最近、ポイ活にはまっています。 収益のために様々なキャンペーンありがとうございます。 ポイントをもらいながら、商品の魅力を知る。 私は、拙いながらも共有させていただく。 そう決めました。 今ガストにいますが、そう決めました。 もうネガティブな言葉なんていらない。 あぁ。
「辰巳 監督。 吹奏楽部が甲子園地方大会とかで演奏するのをやめてから、自分たちが 取りくみたい音楽に本腰を入れて演奏する時間を増やすことができました。 本当にありがとうございました」 愛子は改まった様に上目遣いで辰巳を見ると微笑んで 頭を下げた。 昼下がりの野球部室には グラウンドから秋の光が差し込み、鉢植えにしたシダ植物を照らしている。 この野球部ではシダ植物が勝利に導く 神草であると崇められている。 愛子と同じ 吹奏楽部の悠太が シダ植物 愛好家であることから 、
仕事休みに適当に映画を観たりしていれば、それなりに時間は過ぎる。 時間つぶし目的だと自分の人生は 何も変わらなく、ただ 休日が終わる。 だからと言って、無 気力だと行動を起こすのはしんどい。 こうやって文字に起こすと何か 達成感があるのは事実。 とにかく好きな動画でも観て笑って 、自分で足つぼを押して、うまいもの食べたり飲んだりする。 サブスクの映画や雑誌は寝る前でよくないか。 あぁ、大学の時にお世話になった 学生相談室のカウンセラーに手紙を書くのもありだな。
学生時代は強迫性障害で苦しみましたが、東北から上京して初めて住んだ街が「堀切菖蒲園」。 あぁ、懐かしい。 山盛りもやしに、濃いラーメン二郎は衝撃だった。 赤札堂 「あかふだどう」って読めなくて「あかさつどう」って読んだり。 強迫性障害の症状があったから、何度も何度も来た道を振り返り、自分とすれ違った人が私に倒されたりせずに歩いているかどうか確認した日々。 絶対、私は誰よりも振り返っただろう。 私の「堀切菖蒲園での振り返り率」は、全体でもダントツ1位だと思う。
お尻を出して、しゃがみこんでいる婦人がいたので、悠太は思わず自転車のブレーキをかけた。 「あれ、いつもやってんだ。小便たれなんだ」 彼に気づいた年配の男が話しかけてきた。 どこのチームだか分からない野球帽を被り、つなぎの裾は泥で汚れているので田んぼか畑で作業をしていたのだろう。 高校生の悠太は彼女の体調を気遣うというよりは、思春期特有の好奇心があったので停まることと相成った。 「はぁ」 彼は男に向かってそう言い、安堵する。 例えばこの男に「のぞいているだか?!」
「高校から初めてサックスを始めるなんて無謀すぎたもうやめる。」 愛子は吹奏楽部の退部届けを 持ってきており 、その意志は硬かった。 「あいつが言ったことなんて気にするなよ。楽しくやろうぜ とは言わないけど。期待してなきゃ叱らないんでさ」 悠太は自分が愛子を 吹奏楽部に誘ったことに責任を感じていた。この調子ではいずれ、学校にも来なくなるのではないか。 とりあえず彼女の足裏をほぐさなければ。 将来 足つぼマッサージ師を目指している悠太は、愛子に靴下を脱いで足を机の上にあ
40代の現在、私が強迫性障害を完治 しつつあるのはどの治療が効いたのかと考えてみました。 20代の頃のプラカード持ち・サンプリング(チラシを配る)スタッフは、そんなに体を動かす業務ではないので、 動かないのはあまり良くないのかなと。 その後、ある遊園地でアトラクションを動かすオペレーターをやってました。接客もするので、ある程度体を動かし 、アトラクションの締め作業とか、なかなか定時に締めることができず、時には周りに迷惑をかけることもありました。 パートまで経験して契約社
実話なのですが、 私が小学校5年生の時 近畿地方の ある 県から 女子が転校してきました。 私はその子を好きになりました。 6年生の時もその子と同じクラスになりながら 、その思いは実りませんでした。 隣村に新築住宅を建てた関係で、私は中学校からその子とは別れ、進学することとなりました。 昔、進研ゼミの入会案内の郵便物の中に漫画が入っていたのをご存知の方いらっしゃいますか?その漫画には幼馴染の女子が主人公の男の子のそばに住んでいて、その子から少年は 進研ゼミを知り、自分も始
強迫性障害が 完治に近づくと、こんな風にnoteに文章をどんどん 投稿できるのも、「できる様になったことリスト」の一つとなります。 症状がピークの時は 文章を何度も見直し、 接続詞はこれだ 、語尾は「である」だと、なんだかんだと変なこだわりがあり 、時間 ばかりかかっていました。 症状には映画を何度も何度も巻き戻して役者の言葉を一つ一つ 拾わないと気持ち悪いとか、本を何度も何度も前の ページに戻って確認するので 全然 進まないとか、 1日1本の映画を巻き戻して始めから再生
大学の時悲しかった思い出の一つに、クラスの飲み会に誘われた時、自分が喋っても ワン リアクションで終わり、 気づいたら周りで盛り上がっていて 取り残された中で、抗うつ薬をソフトドリンクで流し込んで 誰にも言わず その場を後にしたというものがあります。 私が強迫性障害になった原因の一つに父親による虐待 もあげられる。 精神的にも肉体的にも虐待を受けて、自分にまるっきり自信を持てなくなってしまった。 自己肯定感の極端な低さのために、人と会話をする上でも遠慮がちとなってしまう。
小学生から強迫性障害に発症し、高校・大学時代をピークに、20代のプラカード持ちスタッフ、サンプリング・ポスティングスタッフ・警備員を経て、30代に転職して契約社員・社員、結婚・子育てで現在に至り、完治したとは言えないが、今はだいぶ落ち着いています。 今回の第一回目は、私が苦しんできた強迫性障害の行動に伴う執着というところを紹介していきます。 大学進学のために上京して一人暮らしを始めるのですが、外出する時にガスの元栓や鍵をしめたかどうかを何度も何度も確認して、なかなか外出で
3年ぐらい前の夏、YouTubeの、とあるお二方の引き寄せの法則的な動画にのめり込んでいる時期があった。 私にスイッチが入ると信者になる時期があり、 疲れると離れてしまう。現在はかなり距離を置いてしまっているが、当時は宝くじのビンゴ 5で5万円が当たったり、これから書く 不思議なことなどが起きたりしているので、今から始める価値はあるかもしれない。 当時、会社から貸与されているスーツの襟元につけるき章を紛失していて、小さいから失くしてしまってもしょうがないと理解は得られると
プラカードを持ってお客様のお店への案内業務をしている間、私は派遣会社からの言いつけを守り、携帯を見ず、見た目では音楽を聞かずに真面目にこなしていた。 見た目で音楽を聞かないとは、前回の投稿でも書いた通り、シャツの二の腕あたりに缶バッチに100均で買ったイヤホンを貼りつけ、その上にシャツやジャンパーを着て看板を持ち、そこに耳を押し当てて聴いていたものだから。 そこの所はプロとしての責任感と、プライドがあったのだ。 派遣先によっては、看板を持ちながらチラシを配る様にと依頼さ
過去に私は道ばたでプラカードを持って、派遣先をPR・案内するアルバイトをしていた。 10年程続けたので、この道のプロである。 私が派遣先に案内したお客さんを契約に結び付けたこともあった。 「あなたが看板を持っていたから契約しました」 今となっても忘れない出来事だ。 派遣先から、うちの正社員にならないか、と言われたことも数回ある。 せっかくだけど、お断りした。 当時私ができるのはプラカードスタッフか、サンプリング・ポスティングスタッフのみであると自分に限界を設けてい