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短文学集

25
筋も思想も体系も、全部気にせず楽しむことを短文学と称して日々の感傷を綴る。
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記事一覧

門前の人にも橙を

門前の人にも橙を

 手袋すらつけていない指は、もうハンドルの感触を伝えない。突風でも吹けばあっという間にバランスを崩してしまうだろう。その拍子にチェーンが外れてしまえば、このかじかんだ手で直すことはもう不可能だ。
 寒さは夜の町を覆って、この世界から私の居場所を奪うように、肌の表面から少しずつ浸食し、心臓にまでその手を伸ばそうとしている。こんな小さな折り畳み式の自転車では、どこまで走ろうとも逃げ切れそうにない。
 

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五月雨、一矢となって。

五月雨、一矢となって。

くれなずむ空は薄雲を浮かべ、朱に藍に染めては散らす。
渡る風は夏の残滓をすっかり浚って、路地の隅まで清澄で満たした。
こうしていつまでも座っている、私の鼻先を金木犀が嘲笑う。
今に冴えわたる月が現れ、心地よい寒気を降り積もらせるだろう。

肌が湿っていくのを感じながら、私は瞼を閉じる。
何も映さないその暗幕の中に、ずっと何かを探していた。
そうしている間に過ぎた季節が、朝が、雨が、閃いては消えてゆ

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落果の汀

落果の汀

風は湖面を滑る時のような冷たさで、私を一巻きして過ぎていった。
その目指す先の彼方で、夕陽が今にも沈もうとしている。
薄雲の張った西の空に、艶のない黒が押し寄せている。
わずかに残った空色が、雲と夜と橙色で滲んでいた。
それは黒い大地の片隅の、小さく澱んだ池のように見えた。
せっかくの夕陽は、その澱みに落ちて濁ってしまう。
濁りの膜の向こう側で、辛うじて輪郭を保っていた。
落ちた果実が、水際でふや

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年輪

年輪

 口の中に血の味が広がる。
 左腕を伝う血液を舌で受け、肘の辺りから自分の腕を見上げた。青白い、死んだ魚の腹のような色をした細長い腕。その、手首より少し下の裂け目から、この赤い水は湧き出している。それが幾筋かに分かれながら、ちろちろと流れ落ちている。

 流れる途中で、いくつもの傷痕をまたいでくる。小さく隆起したそれが連なる様は、地層の断面を見ているようで私は気に入っていた。小さな赤い流れはこの隆

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霧向こうの紅

霧向こうの紅

 夢の中の私は少年で、同じ年頃の子供らの群れにいた。やたらと重たい色をした校舎の壁が酷く私を圧迫し、無邪気な他の子らの声は膜の向こうで鳴っているように遠い。教室は曖昧な私の意識を反映したように、隅の方でぐにゃりぐにゃりと、ところどころ歪んでいた。
 私はただ帰りたくて。まだそれが出来ないと知っているから、イヤホンを両耳に刺した。あの甲高く光沢のある金属質の笑い声や、木製の床を椅子が引っ掻く音。避け

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AM I

AM I

ローファイな日常 ノイズに濡れた言葉

塞いだ耳 重たい髪

なけなしの若さを 惰眠が貪って

逆らうように 朝まで起きてる

夜行バス 深夜のFM

置き去りの缶コーヒー なおざりな家事

そういうものばかり 好きになってく

太陽が昇る前の そこで静かに息継ぎをする

ため息の代わり

ため息の代わり

 いつもよりも早い時間、チャイムの音を合図にしてクラスメイトたちはいそいそと席を立つ。試験期間中に与えられる普段よりも長い放課後を、真面目に勉強にあてるもの、遊びの計画に浮足立つもの。いずれにしても、みんなそそくさと教室を出ていこうとする。

 私は、ぐずぐず荷物をまとめる。文房具と少しのテキストしかない、やけに隙間の多いカバンをいつまでもひっかき回している。まだこの部屋に残っているのは、休憩時間

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忍び泣き

忍び泣き

 その日は大きめの低気圧がやって来ていて、予報通り空は一日中暗い雲に覆われていた。数時間に一度、雨風が窓を強く揺らしては去っていくのを、私はずっと布団の中で聞いていた。
 昔から空模様と体調が比例してしまう体質で、せっかくの休日に何も出来ないまま。それもあと四時間ほどで終わってしまう、という頃になってようやく布団から抜け出し、せめて空っぽの冷蔵庫をどうにかしなければ、と遅めの買い出しに出かけること

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明滅

明滅

 黄色い信号が明滅している、それだけの交差点をいくつも通り過ぎる。取り締まるべき車の流れなどとうにない。その下を早足で行く私にはまるで興味を示さない。私とて、その明滅に日中ほどの意味を認めないで、ただ足音だけを鳴らして過ぎる。

 もうどれほど歩いた。先ほどまで身体を駆け巡っていたアルコールが汗と滲み、それをもう随分夏の夜に振り落としてきた。普段は車内から見るばかりの街路樹や花を、これほどゆっくり

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緑の波

緑の波

「やあ、このようなところへ人が見えるとは」
 愛想の良い初老ほどの男が、いつの間にやら私の脇に立ってこちらを見ていた。いくら川の音がするとはいえ、歩く音が聞こえないほど夢中になっていたつもりはない。自然、向ける目線には警戒の色が混ざったろう。
「これは失礼した。物思いに耽っていて気がつかなかった。この辺りにお住まいの方かな」
 向き直って見ると、男は白髪の混じった皺の深い顔をしており、膝丈ほどもあ

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夕立の降らない夏。

夕立の降らない夏。

 これも全部、ノストラダムスの野郎がしくじったせいだ。あの頃のオレは愚直に信じていた。ヤツの言うところのなんちゃら大王がやって来て、何もかも全部ぶっ壊してくれるんだって。机に突っ伏してばかりの昼も、長すぎる夜も、蔑みの声や同調を意味する記号的な口角の上げ方も、おべっかも堅苦しい詰襟も何もかも、根こそぎ。

 それがどうだ。リヤカーに空き缶を山ほど積んでいた浮浪者たちはどこへいった。ブルーシートの家

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雨宿り

雨宿り

眠りの底から覚醒へと、ゆっくり浮上していくのがわかる。瞼の内側、波の無い水がわずかに白んで、私は朝が来たことを知る。

一息、天井に向けて深く息を吐く。昇っていく泡のように静かなその音を、戸外の雨音が次々破っていく。遮光カーテンを閉め切ったままの室内、そこに留まる柔らかな暗闇が、私の身体を慈しむ。

闇の膜の向こうで、雨がしきりに地を打つ音がする。屋根を、窓を、様々な音階で鳴らす。私は布団を頭まで

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宵の劇薬

宵の劇薬

 頬に冷たさを感じて、確かめる指先が湿った。いつの間にか寝てしまっていた、そして、目が覚めてしまった。
 夢を、見ていた。開いた目に、瞼の裏と同じ暗闇が映る。少し前まで、この目に映っていたはずの光景は、もうどこを探しても見当たらない。狭いワンルームに圧縮された闇に締め付けられるような、そんな微かな痺れが、脳から手足の先へと伝っていく。
 今頃になってもまだ、あんな夢を見てしまう。そしてその夢を、あ

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底徊

底徊

 どこやらで烏が鳴いた。頭上を黒い影が幾つか、西を目指して行くのが見えた。その後を追う温度の無い風の背を捕まえて、枯葉や蛾などが逃れるように西へ流れていく。
 空が、呑まれていく。あれほど天を焦がしていた夕日の、その下に瓦を輝かせていた人家の、休耕田の僭主たる叢たちの、その全ての色彩を抜き去るほどの暗い夜がやってくるのが見える。
 随分待ったものだ。空の果てに、その影を見つけた時からもう数時間が経

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