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【歴史小説・中編】北風の賦(6)


この小説について

 この小説は、現在の神戸港に当たる、兵庫津ひょうごのつを舞台にしています。
 その地には、南北朝時代以来、「北風きたかぜ家」という商家がありました。
 明治維新に至って、その財力で大いに尊攘の志士を助けたものの、ついには身代を傾け、倒産・絶家してしまったといいます。
 しかし初めから商人だったわけではなく、そもそも武士として立身し、それに挫折したことで、やむなく商売を始めた、ということのようです。
 室町時代の半ばに、北風家は二流に分かれました。
 一方は「嫡家」、もう一方は「宗家」を名乗り、相当激しく対立していたようです。
 しかし、その二流の北風が、全てを失うことで、再び手を取り合うきっかけになった出来事があります。
 それが天正六年の「荒木村重の乱」です。
 
 この作品が一人でも多くの方の目に触れれば、これ以上の幸せはありません。
 どうぞよろしくお願いします。

本編(6)


 荒木村重は、天正元(1573)年に上洛してきた織田信長を逢坂関おうさかのせきで出迎え、
「摂津一国十三郡、それがしに切り取りをお命じあらば、一身を顧みずこれをしずめる所存」
 と大見得を切ったとされる。
 信長意地悪くニンマリして、腰の本差ほんざしを抜き放つと、膝元の饅頭を三つばかり突き刺し、村重へ差し出してのたまうには、
「食ってみろ」
 と。
「有り難く頂戴いたす」
 鋭く睨み返しつつも、体ごと口を運んでパクパクとやった次第の荒木である。
 信長もこの豪胆には大喜び、呵々かか大笑して、即座に摂津一国の仕置きを申し付けたというのだが、どうにも出来すぎたお話である。
 後日、瓦林加介が荒木本人に尋ねてみたところ、困ったように鼻で笑われたという。
「あの時分は、ちょうど武田勢が西上を始めたころであった。織田の大殿様は、ずっと供奉ぐぶしていた足利公方にも切り捨てられ、畿内近国に一人の与党もいなくなっておった。お味方したのは、ただこの村重と長岡兵部ひょうぶのみよ。むろん我らにとっても大きな賭けであった。そのような茶番を演じているひまなど、互いにありはせぬよ」
「しかし、なぜ名だたる大名たちを引き連れた公方ではなく、木沢長政きざわながまさになるかもしれぬ織田を選んだのです」
 加介はもう一歩踏み込んでみた。
「そのようなこと、いちいち訊くまでもなかろう」
 髭モジャの口元に笑みを含んで、抱き牡丹の大紋の肘を、ゆったりと脇息きょうそくへもたせかけた。
「我が心の中の小さな弥助が、そうせいと喚き散らしたからよ」
 ともかくとして、荒木村重は織田家の重臣となった。
 有言実行、と言うよりも、考える先に手が出る足が出るタチの者であるから、早速池田城から猪名川沿いに南下すると、寺内惣中そうじゅうに徳政を発して尼崎の湊を抑えた。
 さらには摂津三守護の最後の一角である伊丹へ押し寄せ、見事にその居城を攻め落として有岡ありおかと名を改めると、大改築に手をつけて自らデンと腰を据えた。
 返す刀で武庫山むこやまの有馬氏をも攻め滅ぼし、ついに摂津一円当地行とうちぎょうを成し遂げてしまった。ただ荒木の才覚のみに賭けた信長の喜悦満面たるや、思い描くに余りある。
 目出度めでたく従五位下の位階と摂津守の官途まで得ると、旧主の池田殿を与力に付けられ、反対に荒木の名字を与えてやるという離れ業まで演じてのけた。
 堂に入った風雲児っぷり、全くもって下剋上の申し子である。
 それからも村重は、信長が頻々と下す陣触れに従い、南北と言われれば南北、東西と言われれば東西へ奔走、越前、河内、大坂、紀伊へ次々に参陣して武功を輝かした。
 男一匹成り上がりの雛形、同じ時代に生を受けた者にとっては憧れの明星、まさしく摂津男子の面目を施す躍進ぶりである。

「北風の。お前にもうチイと、おれが荒木様から直々に伺った、織田家中の内輪について教えといたろう」
 濁酒どぶろくを酌み交わしつつ、加介は妙に上機嫌になっていた。
 隠れ家の板敷きで、荘左衛門は肘をついて横になっている。兵庫津のあちこちへ散らせた、手下どもの復命を待っているのだ。こうなってみれば、自分も何やらいい身分である。
 が、家にはもう半月も帰っていない。いい加減、於福のオッパイが恋しい気もするが、そんなことを言い出せる様子ではない。あいつ、六右衛門の色男気取りに、あっさり篭絡ろうらくされとらんやろうな。
「これから戦おうっちゅう敵のことを何も知らんのは、褒められたことやないぞ。彼を知り、己を知れば、百戦してあやうからず。……」
「別に、こっちから頼んだ覚えはないぞ」
「空っぽの瓢箪みたいなドタマじゃから、よく中身が入るやろう。エエッ?」
 黙って鼻くそをほじる荘左衛門を尻目に、加介のまるで見てきたような語りは続く。……

 サテ織田家中の成り上がりとしては先輩格に当たる羽柴筑前守秀吉が、一方面の部将として播磨国入りしてきた。
 天正五(1577)年十月のことである。
 東播磨の別所、中播磨の小寺こでらなど、守護赤松の一門を帰服させた秀吉は、西播磨まで出張って佐用さよう城、上月こうづき城の攻略へ取りかかった。
 備前の宇喜多は反復常ならぬクセ者だったが、とりあえずは毛利方の旗を掲げており、その触手が伸びている土地でもあった。
 果たして宇喜多の援軍も到来したが、羽柴軍は三倍を数える多勢の上、何かに取り憑かれたような攻め急ぎぶり、それはあるいは主君の信長恐ろしさゆえか、天下一統という奇態な野心に衝き動かされてのことだったか、ともかく佐用に引き続き、国境の堅城として鳴り響いた上月城をも陥落させてしまった。
「我が一命をもって、恥を忍び、筑前めに城内の助命をせよ」
 あっぱれ腹を掻き切って果てた城主の介錯首も、イキリ立った攻め手の興奮を鎮めるには全く足りなかった。羽柴勢に加わっていた小寺官兵衛かんひょうえの命により、城内の者は老若男女問わずことごとく殺害された。猫の子一匹さえ命を助けられなかったという。
 秀吉は一旦安土あづちへ帰り、信長に播磨平定を報告した。そうしてまたすぐに小寺官兵衛の姫路城へ戻ってくると、播磨国内の諸城主を加古川かこがわへ招集し、宇喜多および毛利に対する軍評定いくさひょうじょうを催した。
 その席上、別所の名代みょうだいが秀吉に対して糾問に及んだ。
「筑前守殿の手勢は、上月が降ったのにもかかわらず、城内の者を残らず皆殺しにしたとか。相違ないか」
「小寺のやつが、後難を排するため、そうした方がよいと申したものでの」
 日輪の軍配で扇ぎつつ、涼しい顔で答えてのけた。
「居城の本丸まで譲り渡した新参者に、責をなすりつけられるのか」
「責だと、責など何もない。ただ事実を申したまでのことよ。我らは勝った。そうしてこれからも勝つ。ただそれだけのことよ」
「播磨諸城の主は、元をたどればみな赤松の一門じゃ。その名誉も守らず、女子どもまで根絶やしにしたことに、詫びの一言もないのか」
「詫び。なぜわしが、そなたに詫びねばならん。たかが田舎の小城一つの話であろう」
「たかが小城と申したな」
「ならばおのれらは、一門挙げて惣領を盛り立て、自分らの手で播磨一国を成敗すればよかったんじゃあねえか。それができなんだから、そなたは今ここで下座につき、この秀吉の指図を受けておるんじゃろうが」
「指図を受けた覚えなどない。飽くまでも、勢い盛んな織田と盟約を結んだまでのことじゃ。成り上がりの猿ごときが、のぼせ上がって勘違いいたすな」
 名代は文字どおりに席を蹴り上げ、憤然として本拠の三木城へ帰った。
 そうして若き当主の別所長治ながはるに、羽柴の傲慢と織田の危険を口を極めて訴え、ついには離反を決意させた。既に丹波で決起していた波多野が、妻の実家ということも与って大きかったであろう。

 天正六(1578)年正月。
「毛利の両川りょうせん」と並び称される小早川、吉川率いる六万もの大軍が、播磨西端の小さな上月城へ押し寄せた。
 秀吉は城外でこれと対峙したが、翌月に別所の寝返りと播磨諸将の同調が伝えられると、城を捨てて三木へ急行した。
 秀吉は安土へ救援を求め、これに応じて信長の子息たちや、惟住これずみ、滝川、惟任これとうといった諸将も援軍に駆けつけた。播磨の各地で一進一退の攻防が繰り広げられたが、いずれも毛利方の強靭な備えを打ち破るまでには至らなかった。
 ところで、荒木村重と摂津勢は、これら秀吉の戦役にもイチイチ律儀に従軍していた。
 元々播磨の成敗を任され、小寺の取次も担っていたのは、隣国の摂津を領する村重であった。
 備前の宇喜多が寝返り、味方が窮地へ追い詰められると、その救援のために長駆せつけたのもまた、有岡城の村重であった。
 にもかかわらず、頭越しにやってきた羽柴秀吉は、別段土地に明るいわけでもなく、我流を振りかざして西国一帯を引っ掻き回している。
 それを補うために小寺官兵衛などを用いてはいるが、上月の虐殺、別所の離反、播磨諸城の蜂起などといった不手際は、おのれならば決して起こさなかったと思うにつけ、村重の憂憤もいよいよ募った。
 晩夏六月、秀吉は転進した先の三木城まで攻めあぐねていた。
「かくなる上は、一旦書写山しょしゃざんまで引き退き、まずは周辺の支城を攻め潰してゆくぞ」
 援軍諸将を総動員して神吉、志方、高砂といった小城を陥落させ、三木城の糧道を断ったが、毛利の大軍によって上月城が陥落し、取り残された守兵は一人残らず討ち死にした。
 諸将が陣払いしてそれぞれの領国へ戻ってゆくと、村重も別に羽柴の与力ではないこととて、疲れきった足取り重く有岡城へ帰った。織田方の陣ではその様子を嘲笑い、
「あら木弓 はりまの方へ 押し寄せて いるもいられず 引きも引かれず」
 との狂歌が口ずさまれていたという。

 初冬十月。
 村重は毛利、足利公方と連絡をつけ、大坂本願寺から知行安堵を口添えする旨の起請文きしょうもんを受け取った。
 ところが、一体どこから漏れた話か、ほんの数日後には「荒木摂津守謀反むほん」の雑説ぞうせつが飛び交っていた。
 中国攻め総大将の羽柴秀吉には、てんで与り知らぬことである。すぐさま安土おもてへ注進に及んだ。
 寝耳に水を差された信長の方こそ大慌て、
「なんぞまた、サルめがくだらんトチリをしよったか」
 と、いつものカンシャクを爆発させたという。
「荒木に不平があるなら、重々聞き届けてくれる。ともかく一度安土まで出頭せよ」
 そうして堺奉行の松井友閑ゆうかん、小姓の万見まんみ仙千代、さらには山陰攻め総大将の惟任日向守光秀みつひでを有岡城へ遣わしてきた。
 光秀は、村重の嫡子にとって岳父に当たる。要するに、重臣同士で姻族になっていたわけだ。
摂州せっしゅう、此度の仕儀はいかなることか」
 余人を排し、二人きりになった奥の間で、使者はまず型どおりに詰問してみせた。
「そなたが叛すれば、我が娘はどうなる。良くてやもめ、悪ければ連座の憂き目に遭うであろう」
 色白で細面の光秀は、オチョボ口に細い目を釣り上げている。だがその調子にどうも真心がこもっておらず、方便を弄しているという印象が拭えない。
「上様はあれでいて、器用の者が心底悔い改めれば、許さないではおられぬ。松永弾正の例を引くまでもあるまい。そなたはまだ充分、器量人と見なされておる」
あにイも、よくよくわかっておろう。織田の課してくる賦役軍役に応え続けていたのでは、摂津の者たちは到底もたん。痩せ細って死んでゆくばかりだ。わしはその手先になるのが忍びない。実際、下郡の郷民どもからは、今か今かとせっつかれておるくらいだ」
「それらとて、永久に続くわけでもあるまい」
「いつまで続くのだ」
「さア、明国を滅ぼすくらいまでかなあ! その後は流石に、現地の兵を使っていくだろう」
「本気で言っているのか」
 村重は思わずのけぞった。が、光秀の方はテッキリ涼しい顔のままである。
「それはこちらの台詞だ。そなたは摂津一国の王にでもなりたいのか」
「この国で生まれ育ったわしが治めてゆくことこそ、摂津の者どもにとっての幸福なのだ。少なくとも織田の手駒として、終わりのない戦に駆り出され続けるよりはな。毛利や本願寺には、それを認める用意がある」
「そなたとて、今の知行を得るまでには、相当の無理を押し通してきたじゃあないか? 主家を乗っ取り、主人を追放し、守護を討ち取り、上様に与同して公方を追いつめ、今は播磨人の味方づらをしているが、赤松一門の有馬だって滅ぼした」
 村重は思わず黙り込んだ。反論はできない。
「ただそなたの場合は、そこで立ち止まってしまった、というだけのことよ。上様にとっては、この国の全部を従えてもまだまだ足りぬ。小粒なばかりで同類のそなたが、今さらもっともらしい道義を口にしたとて、誰も耳を傾けてはくれぬぞ」
「それでも構わん。我が身可愛さと後ろ指差されようが、わしは摂津の民とともに生きて死にたい。そのためならばいくらでも戦おう。いかがだ、いっそのこと兄イも毛利につき、丹波一国で一族を養えばよいのではないか」
「わしが上様を裏切ることはない」
 光秀はニベもなく断言した。
「なぜだ。勝って、勝って、勝ち抜いて、その果てに言葉もわからん異国で野垂れ死ぬとしてもか」
巧兎こうと死して走狗そうく煮らる、とは、大昔からある言葉よ。秦始皇の蒙恬もうてん、漢高祖の韓信かんしん、洪武帝の徐達じょたつ。みな同じことよ。だがなア、戦い続ける先が尽きぬのならば、それも無用の心配ではないか? 未だかつてこのせせこましい国に、そのような人間の現れたことがあったと思うか? 文字どおりに空前のことよ。この歴史の一部として生きているのが、わしには震えが来るほど楽しいのでなア」
「やはりどうやら、折り合いはつかぬようだ」
「む。そういうことであるな」
 使者は袴の膝を伸ばし、あっさりと座から立ち上がった。
                           〜(7)へ続く

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