揺らぐ自分の敏感さ

きっかけは親の一言

親の一言は本当によく突き刺さる。素晴らしい攻撃力だ。
自分が気にしていること、自覚していることを何度も繰り返し指摘し、たまには怒鳴ったりなんかもして教えてくれる。
親は自分のこれまでの人生に誇りを持っているようで、自慢話をたくさん聞かせてくれる。そして、そこまで達していない自分を煽ってくれる。
成長すればするほど、どんどん親を嫌うようになってしまって、本当に申し訳ない。子にここまで嫌われている親が可哀想で、こうはなりたくないと常に感じている。

自分の感情を消す

これは親のおかげで身についてしまった技である。どんな状況でもポイッと自分の感情を捨てられる。
捨てた感情を踏みつぶすことはできず、あとでそっと拾ってポケットにしまう。
親の前だけで消して、自分の中に残り続けるというわけだ。いつまでも手持ちの感情は増えていく一方で、代わりに心がすり減っていく。

親にとって自分の感情は邪魔なんだ

ある日、それがやっと分かった。感情を消してみると、面白いくらいに親との全てがうまくいった。ただ、親のいる家が「家」じゃなくなった。家の外にいる方が落ち着くようになった。親と一緒にいるのがつらくなった。
感情を消し続けていると、感情の出し方が分からなくなった。家の外が落ち着くとは言っても、そこに居場所はなかったというか、作れなかった。結局、自分には1人でいること以外、感情を消さなくて済む方法はなかった。

自分以外の人の感情に敏感

自分の感情は消せるのに、「自分以外の人の感情」は自分でコントロールできないからか、自分の中で消すことはうまくできなかった。それどころか、勝手に入り込んでくる。感情的な人の世界に引きずり込まれる。感情的な人の持つあの力は一体何だ?周りを巻き込んで何が楽しい?

親もかなり感情的な人だったため耐性はあるが、きついものはきつい。感情の起伏が激しい人がいるだけで自分はかなり疲れ、心が傷付く。実際にその場にいる場合だけでなく、映像や音だけでも同じだ。
例えばテレビなんて、自分からしたら感情的な人のオンパレードだから大変だ。怒鳴り声、泣き声、物の破壊、爆笑、アテレコ、衝撃映像、ドッキリ、甲高い声など、大げさな感情表現…
見たくなくても、家族が見る。嫌でも番組の雰囲気が伝わってくる。これがつらい。

自分の感情を消せても、自分の感情や他人の感情にとても敏感な性格自体を変えることはできていない。自分や他人の感情なんて、正直どうでもいいものだし気にするだけ無駄なのに、分かっていてもこればかりはどうしようもない。メリットがあるとすれば、相手が今どんな感情で、次にどんな言動をするか予想できるということか。求められているものが何となく分かるから、その通りにしていると怒られることが少ない。どんな他人よりも親への対応の方が難しい。

「自分」が揺らぐ

感情を消しても心はすり減っているから、気分が沈みやすい。そこにグサッと突き刺さる一言がくると、一気に自分の存在が揺らぐ。

生きてていいのか?生きていたくない

死んだ方がいいのか?死んでしまいたい

何気ない言動でも、自分のその時の精神状態によって受け取り方が変わってくる。最近は常に沈み込んでいるから、そういう状態では突発的に死にたくてたまらなくなる。
生きている意味、生きる意味などを考えてはくだらない言い訳を当てはめ、適当に自分を納得させて生きている。生きることに意味なんてないし、考えるだけ無駄で、少しでも他のことに時間を割いた方がよっぽど自分のためになる。そんなことは分かっている。

自分の体と心を切り離して考えることも多い。全ての責任は自分にあるのも分かっている。しかし、体は自分が作ろうと思ってこの世に誕生させたものではない。つまり自分のものではない。だからこういう気持ちになる。

せっかく生まれてきたのに、こんな心を持ったせいで幸せにしてあげられなくてごめんなさい

自分の体は心とは別で、心に与えられた生き物みたいな感覚でいる。人間の外見として長所も短所もあるが、うまく扱えるような心があれば幸せにしてあげられるはずだ。自分にはそれがない。そしてこれからもない。そんな心があったら今こんなことにはなっていない。

親の影響もあるとはいえ、自分の性格の影響も大きい。他人の幸せな人生を眺めているだけで満足で、自分の幸せなんて気持ち悪いし想像したくもなく考えたくもない。一般的な幸せを押し付けられるのも嫌だし、それが自分にとっての幸せだとは限らない。そもそも自分の幸せが何なのかもよく分からない。自分に幸せなど、似合わないとしか考えられない。死にたい時は、生きているだけで気持ち悪いとも感じる。

怖い。これから生きていくのが怖い。自分の体を操作する心の持ち主として、暗闇で徐々に朽ちていく自分を見るのが怖い。
自分の中に幸せが存在していないし、優しさに慣れていないし、何でも疑う。普通に笑えないし怒れないし泣けない。人間でありながら人間らしく生きることを避けてきた。だから幸せを目標になんてできるわけがなくて、生きている意味や生きる意味にすがることでしか自分を正当化することができないし、生きていくこともできない。

自己肯定感

自分の自己肯定感は高い方じゃないかと感じていたが、周囲を見るとそうでもない気がしてきた。自己肯定感も高い時と低い時がある。高い時はそんな自分が気持ち悪くなり、低い時は自分以外がすごい人(勝ち組?)に見える。もっと言うと、自分以外のすごい人がそのすごさを自慢しているようにも感じる。

他人の存在すら自慢に受け取れる自分もある意味すごい。ここまでくると自己肯定感が低いというより、自己否定感がMAX。自分は自己肯定感ではなく自己否定感で考えていたのかもしれない。自己肯定感などまずなく、自己否定感が高いか低いかという方が自分に合う。どちらにしても、努力をしてこなかった何もできない自分は他の人と比較して落ち込む権利なんて今もこれからもないと言い聞かせている。やっぱり自己肯定感は低いのかもしれない。

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