Too Emotional Brain 5
その日、僕がその河岸に来た時、既に彼女はそこにいた。
しかし、今日はいつもと彼女の雰囲気が違っていた。
私が彼女をここで見るとき(彼女とはこの場所でしか会ったことがない)、彼女はいつも動きやすいラフな格好であった。
髪の毛も、簡易的にまとめられているか、無造作におろされているかのどちらかである。
だけれども、彼女の装いには、いつも品の良さと清潔さが備わっていると、僕には感じられた。
普段とは違うその雰囲気に、僕は少し緊張しながら、それでも平然を装いながら声をかけた。
「今日は、なんだかいつもと違うね。」
彼女は何か考え事をしていたようで、声をかけられてようやく僕の存在に気づいたのか、少し身体をビクッと跳ね上がらせて、僕の方に顔を向けいつもの笑顔を見せた。
「今日は特別、あなたに会いたかった。」
僕の問いかけには答えずに、彼女はそう言った。
彼女は濃い緑色のワンピ―スを着ていた。
街灯のない場所で見たら、おそらく夜の闇に紛れて、ただの黒か紺色にしか見えないかもしれない。
しかし、街灯の下で見ると、それは確かに緑色であった。
胸元が程よく開き、彼女の綺麗な鎖骨が露になっていた。
彼女がそんなにもきれいな鎖骨を持っていたという事を、僕は今まで知らなかった。
ウエストマークが高めの、身体にフィットするようなデザインが、形のいい胸と、華奢なくびれを綺麗に見せていた。
スカート部分はふわりと柔らかい印象のシルエットであり、まるで彼女の柔らかさを表現しているようだった。
ひざ下まで隠れるそのスカートの下から見える、健康的な踝(くるぶし)が、やけにいやらしく感じた。
圧倒的に露出の少ない上品な服装だというのに、その日の彼女を見て、僕はなぜか性的な意味で興奮せずにいられなかった。
男の性的な”シュミ”というのは、どうやら簡単には解明できないくらい、複雑なようだ。
そして、明らかに散歩には適さない、赤いエナメルのピンヒールを履いていた。
その日は雨が降った後で、地面がまだ少し濡れていた。
この市ではほとんど雨が降らず、実にひと月ぶりくらいに降った雨だったと思う。
「何かあったの?」
普段とは異なる服装に対してと、彼女のその発言に対しての、両方に抱いた疑問を僕は投げかけた。
「ああ…
実は、ある男性と食事に行ってきたのよ。
あなたも行ったことあるかしら、イタリアン街にあるお店なんだけれど、とても素敵な雰囲気のお店だった。」
僕は、きっと行ったことがないと思う、と答えた。
実際、僕がそんな”いかにも高級そう”なお店に行くわけがない。
そこでは、上等な人間が喰えるかもしれないが、僕の好みはそう言った人間ではない。
「もし、落としたい女の子がいたら、連れていくといいわよ。
私、この国に来て初めてかもしれない!
あんな素敵な食事と、この国には珍しく洗礼された店員さんに、
店内は私好みのスウィング系のジャズが流れていて、しかもね、ある時はピアノの生演奏もしてくれるみたいよ。」
彼女は、その時間を本当に楽しんだようだ。
そしてきっと、彼女と食事に行った男も、こんな素敵な女性と一緒に食事をして、楽しくなかったわけがない。
「でも、君は落ちなかったみたいだけど?」
別に何の意味も含めずに、僕は彼女にそう言った。
あるいは、彼女にとっては、何か意味を含んだ言葉になってしまったかもしれないが。
きまり悪そうな表情を見せて、彼女は長く小さなため息をついた。
それから、しばらくの間沈黙が続いた。
僕も、なんだか悪い気分になってきて、何かを言おうとしたが、彼女自身が、何かを”言おうか”、”言わまいか”で、悩んでいる様子だったため、僕は彼女の選択が決まり、それが実行されるまで待つことにした。
彼女がその選択をするまで、そう長くはかからなかった。
「あなただったらなって思いが、消えなくて。」
街灯の光が反射して、きらきらとゆれる水面を見ている彼女の横顔は、悲哀に満ちていて、いつもより儚く、とても綺麗だった。
「もし相手が、あなただったら、私はとびっきりのお洒落をして、会いに行くのに、って。
もし、こんな素敵なお店に来るなら、あなたはきっと、いつもみたいな、ハーフパンツにサンダルという恰好じゃなくて、しわのないシャツと品のいい色をしたパンツをはいてくるに違いない。
あなたの大きな足には、ツヤのある革靴が履かれている。色はキャメルがいいわ。ただの私の趣味だけど。
背も鼻も高いあなたが、お店に入ってきた瞬間、誰もがあなたの方を振り返るの。
そんな人の隣を歩くのは、一体どんな気分だろうって、想像した。
今日、食事にいった男性も、私にはもったいないくらい素敵な男性だったの。
本当に。
ただ、”ただの私の想像でしかない素敵な夜”に、敵わなかっただけの話よ。」
僕と同じように、彼女も僕に惹かれていることは、今に分かったことではない。
なんとなくだけれど、僕はそれに気づいていた。
しかし、僕たちは、何か見えない一線を越えないように、ずっと意識してきたように感じる。
僕たちは、連絡先を聞こうとはしなかったし、この河岸以外の場所で会おうと約束を交わしたこともない、ましてや、次いつ会えるかも分からないような関係であった。
これ以上近づくことを、僕たちは必要以上に恐れている。
もしくは、恐れているのは、人喰いである僕の方だけかもしれない。
彼女は、ただ、その一線を僕が越えようとしてくるのを、待っているだけなのかもしれない。
何も答えない僕に向かって彼女はこう言った。
「いいの、何も変えなくて。
この微妙で不安定な距離が、私にはちょうど心地が良いの。
あなたもそうであってくれると嬉しいんだけど。」
それが、彼女の本心なのか、それとも気を利かせただけなのか、判断できなかったが、「君が望むなら、僕はそれで構わない。」とだけ答えた。
彼女は安心したような表情を見せた。
僕はその時はじめて、自分ではない他の誰かが、
自分の人生の一部になるという感覚について考えてみた。
そして、少し肌寒い、雨上がりの夜に
身体を寄せ合う事もせず、
ほんの少し距離をおいてベンチに座る、あまりにも服装の雰囲気が釣り合っていない男女の事を考えた。
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