見出し画像

エーリッヒ・フロム「愛するということ」 │ 愛は技術である



愛するということ「愛は技術である」

人は生まれながらに愛する技術は備えておらず、後から努力で手に入れられるものだとフロムは言っています。

まずは、「愛とはどのようなものか」「なにが大切なのか」について簡単に説明していきます。

この書籍は多くの方々が感想、要約をネット上に投稿しています。
愛について初心者の解釈として、読んで頂けると嬉しいです。


愛は「与えられる」ではなく「与える」もの

愛とは「自分が相手に与えるもの」であると言います。
よく、人は「どうやったら人に好かれるだろう」と考えがちです。
人気の雑誌にも「これをする女子は好かれる!」「こんな男子はモテる!」といった特集が組まれますよね。
一度は目にし、参考にしたことがあるのではないでしょうか。

しかし、この考え方は愛に必要なものではありません。


相手に与えるってどういうこと


この答えはとても広くて複雑です。
よくある誤解は、与えるとはなにかを「諦める」こと、犠牲にすること、損すること、などという思い込み。
他人を利用する存在だと思っていたり、自分がなにかを与えられるべきなどと考えている人は、そんなふうに受け止めています。

大事なことは、「主体性」です。

◆残念な愛・・「愛されるからあなたを愛する」
◆本当の愛・・「あなたを愛するから愛される」

受け身ではなく、自分から動こうという積極的な感情が生まれてくるのが「愛」なのだといいます。

自分も愛せるようになることが大切

ではどのようにしたら人を愛せるようになるのか?
という疑問への答えの一つが、「自分も愛せるようになろう」ということです。本書ではもっと深く追求されていますが、あまりに多く語りきれないので私自身に響いたところだけお伝えします。

他人を愛するためには、まずは自分を愛している必要があるといいます。

◆よくある誤解
自分を愛するというと、「ナルシスト」になれってことか?
と思うかもしれませんが、それは違います。

本書では、利己的主義と自己愛は「愛」という意味でまったく別物、正反対のものと説いています。

解説していきましょう。
利己的主義とは、自分の利益を優先させる考え方です。
自分以外の世界を「わたしになにを与えてくれるのか」という視点でしか捉えません。相手の好きなものや考え方に興味がない。自分の役に立つかどうかで全てを判断します。

一方で、自己愛のある人は自分のすべてを肯定しています。
自分はこれで良いのだと自信を持てるから、愛や能力を惜しみなく愛する対象へ与えることができるのです。

フロイトによれば、「利己的な人間はナルシシズム傾向が強く、いわば自分の愛を他人から引き上げ、自分に向けている。たしかに利己的な人は他人を愛せないが、同時に、自分のことも愛せないのである。」と語っています。
ここで、自己愛がない人についても少し触れていきます。


◆自己愛がない人の特徴
自分を好きでない人は、誰かに愛されたときに「これは条件付きの愛だ」と捉えます。
例えば、「この長所があるから愛されるんだ」「愛される価値があるから愛されるんだ」などがあります。
ありのままの私が愛されているのではなく、相手が私の~を気に入ったから愛されているだけなのだ、という解釈になるのです。

一人でいられる能力が必要

「一人でいられる能力」は、人を愛するために必要なもう一つの大事な要素です。
「恋愛依存」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。
本書では、「依存」は愛の関係ではないと言ってます。
※「自分の足で立てないという理由で他人にしがみつく」という表現を依存と解釈しています。

現代社会で、「一人でいられる能力」を養うのは相当大変です。
なぜなら、SNSが普及しすぎているから。あなたのスマホにも、Twitterやインスタグラムなどインストールされていませんか?このnoteも(笑)

家に一人だったとしてもTwitterやインスタグラムで誰かと繋がっていれば「一人でいられる能力を発揮している」とは言えません。
試しに、一切のSNSを封じてみましょう。
どうでしょう。ムズムズして、携帯を開けたり閉じたり、はたまた意味のないアプリを開けては閉じたりしませんか?

20台前半からミクシィに始まり、Twitter、Facebook等のSNSツールが一般化してきました。なので、今になってSNSを封じようとするとまるで禁断症状が起きたかのように苦しくなるのです。私よりも若い世代の方は特にそう感じるでしょう。

苦しさを克服し、自分ひとりの時間を集中できる人こそ「一人でいられる能力がある」と言えるでしょう。
本書では、集中するために「瞑想」が効果的であることを言っています。瞑想はよく出てくる言葉ですね。内容は割愛します。

「間違った現代の愛」

では次に、多くの人がよくしてしまっている「愛の間違い」を紹介していきます。結構驚いたというか、図星をつかれたものだったのできっとみなさんにも刺さる内容だと思います。3つに分けて説明します。

愛の問題を「愛される」問題だと思っている

恋愛できないことを「相手を愛せないから」ではなく「自分が愛されないから」と思っていることが間違い1つ目です。

「愛は技術である」
愛とは「たまたま自分を愛してくれる人と出会えた」というような奇跡ではありません。
他者を愛せる能力、そして技術があれば上手な恋愛をすることができるのです。

しかし、ここに気づけていない人が私も含め多いと思います。

「自分が愛されないから恋愛ができないんだ」と考える人たちは、以下のように考えます。

◆人からモテるためにはどんな服装をしたらいいのだろうか
◆聞き上手になるためにはどんな相槌、話の展開をしたらいいのだろうか
◆色気を出すためには、どんな香水をつけたらいいだろうか

すべて、「相手から自分がどう見えるか」に重点が置かれている考え方です。確かに上記は人間関係を良好に保っていく上で大切なこと。

しかし、本当の恋愛をする上で、これらの手段としては大きく間違っています。

愛の問題を「対象」の問題だと思っている

人を愛することは簡単。しかし自分が愛せる相手/愛されたいと思える人を見つけるのはむずかしい、と思っていることが間違い2つ目です。
この考え方は、社会の発展にいくつか関係していると言います。

◆昔の恋愛
昔は結婚する相手を親同士がきめたり、「お見合い」をしたりなど他者に取り決められていました。「結婚したら愛が生まれる」と考えられていたそうです。

◆現代の恋愛
ところが、今はほとんどの人が「恋愛」の延長に結婚があると考えています。自由な愛に変わっていったことで、愛する能力から愛せる対象の方が重要視されるようになっていったのだと言います。

確かに、現在主流のマッチングアプリも「相手を選ぶ」ことから始まります。自然と仲良くなるのではなく、対象を選ぶことからすべてが始まる現代特有の恋愛において、この間違いは知っておくのは必要だと感じています。

いずれにせよ、ふつう恋愛対象は、自分と交換することが可能な範囲の「商品」に限られる。だから「お買い得商品」を探すのです。

(中略)このようにふたりの人間は、自分の交換価値の上限を考慮したうえで、市場で手に入る最良の商品を見つけたと思ったときに、恋に落ちる。

「愛するということ」エーリッヒ・フロム

「愛する」ことと「恋に落ちる」ことが混同している

一人の人を持続的に「愛する」ことと、「恋に落ちる」という最初の体験を混ぜて考えていることが3つ目の間違いです。

見知らぬ他人とふいに親しくなったり、性的な関係から交際が始まった時がもっとも心が踊る「恋の落ち方」だと言います。

しかし、これは長続きしません。
相手のすべてがキラキラして見えていたところから、だんだんと嫌なところが見え始めます。そして反感や失望が生まれ、倦怠期に突入し、最初の興奮が跡形もなくなってしまう。

こうした結末がありながら、最初の段階で熱烈にお互いのことを思い合っていることを「愛だ」と思い込んでしまうのです。

しかし、本書ではこう述べています。

(中略)たがいに夢中になった状態、頭に血がのぼった状態を、愛の強さの証拠だと思いこむ。だが、じつはそれは、それまでふたりがどれほど孤独であったかを示しているにすぎないかもしれない。

「愛するということ」エーリッヒ・フロム


孤独が熱烈な恋のスタートを生む。けど、長続きはしない。この言葉、刺さります。

「愛に必要な4つの要素」

愛は「与える」ものでしたが、それ以外にも大切な要素が存在します。
それが、「配慮」「責任」「尊重」「知」の4つです。

◆配慮
配慮とは、愛する人の命と成長を積極的に気にかけることです。
友人が飼っている犬を好きだと言っていたとします。
しかし、彼がペットに食事や水を与えるのを忘れているのを見てしまったら、私たちは「え、本当にペットのこと大切なの?」と思いますよね。
愛とは、相手のために自分が動くことです。
それは労働であるかもしれないし、家事や育児かもしれません。

◆責任
責任とは、相手からなにかを求められたときに、それに応えることです。
子どもから悩みを打ち明けられた母親は、自分の経験や知識を持ってどうにか解決できないかと一緒に悩み始めるでしょう。
人を愛せる人は、自分自身に責任を感じるのと同様に、愛している相手にも責任を感じられるのです。

◆尊重
尊重とは、相手が唯一無二の存在であることを知り、その人らしく成長していけるように気遣うことです。
これが欠けていると、相手を自分の所有物・支配するものとして捉えてしまうことになります。難しいのは、後者の「その人らしく成長していけるように気遣うこと」でしょう。
なぜなら、気遣うためにはまず自分自身が自立していないといけないからです。前述した「一人でいられる能力」にもつながる話です。
私は一人でも生きていける。誰かを利用したり支配したりする必要なんてない。
というフェーズに達したとき、他人を本当の意味で尊重できるようになります。

私は、愛する人が、私のためにではなく、その人自身のために、その人なりのやり方で成長していってほしいと願う。

「愛するということ」エーリッヒ・フロム


◆知
相手を尊重するためには、まず「知る」必要があります。
愛の「知る」とは好きな食べ物、休日の過ごし方、などといった表面的なものではありません。
もっと核心に迫るもので、言葉で表現するのはなかなか難しいです。

相手を知れると、表には出さないけれど怒っていることがわかったり、不安になっているとか、孤独だとかがわかると言います。
人は誰しも「この人はどのような芯をもっているのだろう」と知りたがります。奥底にある他者の芯を知るための手段は2つあるのです。
1つはサディズム・支配的な方法、もう一つがセックスによる方法。
愛するもの同士は、セックス(結合の体験) によって相手を芯まで知ろうと試みようとします。


刺さった愛するための勇気

愛するためには、人格が生産的な段階に達していなければならない。

この段階に達した人は、依存心、ナルシシズム的な全能感、他人を利用しようとか、なんでも貯めこもうという欲求をすでに克服し、自分のなかにある人間的な力を信じ、目標達成のために自分の力に頼ろうという勇気を獲得している。

これらの性質が欠けていると、自分を与えるのが怖く、したがって愛する勇気もない。

「愛するということ」エーリッヒ・フロム


自分を愛して持つ力を信じながら、それらを他者に与えられることこそが愛。とすると、私自身になかったことが明白になりました。
それは、「自分を愛する力」がなかったということです。
自己肯定感、とも言い換えることができるでしょう。
私は私のままで良いのだ。唯一無二の存在なのだから、という考え方です。(この点に関しては、ずいぶん前から気づいていた)

私はなんのために生きているのか?
社会の型にはまった生活をしていると、自分が何者でなにの為に生きているのかわからなくなることがあります。

そんな時って、だいたい自分が存在する意味を見出そうとしているんですよね。社会において一人ひとりが存在している意味ってそんなにないですよ(笑)。別に私やあなたが欠けたとしても、変わらずに経済は回り続けます。

しかし、「私」に視点を戻すと自分に与えられた今日は一度きりしかなく、人生も一度きりです。

今日という日をどのように自分は過ごしたいのか。そして、どんな未来を描いていきたいのか。今一度、「自分」という視点にたって見つめ直すきっかけが必要かもしれません。

その中で、自分がもっと成熟し、人を愛する技術を身につけられたらどんなに幸せかと想像します。

結論、愛とはなにか


結論、愛するということは「相手を信じ、相手のために自分から行動を起こすこと」です。

信じるとは、以下のことが含まれます。

相手のふるまいや考え方、価値観を信頼できて、変化しないものと確信する

自分が与える愛は素晴らしいもので、相手の中にも愛を生むことができると確信する

愛する人がこれから人間的に成長していくと確信する


人を愛することは、簡単ではありません。


しかし、意識して自分を成長させることで、技術を獲得できます。

私は、もっと人を愛せるようになりたい。

そして、ここまで読んでくれたあなたへ。

「愛し方を知りたい」
「愛をもう一度考えたい」
「人を愛せない自分を変えたい」

そう願う意欲的で努力家なあなたは、本書を一読したほうがいいのかもしれません。

おわりに

最後にまとめとしてフロムの言葉を引用します。

人は意識の上では他者に愛されないことを恐れているが、本当は、無意識のうちに<愛すること>を恐れているのである。

愛するということは、何の保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望を信じ、自身をゆだねることである。

愛とは信念の行為であり、信念を持たない人は愛することもできない。

「愛するということ」エーリッヒ・フロム

最後まで読んでいただきありがとうございました。

この記事が参加している募集

読書感想文

最近の学び

サポーターも嬉しいですが、よければフォローお願いします! 嬉しすぎて鼻血が出ると思います(/・ω・)/