少女終末旅行 終末の旅人の作法

少女終末旅行を読んだ。
昔は途中まで、それとアニメをみていたが、
普通に終末モノのユル女子旅程度に片付けていた。

しかし、漫画(特に作者のあとがき)を全て読むと、
今ではまた新しい視点で色々と解釈ができる作品であった。
最近は長々と駄文を連ては下書き送りなので、短く纏める。

少女終末旅行の基本的なストーリーは、終末の世界の旅だ。
タイトル通り、二人の少女が、戦争で滅びた世界を旅する。

今回はその象徴するものについて、解釈し、考える。
これは、人(作者)の分裂した人格の旅路である。

二人の少女、チトとユーリは全く対象的な性格である。

チトは、知性・分析・理性・冷静・陰の気でありマクロ的。
ユーは、野生・本能・感性・衝動・陽の気でありミクロ的。

これは、一人の人間の両側面として解釈することができる。
二人は同性だが、その内面の要素として異性的役割もある。

実際、汎ゆる局面で二人のその異なる性質が物語を進める。
チトの計画性でもって旅は辛くも続けてゆくことができるし、
ユーの衝動性で死にかけもすれ、活路が開き、生を実感する。

では、この二人が旅をする、終末の世界とはなにか。
それがこの物語のユニークなところで、中核のテーマだ。

大抵、分裂した人格の旅路は、深層心理たる地底に向くが、
彼女達は上へ向かう。朽ちかけの旧文明の多層都市を登る。
それは古代人が作り上げた未知のインフラ技術と都市機能で、 
彼女達の先祖はそれを解読・不明なまま利用していたようだ。

良くわからない技術や科学、情報やシステムで造られた都。
これは取りも直さず、現代社会そのものであると解釈する。

もちろん現代社会は機能しているし終末も未だ来ていないが、
見方によって、というか作者の感覚する社会の姿だと思う。
類似する作品は色々と挙げられるが、構造的には春樹的、
設定としては駿のナウシカ的な要素が多分に含まれている。

安全、便利、快適で進歩した都市機能を持っていた旧文明は、
その進歩の速さ故か、人としての愚かさ故か、朽ち果てた。
そんな終末世界(或いは未来世界)に生きる意味とは?

この物語は、そんな抽象的な思索の旅程の断片であり、
宗教や文化や記録や死生観への問いを思考する哲学の旅だ。

今や我々は、自らの手に負えない莫大な社会システムと、
未知の技術によって動く都市インフラに依って生活している。

しかし、見る人によって、それは朽ちかけの廃墟と相違ない。
チトとユーリが物語で出会う人間は極端に少ないが、
まともな人間性を持つ人の少なさの暗喩に思える。
(この表現が些か傲慢なことは理解している)

この崩壊しかけた都市社会に生きている人間は3種類。
旅人か、趣味人か、夢追人であり、この3種は生きている。

道中、インフラを維持管理する役割を持つ機械と出会うが、
これはそのまま機械と読むよりも、ある種の人間だと読む。

それと、その機械に飼育される食用の魚が一匹生きている。 
要するに家畜な訳だが、これもある種の人だと解釈できる。

彼女達の、これらの共感する機能を持った従属的機械と、
飼育される小さな変異を持ったの家畜との交流は意味深い。

つまり、この世界に生きているのは、5種類であった。
旅人か、趣味人か、夢追人か、機械か家畜である。

それぞれのストーリーに対しての解釈は書かないので、
少しでも興味を持たれれば、既読でも、読んでもらいたい。
こんな社会で、生きる意味や実感を探す、祈りの旅の物語を。

…旅人と神は近いという話について。
それは共に社会の外側にいるからだ。

彼女達は、崩壊しかけの社会インフラを活用しながら生きる。
社会のインフラを維持せず、使い捨て、フリーライドする。

それは自由であるが、家を持たず、不安と共に生きる道、
略奪とも托鉢・喜捨とも読めるその活動は、芸術家の道だ。
非生産的でありながら、芸術という別種の価値を生み出す。
(…可能性を秘める。また時に芸術も資本価値にのまれる。)

社会の内側でサバイバルをしながら、社会の外側に身を置く。それが旅人である彼・彼女達の生活であり、作法だ。

非生産的で、不安定で、理解され難い人種であるが、
人間が生きるために必要な、金以外の価値をもたらす。

社会生活で不足する、生の感覚を補填する外部器官として、
マレビトとして認められ、時には神として崇められる。

客は、大衆は、自らの神を自らの手で選び、崇める。
品定めし、神輿を担ぎ、時に神すら裁き、犯す。

社会生活で犠牲にした生の感覚を、
作品あるいは作者本人を祀り、回復する。
メイドインアビスのカートリッジを連想する。

社会生活や、仕事とは、生の感覚を削る行為になった。
それは、仕事の相手が、自然ではなくなったからである。
人工的なシステムや、その維持のための仕事は、人格を奪う。仕事と社会生活、作品と作者と消費者はそうして循環する。

旅人の中には、チトとユーリ、相反する性質が同居する。

チトはマクロな視点を持ち、世界の疑問や不安を見る。
それは、生き方を決める為に必要な哲学的知見だが、
情報と深淵に臨む事は、相対化と無為に近づく。

ユーリはミクロな視点を持ち、今の感覚と衝動に生きる。
生身で感じる生の実感に忠実で、頼もしい生命力だが、
その純粋さは時に残酷で非倫理的で利己的である。

僕は誰かを非難できるほどの人間ではないが、
近年の日本人は、機械か家畜か野人的すぎる。

マクロな視点を持つことは、とても辛いことだ。
大きな事を考えたとて、何ができるわけでもなく、
ただ漠然とした不安だけが募り、無力感に襲われるばかり。

それならミクロなことだけ考えて、幸せに生きる方が良い。
そうなってしまうのは、当然の道理で、否定できない。
それが今の社会を覆う、基本的な価値観に思える。

何とかそれにのまれずに生きたいと、今の私は思う。
それは、次の世代を思う事を諦めたくないからだ。

利己的に生きるだけなら、倫理も哲学も不要なものだ。
確かに複雑性を増す現代社会でそれは重荷になるが、
それを放棄した無責任な生活にどんな意味を見出す?

特に、子供を生んだり教育する気があるなら、
なおさらその責任を考える必要がある。

…とは言うものの、私自身も未だ答えはでない。

そもそも旅人とは、マクロな視点を持ちながらも、
結局は世界にコミットする社会的強度をもてず、
行きずりのミクロに生きる人間と言えるからだ。

私は、今しばらく旅人で居たいと思っている。
そのまま旅人として生き続けるか、どこかに定住するか、
それは旅路に見る希望や、哲学に依るのだろうと想像する。












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