事件)がありました。

一方、「KANO 1931 海の向こうの甲子園」で描かれたような、ほのぼのとした日台の交流もありました。

それらはすでにフィクション化していますが、もともとの事実が保存されているかどうかが問題です。

戦中の話は、「反戦」というアングルでしか語れないようなバイアスがありますが、まずは事実を、客観的な史料や記録を、できるかぎり保存しておくべきだろうと思うのです。


いまも残る占領の跡


外地の記録を正確に保存しておくことは、いわゆる歴史問題に政府が対応するさいの基礎となります。

一般国民は、日本列島の中にじっとしていれば、現在、こうした「外地」のことを知らなくても問題ないかもしれません。

しかし、日本列島から一歩出れば、今でもかつての「外地」の痕跡がそこかしこに残っています。

東南アジアや南洋を旅行すれば、慰霊碑や旧日本軍施設跡など、日本占領時の痕跡がまだあちこちに残っています。「へー、そんなことがあったんだ」と日本人旅行者が現地で初めて知ることも多いのではないでしょうか。

私は最近、フィリピン南部のダバオのことを調べましたが、ダバオでは旧日本軍のトンネルが観光名所になっていることを初めて知りました。


占領の跡はいろいろ残っているのに、当の日本人が知らないのです。


私自身、日本の植民地や占領地について、学校でちゃんと学んだ記憶がありません。

「侵略はいけない」という現代世界の価値観を教えるのはもちろん必要ですが、歴史は、事実をそのまま伝えた方がいいと思います。

戦中の話になると、なんでも「反戦」メッセージがないといけない、というのはおかしいのです。「南の島に雪が降る」のリメイクでも問題になりましたが、戦地での人間の普通の営みを、イデオロギーで歪めることはありません。


新聞社への期待


「1億人の昭和史」から50年たち、外地の記憶を持つ人たちは、この世から消えつつあります。

日本で、これら外地と「大日本帝国」の記憶を組織として持っているのは、もう新聞社と、伊藤忠などの戦前からある会社だけ(あと、あるとすれば皇室)だろうと思います。

とくに朝日や毎日は、植民地にネットワークを広げ、現地で取材するとともに、植民地経営に積極的に関与していたと言われます。

両社とも、「東亜調査会」といった戦時シンクタンクを社内につくり、植民地政策を指導しました。

比較的最近では、戦争での部数拡大に奔走する新聞社の姿を描いた『言論統制というビジネス』でも、満州での「報道報国」ぶりが書かれていました。


里見脩『言論統制というビジネス 新聞社史から消された「戦争」』(新潮社 2021)


終戦記念日が近づけば、これらの新聞は、また「戦争反対」「不戦の誓い」の紙面を作るでしょう。

しかし、彼らは「A級戦犯」相当ですから、偉そうに社会に説教できる立場ではありません。そんな資格はありません。

それより、せっかく戦前から残っている新聞社には、別の役割があるだろうと思うのです。

戦中の記録を出すと、自分たちが日本の帝国主義と戦争に積極的に加担したことがバレてしまう。「自分たちは軍部に脅されて協力させられていた被害者だ」というイメージが嘘だとわかるーーという懸念があるかもしれません。

でも、事実は事実として、正直になることです。ジャーナリズムの基本です。戦争中、戦争に協力したからといって、それがただちに悪いわけではない。偽善的にごまかしている現在の姿のほうが醜い。

朝日や毎日は、自社に残っている、植民地、占領地の記録を整理し、デジタル化し、歴史学者に対するとともに、一般市民に対して、広く公開すべきだと思います。

今のうちに「日本植民地史」の決定版を出すことこそ、彼らの使命だと思うのです。


<参考>


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