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美しさは「人それぞれ」か?

 美の基準は時代によって違うとされる。
 当たり前に美というものは時と場合に応じて形を変え、いつもどこでも同じとは限らない。そればかりでなく、美しいとは人それぞれでもあるということを、ほとんど誰も疑わない。美に関するこのような認識は、この世の常識と呼べるほどに公然の事実である。

 けれど、だからといって私達にとっての「最高の美」すらも人それぞれというわけではない。つまり、それは人によって違うのではなく、絶対に、「誰にとっても最も美しいもの」というのは存在しうるのであるという考えだ。それが事実かどうかは関係がない。そしてそれは今のところ、誰にも否定できていない。
 だから私達は求めることができるのである。誰にとっても美しい、とされる何かを。基準を。存在を。この世にないものだと断ずることはできないのだから、それはもちろん、あるのだ。

 そして少なくとも私達は、そういった考えを捨て去ってはならない。人それぞれというのは確かに正しく、実際にあらゆるものはその通りである。でも、それは同時に、何に対してもそう言えてしまう玉虫色の言葉でもある。つまり何かに対して「人それぞれ」というのは、実際は何も言い表せていないのと同じなのだ。
 加えて、常に人それぞれだと判断してそれ以上を追求しないのであれば、その人はもう、この世の何に対しても興味の持てない、進歩も発展も変化もない人間だと言っているに等しい。それではあまりにもつまらない。こと、美しさに関しては元々がかなり抽象的であるがゆえに、ついつい「人それそれ」だと言いたくなってしまうものである。

 でも、そこには必ず「誰にとっても」がある。あるはずだ。そう信じたい。そうであればと願いたい。そのような気持ちこそが、私達をより良い所へと連れて行ってくれるのである。より良いものを生み出させてくれるのである。人それぞれなどと思考停止しないで。抽象的な「美」にこそ。そのさきの未来のために、私達は安易に「人それぞれ」だと口にしてはならない。

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