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強き者は自らの強さについて考えない

 強いことは良いことで、弱いことは悪いことである。より正確に言えば、強いことによってその者の全ては正当化され、弱いことによってその者の全ては否定されてしまう。なぜなら強いとは、弱いを排除できるからである。もし、世界を2つにわけることができるのであれば、それは強さと弱さである。
 しかし、この強さには弱点がある。強いことにも1つの弱さがあるのだ。それは強き者は、その強さについて考えないということである。

 考えない。すなわち、自覚がない。とはいえ、いくらかは強さについて考える強者はいるかもしれない。でも全体で見れば少数だ。往々にして強いことで、そんな些細なことを気にするような状況には陥らない。
 強い時、人は必ず傲慢になる。程度の差こそあれ、慢心が心に入り込んでくる。そのような状況で、自らの強さについて自問自答できる人はいない。ましてや、強いとはどういうことかを改めて考え直す必要などない。ただ強さは強さであり、それは正当化されているのだから、自分は正しいのである。

 一方で弱い時、人はそれを悪いものだととらえる。だからそれを改善しようとする。つまり弱さについて、いやでも考えねばならないのだ。自分自身、そして弱いこと、弱さの意味、原因。
 そうして強くなろうとする。この世界では当然に、弱くないことは強いこととイコールだからだ。弱さを見つめ、そしてそうでなくなろうとすることは即ち、強くなっていくことである。
 従って、弱き者と異なり、強き者はその強さについて考えない。自らの持つ強さこそ正しいと思う。それを改善しようなどとは思うはずもなく、すべての人が自分のような強さを持てばいいのにと思う。強さのことなど知らないのに。
 だが弱き者は、その弱さに加えて、強さとは何か、どうすればそうなれるのかということに必ず直面する。しない者、できない者、したくない者は淘汰されるだけだ。つまり死ぬ。だが生き残っている弱き者とは、何かしらの強さと弱さについて考えた者である。それが弱さゆえの強みであり、そうでないことは強さゆえの弱みと言える。

 強いとは、弱いに対してそうであることなのだ。けしてその強さはあらゆるものに対してではない。しかし強い時、人は万能感に陥ってしまう。力を手に入れるとはそういうことであり、それが正義と思うことである。
 しかし、強さを考えない強き者の力とは、それだけでしかない。強さとはどういうことか、より良い強さとは何か、これは本当に正しいのか…そういうことに気が付かない強さは単なる力でしかない。それは必ずしも正しいとは言えない。ただ、弱さに勝てる強さであるだけだ。

 強いことに満足するのではなく、もし、自分が強いと思うのなら、あるいは弱いと思っていたとしても、人は強さと弱さについていつも、その本質を、意味を、性質を、正解を、見出そうとする思考を忘れてはならない。

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